五条院旧跡 (京都市下京区)  
Ruins of the residence of Gojoin
五条院旧跡 五条院旧跡
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「五條院旧跡舊址」の石標

 杉蛭子町(すぎえびす-ちょう)に、「五條院舊址(旧跡)(ごじょういん-きゅうせき)」の石標が立てられている。
 五条院は、鎌倉時代に仮皇居になった。五条殿、大宮殿、五条内裏、五条大宮内裏とも呼ばれていた。
◆歴史年表 鎌倉時代、1256年、7月条、「上皇御移徒五条大宮新造御所」とある。(『百錬抄』)。後嵯峨上皇(1220-1272、第88代)の御所が新造されている。
 1259年、8月、第89代・後深草天皇が行幸した。それ以前には、後嵯峨院の院御所であり、その後、後深草天皇の仮皇居になったとみられる。(『百錬抄』)
 1260年、12月、「五条里内」と呼ばれ、第90代・亀山天皇の仮皇居になった。その後、一時、仮皇居は富小路殿(中京区)に移る。(『続史愚抄』)
 1261年、1月条、所在地は「五条北、大宮東、南北二町、東西一町」とある。(『帝王編年記』)
 1265年、5月、再び亀山天皇の仮皇居になった。(『続史愚抄』)
 1267年、1268年、亀山天皇の仮皇居になった。(『続史愚抄』)
 第88代・後嵯峨天皇の中宮・大宮院(おおみやいん、1225-1292)の大宮院御所になっていた。
 1270年、1月条、夜半に放火により類焼失したという。(『吉続記』)。その後、再建されることはなかった。
 近代、1925年、2月、現在の石標が立てられた。
◆後嵯峨天皇  鎌倉時代の第88代・後嵯峨天皇(ごさが-てんのう、1220-1272)。邦仁(くにひと)。法名は素覚。第83代・土御門天皇の第2皇子。母は土御門通宗の娘・贈皇太后・源通子(つうし)。1221年、母を亡くし、朝廷と幕府の内戦である承久の乱で、父・土御門上皇は四国に移された。以後、外家・源通方に養われ、没後は祖母・承明門院源在子に土御門第で養育された。1242年、12歳の第87代・四条天皇は急逝する。九条道家は、第84代・順徳天皇皇子・忠成(ただなり)親王を擁立しようとした。幕府は承久の乱に挙兵したとして拒む。邦仁親王は北条泰時(ほうじょう-やすとき)に擁立され、幕府の意向で即位した。1246年、在位4年で第2皇子・久仁(ひさひと)親王(第89代・後深草天皇)に譲位する。幕府の朝廷に対する干渉により、1252年、第2皇子・宗尊(むねたか)親王を、最初の宮将軍(6代将軍)として鎌倉に下した。1259年、第3皇子・恒仁(つねひと)親王(第90代・亀山天皇)が即位し、後嵯峨上皇は院政を続ける。1268年、出家し素覚と称した。後嵯峨法皇は死に先だち、死後の治天の君(天皇家の惣領)の決定も幕府に委ねた。
 譲位後は天龍寺の地に離宮亀山殿、嵯峨殿を築き、後深草天皇、亀山天皇に対して27年間の院政を敷いた。兄・後深草天皇よりも弟・亀山天皇を愛したため、後深草天皇の皇子・熙仁(ひろひと)親王を差置いて、亀山天皇皇子・世仁(よひと)親王(後宇多天皇)を皇太子に立てた。このため、没後、後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の対立、両統迭立(てつりつ)激化の一因になった。高野、熊野を詣で、経論を書写供養した。和歌に優れ、藤原基家、藤原為家らに『続古今和歌集』を撰ばせた。『続後撰集』などに歌が収められている。53歳。
 火葬所(右京区)があり、陵墓は嵯峨南陵(右京区)になる。
