仁明天皇 深草陵 (京都市伏見区)  
Imperial mausoleum of Emperor Nimmyo
仁明天皇 深草陵  仁明天皇 深草陵 
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「仁明天皇 深草陵」の石標



 深草東伊達町(ふかくさ ひがしだてちょう)に、深草陵(ふかくさ の みささぎ)がある。
 平安時代初期の第54代・仁明天皇(にんみょう てんのう)が葬られている。
◆歴史年表 平安時代初期、850年、3月21日(新暦5月6日)、仁明天皇は、宮中の清涼殿で亡くなる。3月25日、葬送された。その後、陵の傍らに天皇ゆかりの清涼殿を移し、嘉祥堂(嘉祥寺)として陵を管理した。(『文徳天皇実録』)。さらに、貞観寺(じょうがんじ)が創建されたという。(『日本三代実録』)
 861年、兆域が定められた。(『日本三代実録』)
 866年、深草山陵と陵名が改められた。(『日本三代実録』)
 後、嘉祥寺は廃絶される。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、陵は所在不明になる。
 江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵 では、現在地(東車塚)が陵として修陵された。
◆仁明天皇 平安時代初期の第54代・仁明天皇(にんみょう てんのう、810-850)。正良(まさら/まさなが)。深草帝。第52代・嵯峨天皇の皇子。母は皇后・橘嘉智子(たちばな の かちこ)(檀林皇后)。823年、14歳で叔父・第53代・淳和天皇の皇太子になり,その皇子・恒貞(つねさだ)親王を皇太子とした。833年、淳和天皇の譲位により24歳で即位した。842年、嵯峨上皇の死に際して、伴健岑(ともの こわみね)、橘逸勢(たちばなの はやなり)らが皇太子を奉じて謀反をくわだてた。藤原氏の出ではない皇太子・恒貞親王が廃された。天皇と藤原冬嗣の娘・順子との間の皇子・道康親王(後の第55代・文徳天皇)が立太子した。以後、藤原北家の政権独占の端を開く。(承和の変)。869年、天皇の命により、藤原良房、春澄善縄らが編纂し成立した正史『続日本後紀』(833-850)が成立した。850年、清涼殿で亡くなる。
 嵯峨上皇の家父長的権威の下で政情は安定した。橘嘉智子、藤原良房らの干渉があった。弘仁・天長年間(810-834)、唐風儀礼や漢詩文の文化は,承和年間(834-848)に最盛期を迎える。経史、医学、詩文、書法、管弦、弓を好んだ。『経国集』に詩一編が残る。
 陵墓は深草陵(伏見区)になる。
◆陵墓 方形墳であり、南面している。
 平安時代初期、850年3月21日(新暦5月6日)、仁明天皇は、宮中の清涼殿で亡くなる。3月25日に葬送された。851年、子・文徳天皇は、仁明天皇ゆかりの清涼殿を忌み解体し、陵(伏見区)の傍らに移した。嘉祥堂(嘉祥寺)と呼ばれ、陵を管理する。(『文徳天皇実録』)。平安時代の清涼殿建て替えの初例になった。
 その後、さらに、貞観寺(じょうがんじ)が創建されたという。(『日本三代実録』)。861年、兆域が定められている。(『日本三代実録』)。866年、陵名は深草山陵に改められた。東は大墓、南は純子内親王家北垣、西は貞観寺東垣、北は谷に至った。(『日本三代実録』)。兆域は東西1町5段、南7段、北2町、守戸5烟だったという。(『延喜式』諸陵寮)
 後に嘉祥寺は廃絶される。中世(鎌倉時代-室町時代)以降、陵は所在不明になる。陵所は深草北陵とされたこともあった。
 江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵 では、現在地(東車塚)が陵として修陵された。江戸時代には、土中に石槨(せっかく、棺を入れる外箱)の大石があったという。(『山陵考』)


52 嵯峨天皇(在位:809-823)→53 淳和天皇(在位:823-833)→54 仁明天皇(在位:833-850)→55 文徳天皇(在位: 850-858)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『歴代天皇年号事典』『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 仁明天皇 深草陵 〒 612-0874 京都市伏見区深草東伊達町
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