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宮道列子墓(宮道古墳) (京都市山科区) Grave of Miyaji no, ason Resshi |
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宮道列子墓 | 宮道列子墓 |
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![]() 「宮道朝臣列子墓」の石標 ![]() 円墳 ![]() 宮道朝臣列子墓 ![]() 「贈正一位宮道朝臣列子墓」の石標 |
中臣(なかとみ)神社の直ぐ東に小高い丘上に宮道列子墓がある。「宮道朝臣列子墓(みやじ-の-あそん-れっし-の-はか)」の石標が立つ。石段の上には、新しい五輪塔が立てられている。 丘は考古学的には「宮道古墳」と呼ばれ、一帯に分布する「中臣十三塚古墳群」の一つになる。 ◆歴史年表 変遷の詳細は不明。 平安時代中期、907年、10月17日、宮道列子は亡くなったという。勧修寺栗栖野に葬られたという。(『宇治郡名勝誌』)。墓は「後小野墓」と称された。この地に葬られたともいう。詳細は不明。 近代、1868年頃、列子の御陵は私有地になる。 1890年、墳上に石碑が建立された。 1933年、9月、勧修寺宮旧臣・永田重泰が、この地を勧修寺に寄進する。 現代、1971年、この地の西に、「中臣十三塚古墳群」の一部が発掘された。 1972年、6月、洛東ライオンズクラブにより、「宮道朝臣列子墓」の石標が立てられた。 2007年、現在の五輪塔が立てられる。大宅寺にある列子の両親の搭と同寸の搭という。 ◆宮道列子 平安時代前期-中期の宮道列子(みやじ-の-れっし、?-907)。山城宇治郡の郡司・宮道弥益(いやます)の娘。藤原高藤(たかふじ)の妻になり、胤子(いんし)、定国、定方らを産む。884年頃、胤子が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。列子は天皇の外祖母になる。従三位、贈正一位追贈。 墓は「後小野墓」と称された。 ◆墓・中臣十三塚古墳群 宮道朝臣列子墓は、『延喜式』諸陵寮の「後小野墓(のちのおののはか)」と伝えられている。ただ、確定されていない。2007年に、現在の五輪塔が新たに立てられた。大宅寺(山科区)にある列子の両親の搭と同寸の搭という。考古学的には、宮道古墳と呼ばれ、「中臣十三塚古墳群」に含まれている。古墳時代の円墳であり、周囲に堀(周溝)がある。東西26m、南北29m、高さ3.6mある。 1971年、この地の西に、「中臣十三塚古墳群」の一部が発掘され、周濠、横穴式石室基底部、須恵器などが出土した。古墳時代後期、6世紀末-7世紀前半のこれらの小古墳の遺跡群は、栗栖野丘陵地の現在の西野山中臣町、勧修寺西栗栖野町にあった。 「鎌足塚(十三塚)」と呼ばれ、藤原鎌足の殯舎(ひんしゃ)跡と伝えられていた。12の小円墳の遺跡群は、その後の宅地開発により大部分が消失している。現在残る墳丘は、折上神社境内の円墳「稲荷塚古墳」、この円墳「宮道古墳(宮道朝臣列子墓)」の2つだけになる。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 碑文、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都大事典』、『山科事典』、『掘り出された京都』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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