|
|
後深草天皇 深草北陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Gofukakusa |
|
後深草天皇 深草北陵 | 後深草天皇 深草北陵 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 法華堂 ![]() |
嘉祥寺の西に、深草北陵(ふかくさ-の-きた-の-みささぎ)がある。「十二帝陵(じゅうに ていりょう)」、「深草十二帝陵」、「深草法華堂」などと呼ばれた。 鎌倉時代後期の第89代・後深草天皇(ごふかくさ-てんのう)を含め、持統院統(北朝)の歴代12天皇、1親王の共同埋葬地になっている。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1304年、旧7月16日、後深草天皇は富小路殿で亡くなる。旧7月17日、遺命により山城国紀伊郡深草山(伏見区深草)で火葬され、伏見殿で葬儀が行われた。遺骨は深草・安楽光院(あんらくこういん)の法華堂(伏見区深草坊町)の仏壇下に納められた。旧9月5日、納骨し直される。当初は「後深草院法華堂」と呼ばれた。 1305年、旧8月29日、法華堂の落慶法要が行われ、遺骨が遷された。(『実躬卿記』)。その後、11天皇1親王の陵が合葬される。後に「深草十二帝陵」などと呼ばれる。 南北朝時代、1374年、北朝4代・後光厳天皇の納骨後は、「深草法華堂」と呼ばれた。 その後、法華堂は、焼失、再建を繰り返した。 1500年、法華堂だけが存在した。(『和長卿記』) 江戸時代、「安楽行院法華堂」「安楽行院御骨堂」とも呼ばれていた。 1617年、第107代・後陽成天皇が亡くなり、法華堂が改築される。 1680年、法華堂が破損している。(『俊方朝臣記』)。以後、小塚のみが残る。 元禄年間(1688-1704)、法華堂は再建され、鳥居も建てられている。安楽行院住職・空心(くうしん)が再建したという。安楽行院は、洛北・般舟院に属していた。(『山城名勝志』『山州名跡志』) 1699年、安楽行院御骨堂の法華堂の再建が完了したとみられる。鳥居も立てられていた。(「諸陵調書」) 1800年、安楽行院が修補される。 1865年、修補が完了し、巡検視が発遣する。 近代、1885年、法華堂の屋根が杮葺から瓦葺に葺き替えられる。 1894年、安楽行院跡地の一部を編入し、陵域が拡張された。 1906年、旧3月23日、それまでの陵名「深草法華堂」から仁明天皇深草陵に因み、その北にあることから「深草北陵」に変更された。 1930年、法華堂が改修されている。 ◆後深草 天皇 鎌倉時代中期-後期の第89代・後深草 天皇(ごふかくさ-てんのう、1243-1304)。久仁(ひさひと)、法名は素実(そじつ)。京都の生まれ。父・第88代・後嵯峨(ごさが)天皇、母・藤原姞子(きっし)(大宮院)の第3(2とも)皇子。1246年、父・後嵯峨天皇の譲位により4歳で践祚、即位した。持明院統最初の天皇になる。後嵯峨上皇が院政を行う。院評定制により、幕府の朝廷に対する介入は強化された。1252年、異母兄・宗尊(むねたか)親王が宮将軍として鎌倉に下る。1259年、後嵯峨上皇の命で弟・恒仁(つねひと)親王(第90代・亀山天皇)に17歳で譲位した。後嵯峨上皇は、亀山天皇を寵愛し、1268年、後深草上皇の皇子・熙仁(ひろひと)親王を退け、亀山天皇皇子・世仁(よひと)親王を皇太子に立てさせた。1272年、後嵯峨上皇が後継を決めずに亡くなる。後嵯峨上皇は、治天の君の決定権は幕府に委ねるとした。1275年、後深草上皇は出家しようとする。1287年、鎌倉幕府の斡旋で、後深草上皇の皇子・煕仁親王(第92代・伏見天皇)の践祚を実現し、後深草上皇は院政を敷く。1289年、後深草上皇の第6皇子・久明(ひさあき)親王は、7代将軍・惟康(これやす)親王が廃されたため、征夷大将軍になり関東に下向した。1290年、後深草上皇は出家し、1298年、孫・胤仁(たねひと)親王(第93代・後伏見天皇)の即位後も院政を執る。京都で没した。62歳。 墓所は深草北陵(伏見区)になる。 後深草天皇は持明院統の祖であり、北朝皇統の祖になる。以後、天皇家が後深草天皇系(持明院統)、亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂・対立して皇位継承を争う。(両統迭立)。33年間の日記『後深草院宸記(しんき、水旱宸記 [すいかんしんき] 』100巻がある。 ◆伏見宮 栄仁 親王 南北朝時代-室町時代前期の皇族・伏見宮 栄仁 親王(ふしみのみや-よしひと-しんのう、1351-1416)。男性。伏見殿、有栖川殿、法号は大通院。父・崇光天皇の第1皇子。伏見宮初代当主。1368年、親王宣下を受け、栄仁と命名される。1375年、元服し、二品に叙せられる。妙法院に入る予定だった。祖父・光厳法皇は第95代・花園天皇の皇子・直仁親王を崇光天皇の皇太子に立てることを望んだ。正平年間(1346-1370)、一時的に南北朝が合体した正平一統(しょうへいいっとう)により、崇光天皇と直仁皇太子が廃位された。崇光上皇は、持明院統嫡流として栄仁親王の即位を望んだ。1398年、崇光上皇が亡くなり、後盾を失った栄仁親王は、出家、通智(つうち)と号して、洛北・萩原殿に移る。1399年、伏見殿に移る。1401年、伏見殿の焼失後、嵯峨・洪恩院に移る。