◆後深草天皇 鎌倉時代後期の第89代・後深草天皇(ごふかくさ-てんのう、1243-1304)。久仁(ひさひと)、法名は素実(そじつ)。第88代・後嵯峨(ごさが)天皇の第3(2とも)皇子。母は藤原姞子(きっし)(大宮院)。1246年、父・後嵯峨天皇の譲位により4歳で践祚、即位した。持明院統最初の天皇になる。後嵯峨上皇が院政を行う。院評定制により、幕府の朝廷に対する介入は強化された。1252年、異母兄・宗尊(むねたか)親王が宮将軍として鎌倉に下る。1259年、後嵯峨上皇の命で弟・恒仁(つねひと)親王(第90代・亀山天皇)に17歳で譲位した。後嵯峨上皇は、亀山天皇を寵愛し、1268年、後深草上皇の皇子・熙仁(ひろひと)親王を退け、亀山天皇皇子・世仁(よひと)親王を皇太子に立てさせた。1272年、後嵯峨上皇が後継を決めずに亡くなる。後嵯峨上皇は、治天の君の決定権は幕府に委ねるとした。1275年、後深草上皇は出家しようとする。1287年、鎌倉幕府の斡旋で、後深草上皇の皇子・煕仁親王(第92代・伏見天皇)の践祚を実現し、後深草上皇は院政を敷く。1289年、後深草上皇の第6皇子・久明(ひさあき)親王は、7代将軍・惟康(これやす)親王が廃されたため、征夷大将軍になり関東に下向した。1290年、後深草上皇は出家し、1298年、孫・胤仁(たねひと)親王(第93代・後伏見天皇)の即位後も院政を執る。62歳。
 墓所は深草北陵(伏見区)になる。
 後深草天皇は持明院統の祖であり、北朝皇統の祖になる。以後、天皇家が後深草天皇系(持明院統)、亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂・対立して皇位継承を争う。(両統迭立)。33年間の日記『後深草院宸記(しんき、水旱宸記 [すいかんしんき] 』100巻がある。
◆亀山天皇 鎌倉時代の第90代・亀山天皇(かめやま-てんのう、1249-1305)。恒仁(つねひと)、禅林寺殿、文応皇帝。第88代・後嵯峨天皇の第3皇子、母は大宮院姞子(きつし)。1259年、大覚寺統最初の天皇として即位した。父が院政を敷く。1268年、後深草天皇(持明院統)皇子を差し置いて、亀山天皇(大覚寺統)皇子の世仁(よひと)親王(第91代・後宇多天皇)が皇太子に立つ。1274 年、後宇多天皇に譲位し、上皇として院政を執る。文永の役(モンゴル襲来)が起こる。1281年、弘安の役(モンゴル襲来)が起こる。1283年、八条院を相続した。1287年、第92代・伏見天皇(持明院統)が即位する。幕府は将軍に後深草天皇皇子・久明(ひさあき)親王(持明院統)を迎えた。1289年、伏見天皇の皇子・胤仁(たねひと)親王(第93代・後伏見天皇)が皇太子に立つ。亀山上皇は、剃髪し、金剛源と称した。禅宗に深く帰依し、1291 年、離宮を禅寺とし南禅寺の起りになる。禅宗が公家社会に浸透する端緒になる。離宮・禅林寺殿に移り、1289年、落飾し、南禅寺を創建した。57歳。
 父・後嵯峨天皇は亀山天皇を寵愛した。亀山天皇は、兄・後深草天皇を措いて天皇親政を行い、大覚寺統(亀山系)と持明院統(後深草系)の対立が起こる。以後、幕府の計らいで、二統は交互に継承する。文永・弘安の役の国難では、伊勢神宮に祈願した。大覚寺統領の基礎を確立した。制符(禁止・制約する事柄を書いた文書)の制定、評定制を大改革する。和歌・漢詩文に優れ『弘安礼節』を制定、『続拾遺集』の選進を命じた。57歳。
 山城亀山法華堂に葬られる。陵墓は天龍寺境内に亀山陵(右京区)、分骨所は南禅院(左京区)、後宇多天皇の遺言により蓮華峰寺陵(右京区)にもある。火葬塚は亀山公園(右京区)にある。
