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法厳寺 (牛尾観音)・音羽山 (京都市山科区) Hogon-ji Temple |
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法厳寺 (牛尾観音) | 法厳寺 (牛尾観音) | ||
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![]() 黒門 ![]() ![]() ![]() 参道、思案辻 ![]() 「登牛尾山 釈顕常」の詩碑 ![]() 手水屋 ![]() 本堂 ![]() 本堂、香炉 ![]() 本堂、蟇股、龍の彫物 ![]() 本堂、木鼻 ![]() 本堂 ![]() ![]() ![]() ![]() 庫裏 ![]() 庫裏、「牛王山」扁額 ![]() 護摩堂 ![]() 護摩堂の扁額 ![]() 大杉堂 ![]() 大杉堂、「大杉坊」扁額 ![]() 大杉堂、「宇賀神」の扁額 ![]() 杉のご神木 ![]() 釣鐘堂(空の道場) ![]() 寺務所 ![]() 霊水、金生水 ![]() 霊水、金生水、観音像 ![]() 鎮守社 ![]() 経塚 ![]() 地龍王神 ![]() 黒泥窟(黒泥巌) ![]() ![]() 閼伽井、金生水 ![]() 天龍王神 ![]() 天龍王神(風の道場) ![]() 天龍王神 ![]() 天龍王神 ![]() 天龍王神 ![]() 大弁財(識の道場) ![]() 放生池 ![]() 五智瀧 ![]() 五智瀧(水の道場)、滝行場 ![]() 五智瀧 ![]() 五智瀧 ![]() 役行者・神変大菩薩 ![]() 御砂踏場の道場、南無大師遍照金剛 ![]() 御砂踏場の道場、観音像 ![]() 藤原顕孝の歌碑「牛の尾や 春はのるまにかつ消えて まだらに萌ゆる 峯の白雪」(「三井集」) ![]() 境内近くの峠 ![]() 峠よりの北の眺望 ![]() 境内のある牛尾山
![]() 鎌研ぎ橋 ![]() 大師堂、大日如来、弘法大師が安置されている。空海は牛尾山で修行し、等身大の自刻像を残したという。 ![]() 大師堂 ![]() 大師堂、弘法大師が休んだという腰掛石 ![]() 牛尾山十八丁の丁石 ![]() 弘法大師像、経岩(お経岩) ![]() 経岩(お経岩) ![]() 「夕されば 松吹く風の 音羽川 あたりも涼し 山の下かげ」(後西園寺入道、「続後拾遺集」)、西園寺公経(さいおんじ きんつね、1171-1244)は、平安時代、鎌倉時代の公卿・歌人。 ![]() 「音羽河 雪げのなみも 岩こえて 関のこなたに 春はきにけり」(藤原定家、「内裏名所百首」)、藤原定家(1162- 1241)は鎌倉時代初期の公家・歌人。 ![]() 夫婦ノ滝 ![]() 不動尊 ![]() 不動尊 ![]() 不動尊、湧水がある。 ![]() 「鳴(なる)神の音羽の滝やまさるらん 関のこなたの夕立の空」(中務のみこ、「夫木抄」)、宗尊親王(中務のみこ)(1242-1274)は、鎌倉時代の皇族、歌人。 ![]() 音羽ノ滝(布引滝) ![]() 大蛇塚 ![]() 大蛇塚
![]() 【参照】法厳寺の里坊、山科区音羽中芝町にある。 ![]() 【参照】 ![]() 【参照】 |
山科音羽の法厳寺(ほうごん-じ)は、音羽山の西南にある支峰・牛尾山(うしお-やま)の中腹に建つ。 かつては「清水寺奥の院/奥之院」といわれた。「厳法寺(ごんぽう-じ)」とも称された。通称を「牛尾観音(うしお-かんのん)」、「牛尾山(うしのう-ざん)」ともいう。山号はかつて牛尾山、現在は牛王山(うしのお-さん)という。 単立の本山修験宗。本尊は十一面千手観音。 京の通称寺霊場33番、牛尾観音。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 弥生時代、第11代・垂仁天皇の時(在位: 前29?-70?)、音羽山山頂に音羽山権現社、生水谷に北谷権現社を創建した。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』)。天皇により、国土守護・国民豊楽の祈念所とされた。 