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後円融天皇 深草北陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Goenyu |
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後円融天皇 深草北陵 | 後円融天皇 深草北陵 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 法華堂 ![]() |
深草坊町(ふかくさ-ぼうちょう)に深草北陵(ふかくさ-の-きた-の-みささぎ)はある。「十二帝陵」、「深草十二帝陵」、「深草法華堂」などと呼ばれた。 持統院統の南北朝時代の北朝第5代・後円融天皇(ごえんゆう-てんのう)が葬られている。持統院統の12天皇、1親王が共同の納骨堂に合葬されている。 ◆歴史年表 室町時代、1393年、4月26日、後円融天皇は亡くなる。4月27日、泉涌寺で火葬にされる。4月28日、遺骨は深草法華堂に納骨された。(『常楽記』『皇年代略記』) ◆後円融天皇 南北朝時代-室町時代前期の北朝第5代・後円融天皇(ごえんゆう-てんのう、1358-1393)。緒仁(おひと) 。法名は光浄。京都の生まれ。北朝第4代・後光厳天皇の第2皇子。母は石清水祠官・善法寺通清(みちきよ)の娘・崇賢門院(すうけんもん)藤原(紀)仲子(ちゅうし)。足利政権の内紛である観応の擾乱(1350-1352)で、北朝第3代・崇光天皇は、南朝に拉致され大和賀名生(あのう)に幽閉された。1357年、崇光天皇は帰京し、子孫の皇位断念の誓約を拒否し、皇子・伏見宮栄仁(よしひと)の皇位継承を室町幕府に働きかけ断られる。1371 年、管領・細川頼之の介入により、緒仁が親王宣下を受けて、践祚した。1374年、従兄弟・同年齢の3代将軍・足利義満に擁立され、 17歳で即位した。義満は朝儀に介入し続けた。1382年、6歳の皇子・幹仁 (もとひと)(北朝第6代・後小松天皇) に譲位し院政を行う。義満の権勢に阻まれ、朝廷が掌握していた裁判権、京都の施政権も幕府に奪われた。即位礼の実施、仏事儀式などでも争い、延臣は義満に追随する。後円融天皇上皇は追い込まれ、通陽門院への刃傷事件、愛妾・按察局(あぜちのつぼね)を追放するなどした。1392年、南北朝の合一になる。1393年、小川仙洞で亡くなる。33歳。 院政期最後の上皇になり、皇家最後の王権保持者になった。能書家としても知られる。和歌に秀で、公卿歌人・御子左為遠(みこひだり-ためとお)らに命じた勅撰『新後拾遺和歌集』がある。日記に『後円融院御記』がある。 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。分骨所は泉涌寺(東山区)の龍雲院内に方形があるとする。(『建内記』) ◆陵墓 深草北陵は、冠木門、築地塀に囲まれた中に、方形堂が南面して建てられている。持統院統の12天皇、1親王が納骨され、共同の納骨堂(天皇家の墓)に13人を合葬する。 室町時代、1393年4月26日、後円融天皇は亡くなる。4月27日、泉涌寺で火葬にされる。4月28日、遺骨は深草法華堂に納骨された。(『常楽記』『皇年代略記』) ほかの被葬者は、鎌倉時代の第89代・後深草天皇(1243-1304)、第92代・伏見天皇(1265-1317)、鎌倉時代-南北朝時代の第93代・後伏見天皇(1288-1336)、南北朝時代の北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)、南北朝時代-室町時代の第100代・後小松天皇(1377-1433)、第101代・称光天皇(1401-1428)、第103代・後土御門天皇(1442-1500)、第104代・後柏原天皇(1464-1526)、第105代・後奈良天皇(1497-1557)、第106代・正親町天皇、室町時代-安土・桃山時代の第107代・後陽成天皇(1571-1617)が納骨されている。 南北朝時代-室町時代の伏見宮栄仁親王(1351-1416)が納骨されている。 北3 崇光天皇(在位 :1348-1351)→北4 後光厳天皇(在位 :1352-1371)→北5 後円融天皇(在位:1371-1382)→北6・100 後小松天皇(在位:1382-1412)→101 称光天皇(在位:1412-1428) *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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