山科神社 (京都市山科区)
Yamashina-jinja Shrine
山科神社 山科神社 
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拝殿


三間社流造の本殿




護国社


権殿
 山科神社(やましな じんじゃ)は、岩ヶ谷山の急峻な山腹にある。西野山の産土神として崇敬された。
 祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、その子・稚武王(わかたけのみこと)、この地の豪族・宮道弥益(みやじ の いやます)、その子・宮道列子( みやじの れっし)を祀る。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「山科神社二座 並名神大 月次新嘗」ともいう。ただ、諸説あり確定していない。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、897年、9月9日、第59代・宇多天皇の勅命により創建されたという。
 898年、勅を奉じて山科祭が官祭として始められる。(『師光年中行事』)
 928年、正四位下が授けられる。山科祭(4月、11月)に勅使が遣わされ、走馬10頭が奉じられたという。(『年中行事秘録』)。この地の豪族・宮道(みやじ)氏の祖神になる。「山科一ノ宮」とも呼ばれ、この地の総社、産土神として崇敬を集めた。
 かつては社領を丹波、山城に持ち、社殿も大きかったという。だが、度々の兵火のために焼失した。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、式内社の「岩屋三社(岩屋神社、山科神社、宮道神社)」として、当社は「西巌(岩)屋大明神」と呼ばれていた。(『雍州府志』)
 江戸時代、1701年-1702年、大石は、当社近くに隠棲した。この際に、当社奥の院・岩屋神社に参篭し、当社にも討入りの大願成就を祈ったともいう。
 近代、1873年、明治期(1868-1912)とも、山科神社と改称された。村社になる。
 1877年まで、山科祭では三之宮(三之宮神社)とともに神輿巡行を行う。
◆宮道弥益 平安時代前期の豪族・宮道弥益(みやじ の いやます、?-?)。山科栗栖野(山科区)に住む。山城宇治郡の郡司。882年、従五位上、主計頭(かずえのかみ)。娘・列子が藤原高藤に嫁ぐ。884年頃、その娘・胤子(いんし)が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。以後、外戚として栄え、宮内大輔(たいふ)に昇った。
 900年、醍醐天皇が母のために居宅を勧修寺に改めた。氏神社の宮道神社(山科区)がある。
◆宮道列子 平安時代前期-中期の女性・宮道列子( みやじ の れっし、?-907)。山城宇治郡の郡司・宮道弥益の娘。藤原高藤の妻になり、胤子(いんし)、定国、定方らを産む。884年頃、娘・胤子が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。列子は天皇の外祖母となる。従三位、没後、贈正一位
◆大石良雄 江戸時代の播磨国赤穂藩の筆頭家老・大石良雄(おおいし よしお/よしたか、1659-1703)。通称を内蔵助。播磨国赤穂藩の重臣・権内良昭の子。父死後、祖父・内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職になる。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に漢学を学んだという。1701年3月14日、主君・浅野長矩(浅野内匠頭)が江戸城松之大廊下において、高家(こうけ)・吉良上野介に対して刃傷事件を起こした。このため、浅野は即日切腹、浅野家はお家断絶、領地没収になる。吉良に咎めはなかった。城代家老・大石は、1701年4月11日、赤穂城明渡し後、6月27日、山科西野山村に隠棲した。屋敷は一町四方だったという。山科には、大石家の親族・進藤長之(近衛家家臣)の土地があり、支援があった。(山科閑居)。1702年、1月11日、山科会議が行われる。2月15日、大石宅に同志が集まり重要決定が行われた。4月15日、懐胎している妻・理玖(りく)と離縁する。理玖は、子・くう、吉千代を連れて但馬豊岡の実家に戻った。8月1日、山科の閑居を引き上げ、四条道場塔頭・梅林庵(四条河原町)に移ったともいう。10月まで、旧赤穂藩士と連絡をとる。10月7日、江戸に向かう。旧赤穂藩内には、吉良への仇討を主張する急進派と、御家再興の穏健派の対立が起こる。
 御家再興が絶望的になる。12月14日未明、大石を初めとして総勢47人の赤穂浪士は、本所吉良屋敷に討入る。1703年2月4日、大石以下46士は切腹を命じられ自刃した。(赤穂事件)
 1701年、1702年、大石は、当社近くに隠棲した。この際に、当社奥の院・岩屋神社に参篭し、討入りの大願成就を祈ったという。
◆式内社 平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「山科神社二座 並名神大 月次新嘗」に比定されている。
 ただ、確定しておらず、岩屋神社を山科神社とする説(『山科家礼記』)、宮道神社を山科神社とする説もある。(『山科名勝記』)
 近世には、岩屋神社は「東岩屋大明神」、山科神社は「西巌(岩)屋大明神」と呼ばれていた。維新後に、社号を「山科一之宮」として申請している。1873年に、現在の「山科神社」になった。
◆山科祭 山科祭は4月、11月の上巳の日に行われていた。平安時代、898年、第59代・醍醐天皇は勅を奉じ、山科祭は官祭として始められた。(『師光年中行事』)。宮道氏の祖神を祀る山科神社は、宮道氏が醍醐天皇の外戚になったことから、以後、山科祭は官祭として行われるようになったとみられている。
◆建築 本殿、権殿、拝殿、神庫などが建てられている。
 ◈「本殿」(京都市指定文化財)は、室町時代後期に建立されたという。三間社流造。江戸時代初期に檜皮葺になる。
◆鳥居 鳥居は明神鳥居、東照宮型であり、江戸時代、1660年に建立された。島木の反り増しはあり、島木鼻の切り様は水切、石造。
◆神宮寺 古来、北に隣接する岩屋寺は、当社の神宮寺だったともいう。
◆一之宮・二之宮・三之宮 かつて、山科神社は「一之(ノ)宮」、中臣神社はその「二之(ノ)宮」、三之宮神社(三之宮)はその「三之(ノ)宮」と呼ばれていた。また、岩屋神社と合わせて「山科宮四座」と呼ばれた。
 中臣神社は、現在も山科神社の山科祭の御旅所になっている。
 三之宮神社(三之宮)では、近代、1877年まで山科祭で、山科神社とともに三之宮の神輿巡行が行われていた。
◆年間行事 山科祭(第3日曜日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 下』『山科の歴史を歩く』『鳥居』『山科事典』『京都山科 東西南北』
、サイト「コトバンク」



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山科神社 〒607-8309 京都市山科区西野山岩ヶ谷町 
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