飛鳥時代、633年、中大兄皇子(後の第38代・天智天皇)は牛尾山に参詣する。 648年、中大兄皇子は、音羽山音羽川に桜楓を植樹した。(『法厳寺由来』) 673年、本尊の十一面千手観音像は、宮中大悲殿にあり、遷都に際して当寺に遷される。(『法厳寺由来』) 奈良時代、770年、延鎮(賢心)は、小島寺より牛尾山に入り、この地で行叡居士と出遭い開山した。 778年旧4月17日/延暦年間(782-806)、延鎮(賢心)は、勅命により「法厳寺」の寺号を得て創建した。本尊は十一面千手観音像とした。境内地は、現在地よりも山頂よりにあり、当初は法相宗だった。堂奥地には聖霊殿(神明社)に天智天皇の聖霊を祀る。(『法厳寺由来』) 平安時代、798年、「清水寺奥之院」「清水寺本地行場」「清水寺行場(元行場)」などともと呼ばれていた。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』など) 806年以降、空海(弘法大師)が清水寺奥之院(法厳寺)に入る。(『法厳寺由来』) 815年、空海は、本尊の脇侍・不動明王、毘沙門天を安置した。僧侶に念誦行法の作法を伝授する。自刻の身代木像を本堂に安置し、本堂外軒に自筆扁額「普門閣」を掲げた。(『法厳寺由来』) 816年、当寺で延鎮が亡くなったという。清水寺を退き住していた。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 852年、円珍(智證大師)が入山し、妙法経巻を書写、納経供養する。滝水で身浴し、「白糸滝」と名付けた。不動明王、神変菩薩、八大龍王神を勧請する。修験行場を開く。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 859年、旧4月、円仁(慈覚大師)が開山堂を建立し、阿弥陀如来、行叡、延鎮像を安置した。十住心院を建て千手観音を安置する。(『山城名勝志』) 862年、旧正月、十住心院は勅願所になる。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 平安時代中期、観音信仰により寺は栄える。 990年、仁海が入山した。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 991年、旧5月頃、牛疫が流行り、仁海が秘法を修し制した。農民らが参詣し「南無牛王佛 牛王山観音菩薩」と称した。以来、山号は「牛王山」、「牛王山観音菩薩」と称されるよになった。愛染明王、妙見菩薩が安置され、専修道場が開かれる。(『法厳寺由来』) 1018年、仁海は、母の追悼のために「牛皮曼荼羅」を描き牛の尾を音羽山に埋めた。以来、山は「牛尾山」ともいわれた。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 1118年、旧6月、公卿・歌人・藤原顕季(あきすえ)が普請奉行に任命され、伽藍を大修理造した。(『法厳寺由来』) 中世(鎌倉時代-室町時代)、衰微した。山頂付近の寺地より、現在地に移して再興されたという。(『山科町誌』)。本坊の地に仮堂が建てられた。 鎌倉時代、1313年、旧7月、牛尾山に大蛇が小山の武士・内海景忠が退治した。(『内海家文書』) 南北朝時代、1369年、兵火により全山が焼失する。諸仏は一時、清閑寺に遷された。山麓の小山ノ里の内海覚念は、夢告により焼跡に草庵を結び諸仏像を戻して安置する。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 室町時代、1468年、牛尾観音参詣について記されている。(『山科家礼記』) 1480年、旧3月5日条、牛尾観音参詣について記されている。旧地は現在地より山上よりの4・5町の地にあったという。(『山科家礼記』) 1492年、旧12月、野釈玄駿尊は、本堂、諸仏を再建した。(『法厳寺由来』) 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)/1590年、豊臣秀吉は祈願成就の観世音菩薩、愛染明王の報恩に、寺社奉行・前田玄以に再興を行わせる。本堂、山家権現社、諸堂が修復され寺領田を寄進した。