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藤原定方墓 (京都市山科区) Grave of Fujiwara no, Sadakata |
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藤原定方墓 | 藤原定方墓 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 亀趺 |
勧修寺の南に位置する鍋岡山(なべおかやま)の北西麓に、平安時代前期-中期の公家・藤原定方(ふじわら-の-さだかた)の墓がある。 百人一首の「名にしおはばあふ坂山のさねかづら」の歌で知られる。 なお、鍋岡山山頂には定方の父・藤原高藤(ふじわらの-たかふじ)の墓、碑が立つ。 ◆歴史年表 平安時代、932年、旧8月4日、藤原定方は亡くなる。旧8月11日、従一位が追贈された。(『日本紀略』『貞信公記』) 江戸時代、1723年、現在の墓碑が立てられている。 ◆藤原 定方 平安時代前期-中期の公家・官人・歌人・藤原 定方(ふじわら-の-さだかた、873-932)。男性。右大臣、三条右大臣。内大臣・藤原高藤の次男。母は宮道弥益の娘・列子。姉か妹に胤子(いんし)。娘・仁善子(三条御息所)は、醍醐天皇の女御、藤原実頼の妻になる。892年 、内舎人になる。902年 、 内裏菊合に参加した。906年、従四位下参議右中将、909年、参議、913年、従三位中納言になる。亭子院歌合に参加した。919年、右大将、920年 、大納言、921年、正三位、923年、東宮傅兼任。924年、右大臣になる。926年、従二位(公卿補任)に叙せられた。932年、没後、従一位を追贈される。8月1-4日には、定方の忌日として勧修寺で法華八講が営まれていた。60歳。 墓所は、勧修寺(山科区)、鍋岡山麓(山科区)ともいう 邸が三条坊門小路北面にあり、三条右大臣と呼ばれる。醍醐天皇の外家として権勢を振るう。歌人として歌集『三条右大臣集』がある。『後撰集』『新千載集』に採られた。藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒らと交流した。管弦の名手としても知られた。 ◆墓 墓所については、勧修寺(山科区)にあるともいう。(『山城志』、江戸時代、1734年) 江戸時代中期、1723年に立てられた現在の碑文銘には、墓は山城国宇治山科郷鍋岡下にあるとしている。(『宇治郡名勝誌』) 墓石は亀趺(きふ、霊亀)の上に立つ。上に「三條右大臣墓碑」と刻まれている。高さ2m。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都市の地名』、『山科の歴史を歩く』 、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都山科 東西南北』、『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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