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後奈良天皇 深草北陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Gonara |
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後奈良天皇 深草北陵 | 後奈良天皇 深草北陵 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 法華堂 ![]() |
深草坊町(ふかくさ-ぼうちょう)に深草北陵(ふかくさ-の-きた-の-みささぎ)はある。「十二帝陵」、「深草十二帝陵」、「深草法華堂」などと呼ばれた。 室町時代の第105代・後奈良天皇(ごなら-てんのう)が葬られている。持統院統の12天皇、1親王が共同の納骨堂に合葬されている。 ◆歴史年表 室町時代、1557年、旧9月5日、後奈良天皇は亡くなる。旧11月23日、泉涌寺で火葬にされる。旧11月25日、遺骨は深草法華堂に納骨された。(『後奈良天皇御拾骨記』『弘治三年記』) ◆後奈良天皇 室町時代後期の第105代・後奈良天皇(ごなら-てんのう、1497-1557)。男性。知仁(ともひと)。京都の生まれ。父・第104代・後柏原天皇、母・勧修寺教秀(かじゅうじ-のりひで)の娘・藤原藤子(豊楽門院)の第2皇子。勧修寺政顕邸で生まれた。1512年、親王宣下、元服する。1526年、父・後柏原天皇の死去を受けて践祚、即位した。直後に、丹波・柳本賢治らが阿波国・細川晴元らと呼応して反乱を起こし、その後、畿内は内戦になる。朝廷の財政逼迫し、即位式は行われなかった。献金により、践祚、大葬が行われた。1536年、践祚の10年後に、周防・大内義隆、後北条、今川、朝倉らの献金により即位の大礼が改めて行われた。1540年、疾役が流行し、醍醐寺三宝院大僧正・義堯に不動不法を修させた。また、1540年-1545年頃、疫病退散、災厄を祈禳し、宸筆『般若心経』書写を24カ国の一宮社に奉納した。 皇室式微により御所の築地も修復されず、紫宸殿の間近で茶を売るものも現れたという。戦国大名に官位を叙任し、長尾・上杉氏らに私敵追討綸旨を発給した。安土・桃山時代の「王朝回復」の先駆けになる。三条西実隆・公条らに和漢の書の講義を受けた。古典の書写、保存に努める。和歌、詩文を好み、歌集『奈曾』、宸筆日記『天聴集』があり基本史料になる。名筆として知られた。天文年間(1532-1555)の宸筆『般若心経』は大覚寺心経殿、醍醐寺、阿波・伊豆などの一宮に残る。京都で没した。62歳。 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。分骨所は、般舟院陵(上京区)域内に宝篋印塔がある。灰塚は、月輪陵(東山区)域内に方形がある。 ◆陵墓 深草北陵は、冠木門、築地塀に囲まれた中に、方形堂が南面して建てられている。持統院統の12天皇、1親王が納骨され、共同の納骨堂(天皇家の墓)に13人を合葬する。 室町時代、1557年旧9月5日、後奈良天皇は亡くなる。旧11月23日、泉涌寺で火葬にされる。旧11月25日、遺骨は深草法華堂に納骨された。(『後奈良天皇御拾骨記』『弘治三年記』) ほかの被葬者は、鎌倉時代の第89代・後深草天皇(1243-1304)、第92代・伏見天皇(1265-1317)、鎌倉時代-南北朝時代の第93代・後伏見天皇(1288-1336)、南北朝時代の北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)、北朝第5代・後円融天皇(1359-1393)、南北朝時代-室町時代の第100代・後小松天皇(1377-1433)、第101代・称光天皇(1401-1428)、第103代・後土御門天皇(1442-1500)、第104代・後柏原天皇(1464-1526)、第106代・正親町天皇、室町時代-安土・桃山時代の第107代・後陽成天皇(1571-1617)が納骨されている。 南北朝時代-室町時代の伏見宮栄仁親王(1351-1416)が納骨されている。 104 後柏原天皇(在位:1500-1526)→105 後奈良天皇(在位:1526-1557)→106 正親町天皇(在位:1557-1586) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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