(『法厳寺由来』) その後、焼失し、荒廃する。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、再建された。観音信仰により賑わう。 江戸時代、初期、『法厳寺縁起』が記された。 1684年、当寺について記している。(『菟芸泥赴(つぎねふ)』) 1685年、大和国の廣瀬三郎は寛存上人を迎え再興する。中興1世になる。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 1689年、浄遍上人が入山し、現在の本堂が再建されたともいう。中興2世になる。(『山科町誌』) 1691年、鐘楼、手洗所、本坊が再建された。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 1695年、梵鐘が鋳造された。 1701年、大石良雄(内蔵助)は仇討の成就を当寺に祈願し、毎夜、人目を避け当山に祈願したという。 1711年、当寺が世人が「清水寺奥之院」というと記している。(『山州名跡記』) 1711年-1741年頃、木食上人が音羽川沿いの参道を整備した。(『法厳寺由来』) 1780年、当寺について記している。(『都名所図会』) 1831年、浪花堂島の門空上人が入山する。寄付により本堂再建が始まる。 1847年、現在の本堂が修復される。 幕末、第121代・孝明天皇(在位: 1846-1867)の頃/1844年-1868年、勤皇の志士らの密議の場として使われたという。(『法厳寺由来』『法厳寺略伝記』) 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃する。寺格失い、寺宝なども流出した。(『法厳寺由来』) 1871年、上地令により本堂、本坊敷地(573坪、1894㎡)のみになる。(『法厳寺由来』) 1914年-1940年、大西良慶は、当寺の住持を兼帯した。 1921年、10月、良慶が「當山開基千五十年紀念碑」を立てた。 現代、1945年、山号を「牛尾山」より「牛王山」に改める。 1950年、9月、ジェーン台風により被災した。12月、清水寺と分離し単立になる。修験宗門(聖護院)に属した。 2013年、台風18号で桜ノ馬場、参道、山林なども荒廃した。黒門は流出する。 2020年、3月、開山1250年記念に黒門が再建された。 ◆天智天皇 飛鳥時代の第38代・天智天皇(てんじ-てんのう、626-672)。男性。名は葛城皇子。一名開別皇子。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのみこと) 、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、葛城(かずらきの)皇子などとも称された。父・第34代・舒明(じょめい)天皇、母・宝皇女(後の第35代・皇極天皇、第37代・斉明天皇)。644年、中臣鎌子(なかとみのかまこ、藤原鎌足)、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)と共に、蘇我氏の横暴に対して打倒を図る。645年、大極殿において蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺した。皇極天皇は初の生前譲位により、軽(かる)皇子(第36代・孝徳天皇)が即位した。自らは皇太子として実資的な執政を行う。646年、大化の年号が始まり、大化の改新を断行する。出家し吉野に隠棲していた、異母兄・古人(ふるひと)大兄皇子を討つ。甘樫丘(あまかしのおか)の蘇我蝦夷を威嚇し自殺する。(乙巳[いつし]の変)。改新の詔が発せられ、公地公民制の実現を図る。649年、冠位十九階が制定された。蘇我倉山田石川麻呂を自決させた。652年、班田収授法を施行した。戸籍が作成される。653年、第2回遣唐使が派遣される。(都合5回)。654年、第37代・斉明天皇が重祚(退位した天皇が再び皇位につく)し即位する。中大兄は皇太子にとどまる。658年、孝徳天皇の子・有間(ありま)皇子を謀反の名目で処刑した。蘇我赤兄(そがの-あかえ)の謀りによる。蝦夷征伐する。661年、斉明天皇の没後、即位せずに7年間政務を執る。(素服称制[そふくしょうせい] )。