1403年、有栖川山荘(有栖川殿)に移り、有栖川殿と称した。1409年、伏見に戻り、伏見殿と称され、伏見宮の起源になる。琵琶、笙、和歌などに優れた。66歳。 墓所は深草北陵(伏見区)になる。 ◆陵墓 深草北陵は、塀重門(冠木門)、築地塀に囲まれた中に、方形堂が南面して建てられている。磚敷、2間四方、木造、本瓦葺、宝形造になる。 持統院統の12天皇、1親王が納骨され、共同の納骨堂(天皇家の墓)に13人を合葬する新しい形式だった。仏教建築の御堂、塔などを建立し地下に埋葬した堂塔式陵墓になる。 鎌倉時代、1304年旧7月16日、後深草天皇は亡くなる。旧7月17日、遺命により山城国紀伊郡深草山(伏見区深草)で火葬され、伏見殿で葬儀が行われた。上皇は深草・遺骨は経親卿の山庄傍山を山作所(さんさくしょ/やまつくりどころ、 陵墓造営のための臨時に置かれた官司)としていた。遺命により、遺骨は経親卿の深草・安楽光院(あんらくこういん)の法華堂(伏見区深草坊町)仏壇下に納められた。さらに、旧9月5日、公什(こうじゅう)僧正は、朱漆小辛櫃に、骨瓶、灌頂五鈷を納めて納骨し直される。1305年旧8月29日、法華堂の落慶法要が行われ、遺骨が遷された。伏見上皇、後伏見上皇が臨幸している。(『実躬卿記』)。 その後、11天皇1親王の陵が合葬された。後に深草十二帝陵などと呼ばれる。その後、法華堂は、焼失、再建を繰り返した。江戸時代前期、元禄年間(1688-1704)、法華堂は再建され、鳥居も建てられている。近代、1906年、それまでの陵名「深草法華堂」から仁明天皇深草陵に因み、その北にあることから「深草北陵」に変更された。 深草北陵の後光厳天皇-後陽成天皇の9天皇は、泉涌寺(東山区)で火葬後に、深草法華堂に納骨されている。天皇の中で最初に火葬されたのは、飛鳥時代の第41代・持統天皇(645-703)だった。その後、火葬、土葬が併用される。土葬では個別の陵墓が築造され、火葬は御堂を建ててて納骨した。その後、御堂には歴代天皇の遺骨が共同で納骨されるようになる。 法華堂の東側に般舟院塚と呼ばれる塚がある。後深草天皇が造営させたという旧真宗院般舟堂の跡ともいう。 ◆被葬者 被葬者は、鎌倉時代の第89代・後深草天皇(1243-1304)(没日旧7月16日、火葬日旧7月17日、納骨日1305年旧8月29日)になる。 その後、第92代・伏見天皇(1265-1317)(没日旧9月3日、火葬日旧9月5日、納骨日旧9月5日)、鎌倉時代-南北朝時代の第93代・後伏見天皇(1288-1336)(没日旧4月6日、火葬日旧4月8日、納骨日旧4月8日)、南北朝時代の北朝4代・後光厳天皇(1338-1374)(没日旧1月29日、火葬日旧2月3日、納骨日旧2月3日)、北朝5代・後円融天皇(1359-1393)(没日旧4月26日、火葬日旧4月27日、納骨日旧4月28日)、南北朝時代-室町時代の第100代・後小松天皇(1377-1433)(没日旧10月20日、火葬日旧10月27日、納骨日旧10月30日)、第101代・称光天皇(1401-1428)(没日旧7月20日、火葬日旧7月29日、納骨日旧8月4日)、第103代・後土御門天皇(1442-1500)(没日旧9月28日、火葬日旧11月11日、納骨日旧11月12日)、第104代・後柏原天皇(1464-1526)(没日旧4月7日、火葬日旧5月3日、納骨日旧5月4日)、第105代・後奈良天皇(1497-1557)(没日旧9月5日、火葬日旧11月23日、納骨日旧11月25日)、第106代・正親町天皇、室町時代-安土・桃山時代の第107代・後陽成天皇(1571-1617)(没日旧8月26日、火葬日旧9月20日、納骨日旧9月21日)になる。 さらに、南北朝時代-室町時代の伏見宮栄仁親王(1351-1416)(没日旧11月20日、火葬日旧11月24日、納骨日旧12月13日)、室町時代の嘉楽門院(藤原信子)(1411-1488)(没日旧4月28日、火葬日旧5月3日、納骨日旧5月4日)、安土・桃山時代-江戸時代の中和門院(藤原前子)(1575-1630)(没日旧7月3日、火葬日旧7月4日、納骨日旧7月29日)が納骨されている。 ◆安楽行院・安楽光院 安楽行院(あんらくぎょういん)(伏見区深草)の寺名初見は、室町時代後期、1500年の第103代・後土御門天皇の死去の際になる。中世には深草法華堂と呼ばれ、管理祭祀を行っていた。近代、1894年に廃寺になった。 なお、安楽光院(あんらくこういん)(上京区安楽小路町)は、持明院統(北朝)の仏堂だった。室町時代後期、1475年まで存在した。北朝第4代・後光厳天皇の際に深草に移転し、真宗院内にあった。同院退転により安楽行院に移されたという。ただ、安楽行院、安楽光院の2寺に関連はなく、混同があるという。 87 四条天皇(在位:1232-1242)→88 後嵯峨天皇(在位:1242-1246)→89 後深草天皇(持明院統)(在位:1246-1259)→90 亀山天皇(大覚寺統)(在位:1259-1274)→91 後宇多天皇(大覚寺統)(在位:1274-1287)→92 伏見天皇(持明院統)(在位:1287-1298)→93 後伏見天皇(持明院統)(在位:1298-1301) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、『歴代天皇年号事典』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|