◆大宮院 鎌倉時代の第88代・後嵯峨天皇の中宮・大宮院(おおみやいん、1225-1292)。名は藤原姞子(きつし)、法名は遍智覚。父は太政大臣・西園寺実氏(さねうじ)、母は准三宮藤原貞子(ていし)。1242年、姞子と選定され、従三位に叙され「三位御方」と呼ばれた。入内し女御、立后中宮職につく。1243年、久仁(ひさひと)親王(第89代・後深草天皇)、恒尊(つねたか)親王を産む。1248年、院号を受け大宮院と称する。1249年、恒仁(つねひと)親王(第90代・亀山天皇)を産む。4皇子2皇女を産んだ。1272 年、後嵯峨法皇が没し、南禅院に入寺した。初七日忌に落飾し法名を遍智覚と称した。法皇の没後、後深草上皇と亀山天皇が対立する。鎌倉幕府は大宮院に諮り、大宮院は上皇遺詔として亀山天皇の親政を実現させた。以後、大覚寺・持明院の両統迭立になる。1285年、母・貞子の九十の賀を北山第で盛大に行う。
 大宮院の下命により撰された『風葉和歌集』がある。熊野、四天王寺、南都の社寺に参詣した。大宮院領として亀山殿、浄金剛院領など多くの荘園があった。2代の天皇の母であり、国母として畏敬される。孫・第91代・後宇多天皇がある。68歳。
 陵墓は南禅院境外南西に大宮院姑子粟田山陵(左京区)がある。
◆五条院 五条院は、五条北大宮東に南北2町の地を占めた。かつて、後院地(ごいんち、天皇家に伝わる領地)だった。五条殿、大宮殿、五条内裏、五条大宮内裏とも呼ばれた。
 現在の下京区今大黒町、杉蛭子町、十文字町の全域、西田町、槌屋町、高辻猪熊町、来迎堂町、高辻大宮町、五坊大宮町の一部に及んだ。
 鎌倉時代、1256年7月条に、「上皇御移徒五条大宮新造御所」とある。(『百錬抄』)。後嵯峨上皇(1220-1272、第88代)の御所が新造された。
 1259年8月、第89代・後深草天皇(1243-1304)が行幸した。それ以前には、後嵯峨院の院御所であり、その後、後深草天皇の仮皇居になったとみられる。(『百錬抄』)
 1260年12月、「五条里内」と呼ばれ亀山天皇の仮皇居になった。その後、一時、仮皇居は富小路殿(中京区)に移る。(『続史愚抄』)。1261年1月条に、所在地は「五条北、大宮東、南北二町、東西一町」とある。(『帝王編年記』)。1265年5月に、再び亀山天皇の仮皇居になる。(『続史愚抄』)。1267年、1268年にも、亀山天皇の仮皇居になった。(『続史愚抄』)。また、第88代・後嵯峨天皇の中宮・大宮院(おおみやいん、1225-1292)の院御所になっていた。
 1270年1月条に、夜半の放火により類焼失したとある。(『吉続記』)。その後は、再建されなかった。
◆五条内裏の妖物 鎌倉時代の吉田兼好著『徒然草』第二百三十段(1330-1331)は、「五条内裏には、妖物ありけり。」で始まる。この五条内裏は五条殿(五条大宮内裏)をいう。
 五条の皇居には化け物が棲むという。兼好の師・藤大納言殿(二条為世、1250-1338)によれば、殿上人が黒戸の間で碁を打っていると、簾を上げて覗き込む者がある。「誰だ」と目を遣ると、狐が人間のように跪いて覗いていた。「あれは狐だ」と騒がれ、狐はあわてて逃げ去った。
 未熟な狐が化け損なったのだろう。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都市の地名』、ウェブサイト「徒然草(吉田兼好著・吾妻利秋訳)」、ウェブサイト「コトバンク」


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