662年、新羅に軍船を送る。663年、日本の水軍27000は新羅を攻める。倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との白村江(はくすきのえ)で敗れ、戦後処理などを行う。664年、二十六階の冠位制を設け、氏上(うじのかみ)など官人の整備を行う。対馬、壱岐、筑紫国に防人(さきもり)、烽(とぶひ)を置く。筑紫に水城(みずき)、九州-奈良盆地に朝鮮式山城を築いた。665年、百済よりの亡命渡来人400人を近江国神前郡に定住させた。667年、大和・飛鳥より近江・大津京に遷都し、弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟とした。668年、即位する。大津京鎮護のために、大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神(大物主大神)を大宮(現在の日吉大社西本宮)に勧請した。初の法律の成文化された法典・近江令(おうみりょう)全22巻を施行したともいう。公的には近代まで存続した。670年、初の戸籍、庚午年籍(こうごねんじゃく)を作る。671年、大友皇子を太政大臣とし、政権確立を意図した。 天皇制的中央集権の強化のため、中国の制度、文物を移入した。百済より亡命の鬼室集斯(きしつ-しゅうし)を学職頭に任じた。自ら製造したという漏刻(ろうこく、水時計)を初めて用いる。『万葉集』に4首の歌を残している。近江大津で没した。46歳。 墓所は山科陵(やましなのみささぎ)(東山区)。 ◆延鎮 奈良時代-平安時代前期の法相宗の僧・延鎮(えんちん、?-821?)。男性。賢心(けんしん)。大和・高野山真言宗の子島(嶋)寺の報恩に師事し、その没後、子島寺を継いだ。778年、行叡(ぎょうえい)と出遭い、京都・乙輪(音羽)山に移り庵を結ぶ。798年、坂上田村麻呂が同地に開いた清水寺の開祖になる。優婆塞(うばそく、仏教の在家信者の男子)様の修行者とされる。 ◆行叡 飛鳥時代-平安時代前期の伝承の僧・行叡(ぎょうえい、?-?)。詳細不明。男性。山城国愛宕郡八坂郷東山の音羽山に庵を結び、200年間修行したという。778年、延鎮に出遭い、この地に寺を建て観音像を安置するように告げ、東国へ去ったという。798年、延鎮は坂上田村麻呂の助力により清水寺を創建し開山になる。 ◆円仁 平安時代前期の天台宗の僧・円仁(えんにん、794-864)。男性。姓は壬生、名は円仁、諡号は慈覚大師。下野国(栃木県)の生まれ。9歳で大慈寺の広智に学び、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事し、その最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て回復し、『法華経』書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。838年、最後の遣唐使として渡り、9年間学ぶ。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰った。新羅声明を天台声明として取り入れ、その祖となる。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。東京・瀧泉寺、山形・立石寺(円仁の遺体納葬の入定窟がある)、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。『顕揚大戒論』ほか、唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。 円仁は、法華経と密教は同等であり、円密は一致するとし、天台密教(三部密教、胎蔵部、金剛部、蘇悉地部)を確立した。また、浄土教を一乗思想として天台宗に取り入れた。70歳。 ◆仁海 平安時代前期-中期の真言宗の僧・仁海(にんがい/にんかい、951/954-1046)。男性。通称は小野僧正、雨僧正、別名は千心。和泉国(大阪府)の生まれ。父・宮道惟平。7歳から、高野山・雅真(がしん)に師事し得度した。990年、醍醐寺・元杲(げんこう)に灌頂を受けた。991年、山城に曼荼羅寺(随心院の前身)を開く。1018年、畿内大旱魃で勅命により、神泉苑での祈雨法を修した。霊験あり、権律師に任じられる。1023年、藤原道長らを高野山登山に導き支援を得て高野山を復興した。東寺の二の長者になる。 1029年、東大寺別当になる。1031年、東寺長者に任じられる。1038年、僧正に任命された。長元年間(1028-1037)に2度、長久年間(1040-1044)に4度など、9回の祈雨の効験があった。雨僧正・雨海僧正と呼ばれ、宋にも伝わる。「胎蔵界礼懺」の撰者、著『小野六帖』など。 弟子も多く、成尊、覚源、真覚などがいる。真言宗小野流の祖になる。96歳。 ◆大西良慶 近現代の僧・大西良慶(おおにし-りょうけい、1875-1983)。男性。俗名は大西広次。奈良県の生まれ。父・旧多武峯(とうのみね)寺・智光院住持・広海、母・咲枝の次男。郡山中学に学ぶ。1889年、15歳で奈良の法相宗大本山・興福寺に入る。法隆寺・勧学院で佐伯定胤(さえき-じょういん)から法相宗「唯識学」を学ぶ。大僧正になる。1899年/1900年、興福寺231世になり、1904年/1905年、法相宗の管長に就任する。1904年-1905年、日露戦争に従軍僧として参加し、203高地戦闘を体験した。1914年、清水寺住職(興福寺兼務)になる。1921年、京都初の養老院「同和園」を設立した。1942年、清水寺住職に専念する。1952年/1954年、京都仏教徒会議を結成し理事長を務める。1957年、日本宗教者平和協議会会長に就任した。1965年、清水寺を本山にした北法相宗を設立し、清水寺初代管長に就く。清水寺・成就院に住した。1975年、朝日社会福祉賞を受賞した。社会事業、日中友好、平和に関わる。著『観音経講話』など。107歳。 墓は清水寺(東山区)にある。 ◆入山者 当寺には、平安時代に多くの高僧が入山したという。 真言宗開祖・空海(弘法大師、774-835)、文徳上人、天台宗・円仁(慈覚大師、794-864)、天台寺門宗の宗祖・円珍(智証大師、814-891)、真言宗小野流の祖・聖宝(理源大師、832-909)、真言宗小野流の祖・仁海(951-1046)らの名がある。(寺伝) ◆仏像 ◈本堂に本尊「十一面千手千眼観世音菩薩」を安置する。奈良時代、第38代・天智天皇(626-672)の自刻とされる。延鎮(賢心)の霊夢により、滋賀の都より遷された念持仏という。かつて宮中の大悲殿に安置され、第40代・天武天皇(大海人皇子)による、672年の奈良遷都の際に当山に遷されたという。 脇侍に「不動明王像」、「毘沙門天像」を安置する。 「行叡居士像」、「延鎮法師像」を安置する。 ◈護摩堂に、「不動明王像」、「神変大菩薩像」、「愛染明王像」、「蔵王権現」、「観世音菩薩」を安置している。 ◆建築 ◈「黒門」は、「大門」「総門」「冠木門」とも呼ばれた。現代、2013年の台風18号で流出している。2020年3月に再建された。 ◈「本堂」(京都府暫定登録有形文化財)は、江戸時代前期、1689年の建立による。 ◈「護摩堂」がある。毎月17日に護摩供が行われている。 ◈「釣鐘堂、鐘楼、空の道場」は、江戸時代前期、1691年に建てられた。 梵鐘は、江戸時代前期、1695年に鋳物造されている。「山城国山科牛尾山 京清水奥院」の銘が今も残る。 ◆鎮守社 ◈「大杉堂(鎮守堂)」は、古くは音羽山の山頂付近にあった。後に、本堂とともに現在地に遷されている。火を司る男性神・大杉坊大権現(天狗)、水を司る女性神・八頭竜王尊を祀る。また、宇賀徳生神主王も祀るという。音羽山の山神は、山中を自在に飛び回り、参詣者、登山者を守護するという。堂内に、天狗面、大きな下駄が安置されている。 ◈「大弁財(識の道場)」は、天箕面山の瀧安寺本尊を勧請した。 ◈「富来楽弁財天」は、金生水の傍らに祀られている。水の守護神という。 ◆文化財 ◈古代の伝承上の僧・行叡(ぎょうえい、?-? )が残したという「木靴」がある。非公開。 ◈近現代の大西良慶(1875-1983)自筆の絵、書(掛け軸)、山まで通った際に乗った籠、写真などがある。 ◆史跡・旧跡など ◈「金生水(きんせいすい)」は、本堂脇、観音像の下にいまも湧出する霊水をいう。覆屋内にあり、釣瓶で汲み上げる。背後の山には「墨泥窟(ぼくていくつ、黒泥巌)」という縦細の穴が開いている。円珍はこの二つの水で、紺紙金泥(こんしこんでい)曼荼羅を書いたという。(『都名所図会』) 奈良時代、770年/778年、大和国小島寺の賢心(延鎮)に夢告があり、金色水の水源を尋ねた。木津川、宇治川、山科川、この地の音羽川まで遡り、滝下(聴呪の滝)に辿り着いた。滝音に混じりお経が聞こえてきた。岩窟があり、老翁姿の行叡が現れた。 2人は、音羽川沿いに奥山に入る。草庵があり、岩間より湧く金色水を見つけたという。行叡に託された賢心はここに堂宇を建立し、当寺の始まりになったという。 ◈「五智瀧(水の道場)」は、「龍神滝」、「御瀧」、「音羽ノ瀧」とも呼ばれた。円珍が入山した際に、身浴場の行場として開いた。滝行場、18尺(5.5m)の滝がある。滝行の体験修行もできる。 18尺とは「十八界(すべての存在を認識から捉えた18種の範疇)」に因んでいる。6種の感覚器官の「六根」、その対象である6種の「六境」 、対象と感覚により生じる6種の「六識」 になる 。 ◈大杉堂の杉のご神木は、「大杉さん」、「天狗杉」とも呼ばれている。樹齢800年以上という。京都市の巨木・銘木に指定されている。幹にはムササビの巣があるという。 ◈「御砂踏場の道場」には南無大師遍照金剛像、観音像が立つ。西国三十三か所の観音霊場、四国八十八か所の霊場の砂が、仏像の廻りに納められている。一周すると霊場を参拝したのと同じご利益が得られるという。 ◈「牛之墳」は、平安時代中期、991年に仁海(951-1046)が偶蹄類感染症である牛疫(ぎゅうえき)流行の際に、「牛疫止息祈祷」を修した際に立てたという。 また、仁海の母が牛になり、尾を埋めた地ともいう。 ◈「安履石(あんり-せき)」は、七曲がり(もみじ谷)にある。行叡の沓(履)が置かれていた石という。 ◈「當山開基千五十年紀念碑」は、近代、1921年10月に大西良慶(1875-1983)が立てた。 ◈「本堂聖霊殿」跡は、音羽山の山頂近くにある。平安時代前期の延鎮(賢心、?-?)が本堂を創建した地という。奥に飛鳥時代、第38代・天智天皇(626-672)の聖霊を祀る神明社を建てたという。 ◆清水寺・法厳寺 法厳寺はかつて法相宗、真言宗だったともいう。清水寺(東山区)との関わりがあるとされ、古くより「清水寺の奥の院」と呼ばれていた。 平安時代前期、清水寺の開祖・延鎮(賢心)は夢告に従い、この地の音羽山で伝承の僧・行叡の沓(くつ)を拾ったとされた。この地の音羽山、音羽川の地名により、清水寺の山号も音羽山としたともいう。 なお、音羽山、音羽川の地名は、京都周辺では山科のこの地と左京区の比叡山麓(西坂本)、清水寺の3カ所にある。前者2つは歌枕になっている。 寺伝によると、音羽山一帯はかつて東山、また山麓は大国ノ里と呼ばれていた。弥生時代、第11代・垂仁天皇(在位: 前29-70)の頃、大国ノ淵(大国ノ不遅/大國ノ不遲)に夢告があり、東山頂上(山科東峰、補陀落峰)で地主明神と出合う。山に登るとその沓(木靴)が落ちていた。これを持ち帰り、垂仁天皇に経緯を話し、以後、峰を音羽山とした。 山頂に宇賀徳生神王、東山大権現を祀り「音羽山権現社」とした。生水谷(しずく岩付近?)には八大龍王神を祀り「北谷権現社」を創建した。大国ノ淵は音羽山に移り、その一族も山麓に住み大国の里になったという。 飛鳥時代、女帝第35代・皇極天皇(在位:642-645)の頃、中大兄皇子(第38代・天智天皇)は蘇我入鹿を討つ祈願に音羽山権現社に参詣した。成就した記念に音羽山、音羽川辺に桜と楓を植栽したという。 奈良時代、770年(778年とも)、大和国小島寺の賢心(延鎮)に夢告があり、金色水(きんせいすい)の水源を尋ねた。木津川、宇治川、山科川、この地の音羽川と遡り滝下(聴呪の滝)まで辿る。お経が聞こえてきたため辿ると岩窟があり、老翁姿の行叡が現れた。共に音羽川沿いに奥山に入ると草庵があり、岩間より湧く金色水を見つけた。行叡は音羽山頂上に消え、託された賢心はここに堂宇を建立し、第49代・光仁天皇の勅許を得て、観世音像を本尊として安置する。賢心は延鎮と名を改め、行叡より受けた柳木で3年3カ月の歳月をかけ、像高五尺二寸(1.57m)の観音像を刻んだ。780年、坂上田村麻呂は妻・高子の難産を救うために東山、音羽山に鹿狩に入る。この時、山中で延鎮と出会い、観世音菩薩の信心に触れる。田村麻呂は殺生を思い止まり、延鎮に安産祈祷を願いこれを成就させた。田村麻呂夫妻は当山の観世音を信仰し、後年、蝦夷征伐の戦勝祈願し、その報恩に八坂に清水寺を建立した。この地の音羽山の地名より山号は音羽山とし、以後、当寺を清水寺本地行場、清水寺奥の院と称した。延鎮は清水寺を退いた後に当山に移り、住したという。(寺伝、『山州名跡志』『都市名所図会』『清水寺縁起』) ◆牛尾山・音羽山 牛尾山(551m)は、境内の北東にある。音羽山(593m)の支峰になる。古くは「主穂(うしお)山」とも呼ばれた。東国へ通じ、逢坂山、逢坂関に通じていた。現在も、当寺より東海自然歩道を辿ると、牛尾山、音羽山を経て逢坂山に向かう。 牛尾山には伝承がある。小野(山科区)の仁海僧正は、亡き母の追善のために牛皮(ぎゅうひ)曼陀羅を描き、牛の尾を当山に埋めたという。かつて家の主は、神々に初穂を供える山として信仰していた。 音羽山(おとわやま)も、滋賀県との県境にある。「音葉山」とも呼ばれた。古生層からなる。歌枕にもなっている。「おとは山けさ越えくればほととぎす梢はるかに今ぞなくなる」(『古今集』夏、紀友則、一四二)、「おとは山をとに聞きつつ相坂の関のこなたに年をふる哉」(『古今集』恋一、在原元方、四七三)。 音羽川流域の音羽の滝も枕詞にもなっている。「山科の音羽の滝の音にだに人の知るべくわが恋ひめやも」(『古今和歌集』墨滅歌/墨消ち歌)、「逢坂の関やもいづら山科の音羽の滝の音に聞きつつ」(源実朝『金槐集』)。 ◆歌碑 平安時代後期の公家・歌人・藤原顕孝(1055-1123)の歌碑がある。「牛の尾や 春はのるまにかつ消えて まだらに萌ゆる 峯の白雪」(『三井集』)。 ◆参道名勝・旧跡 境内に至る牛尾山の山道は音羽川の渓流に沿って登る。川の各所に名勝、旧跡がある。麓より次のようになる。 ◈「鎌研橋(かまとぎばし、一の橋)」。参詣道の入口に架けられている最初の橋をいう。山に入る時に、ここで鎌を研いだ。 ◈「天狗爪研ぎ岩」。参詣道を外れた脇道にある。硬質の石に筋があり、音羽山の天狗が爪を研いだ岩といわれた。 ◈「蛙岩」。参詣道沿いの川中の大石は、蛙が座っているように見える。 ◈「大師橋(二の橋)」。腰掛石の前に架かる橋になる。 ◈「腰掛石(弘法大師、空海腰掛石)」。空海が入山する際に、腰を降ろして休んだという。空海は、牛尾観音の指示を感受する。時折、参詣道に大蛇が現れ人々は恐れた。大蛇封じの修法を行うようにと頼まれる。 ◈「弘法大師堂」。小祠があり、近代、1941年に小山の篤信者により建てられた。大日如来、弘法大師石像が安置され、参詣者の守護所になった。空海は、牛尾観音の指示に従い、音羽川で身を清めて大蛇除難祈祷を行う。 ◈「鮎戻り(鮎戻の瀧、鮎止の瀧)」。川中の滝をいう。流れが早く鮎も遡上できなかった。 ◈「腰抜(こしぬかし)坂、懺坂(ざんざか)」。盗人が本尊前の品々を盗み出して逃げた。背後から大声で呼び止められ、盗人は腰を抜かして気を失う。気付いても立ち上がれず、動くこともできなかった。盗人は観音の仕業と思い、懺悔し盗品を返して牛尾観音に帰依した。 ◈「懺坂(ざんざか)、さん坂」。参詣者は道中の安全を念じ、「懺悔懺悔六根清浄」と唱えて登ったために名付けられた。 ◈「木食上人行場跡」。川端にあり木食上人が前行誦念した。 ◈「お経岩(経岩、弘法大師御経岩、誦経石)・大師像」。空海は大蛇封じ後に誦経して再祈祷した。また、延鎮()が石上で誦経したともいう。 ◈「聴呪(ちょうじゅ)の滝、銚子の滝」。延鎮は、金色水の源泉を探して、滝下で休んだ。滝音に交じり呪文念誦も聞こえたことに因む。 ◈「仙人窟(般若窟)」。岩窟に大日如来の石造が祀られている。延鎮は、呪文の念を辿りこの地で行叡に会った。また、行叡は延鎮を待ちながら、岩窟の中で経典を読んでいたという。 ◈「かじか橋、樫野橋、三の橋」。河鹿蛙が多く生息している。樫の木が多くある。 ◈「夫婦の岩(夫婦の瀧)」。滝筋が二流に分かれている。左側がやや大きく夫瀧、右が婦瀧という。 ◈「不動坂」。坂の名は、次のしずく谷不動尊に因んでいる。 ◈「しずく岩(しずく谷不動尊)、酔いざましの滝水」。この地にはかつて滝があり雫が滴り落ちていた。大国ノ淵は音羽山北谷に「音羽山北谷権現社(八大龍王神王)」の行場を開いた。守護龍神を祀り霊場として身浴行場になった。 江戸時代、大石良雄(内蔵助)は、主君仇討の成就祈願のために夜に日参し、この滝水で身を清め酒覚まししたという。 後に、大雨により大崩れし、講社・西陣乾組組員の援助により復興した。 ◈「音羽の滝、布引瀧」。流域で最大の滝になる。高さは15mある。清水寺の音羽の滝の水源ともされた。歌枕にもなっている。 ◈「大蛇塚」。南北朝時代、1358年、小山郷士・内海覚念が参詣の帰りに通りかかり大蛇に襲われた。覚念は一刀し、大蛇がひるむと岩上から目を狙い矢を射た。大蛇は蛇壺に入り込み死んだ。後に供養のための「大蛇塚」が祀られた。 ◈「蛇ヶ淵(じゃがぶち)、蛇ヶ谷大蛇の瀬」。 かつて数十丈の大蛇が棲んでいた。小山の内海浪介景忠は、里の人々、牛尾観音の参詣者のために大蛇を退治した。(「大蛇退治図」、小山内海家蔵) また、南北朝時代、1358年、四手井家先祖・伊賀守景綱は、この地で大蛇を剣で退治した。この時、清水寺の音羽の滝は一日一夜にわたり血潮が流れた。大蛇は川辺で焼かれ、その地は「焼芝(やきしば)」といわれた。その後、景綱が重い病に罹ると異僧が現れ、秘薬の処方を教えた。景綱が調合し服薬すると平癒し、牛尾観音の霊験と感謝した。薬は秘薬として同家に伝わる。室町時代後期、永禄年間(1558-1570)、松永弾正正弼久秀が薬を試そうとした。極罪の10人に毒を与え8人に薬を服用させると、8人は蘇生する。薬を服しなかった2人は即死する。以後、秘薬は「山科樣(ためし)金屑丸(きんしょうがん)」と号した。(『参拝道』) ◈「横石橋(横石の橋、四の橋)」。左手には横石谷がある。良質の石である「横石」を産した。 ◈「仙人岩」。横石橋の脇道を入った音羽山山頂に向かう横石谷にある。 ◈「五丈岩(行叡登天場)」(横石橋の脇道を入った音羽山山頂に向かう横石谷にある。行叡など修行僧が苦行した。 ◈「寺尾」。かつて、横石橋-桜の馬場は、塔頭寺院が多く建てられていたことによる。 ◈「桜の馬場(櫻ヶ丘、牛尾山)」。広場になっている。飛鳥時代、645年、第38代・天智天皇は、大化の改新の成就記念に川沿いに桜楓を植えたという。馬場には多くの桜を植えた。かつて馬場-横石谷は桜の名所として知られていた。 ◈「七曲がり、もみじ谷、女坂)」。参詣道とは別の境内への迂回路であり、天智天皇はこの付近に楓を多く植えた。 ◈ほかに、仙人の滝もあった。 周辺の小山は、方広寺大仏殿の楼門左右の石壁など石材を産していたという。(『雍州府志』)。大塚葭ケ谷には、伏見城の採石跡がある。 ◆センチコガネ ミドリセンチコガネは、牛尾山などごく一部に生息するという。センチコガネ科で、オオセンチコガネの地方亜種になる。上翅は金緑色に光る。動物の糞、腐敗物、菌を食べ、秋に地中に糞を集めて産卵する。幼虫も糞を食べて成長する。 ◆修行体験 写経、坐禅ができる。夏に滝修行がある。 ◆年間行事 新年修正会(1月1日)、初観世音会(ぜんざい接待)(1月17日)、節分会(2月3日)、春季御開帳・採燈大護摩供(本尊の公開)(4月17日)、夏季悪疫災難避法要(8月17日)、秋季御開帳・大般若経転読法要(本尊の公開)(10月17日)、除夜の鐘(年越し蕎麦の接待)(12月31日)。 護摩供・観音菩薩の月例祭(観音会)(毎月17日)。 *普段は非公開。境内自由。 *年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 当寺のェブサイト「法厳寺」、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都市の地名』、『京都の地名検証』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『史料 京都の歴史 第11巻 山科区』、『山科の歴史を歩く』 、『音羽の山寺-牛尾観音 法嚴寺史-』、『山科事典』 、『拝観の手引-春期京都非公開文化財特別公開2023年3-5月』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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