|
|
後柏原天皇 深草北陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Gokashiwabara |
|
後柏原天皇 深草北陵 | 後柏原天皇 深草北陵 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 法華堂 ![]() |
深草坊町(ふかくさ-ぼうちょう)に、深草北陵(ふかくさ-の-きた-の-みささぎ)はある。 室町時代の第104代・後柏原天皇(ごかしわばら-てんのう)が葬られている。持統院統の12天皇、1親王が共同の納骨堂に合葬されている。 ◆歴史年表 室町時代、1526年、4月7日、後柏原天皇が小川仙洞御所(故勧修寺経顕宿所)で亡くなる。5月3日、泉涌寺で火葬された。5月4日、遺骨は深草法華堂に納められる。(『二水記』『続史愚抄』) ◆後柏原天皇 室町時代中期-後期の第104代・後柏原天皇(ごかしわばら-てんのう、1464-1526)。勝仁(かつひと)。京都の生まれ。第103代・後土御門天皇の第1皇子。母は伏見宮家司・贈内大臣・庭田長賢(にわた-ながかた)の娘・朝子。1480年、親王宣下、元服した。1500年、父・後土御門天皇の死去により、37歳で践祚し、小御所で即位した。応仁・文明の乱(1467-1477)後であり、皇室式微により財政は窮乏していた。即位の大礼を行う費用もなかった。朝儀も停止される。1500年、父・後土御門上皇の大葬も財源がなく、泉涌寺により死後43日目に執行された。1521年、践祚後22年目にして、紫宸殿で即位の大礼を行う。幕府、地方豪族、将軍・足利義稙、大坂本願寺の僧・光兼(実如)らの献金による。1525年、痘瘡流行の際に、「般若心経」を書写して延暦寺、仁和寺に納め、人々の安穏を祈念した。1526年、記録所で亡くなる。63歳。 浄土宗に帰依した。戦乱後の朝儀復興に努めた。詩歌、管絃、書道に秀で、歌集『柏玉(はくぎょく)集』、日記『後柏原天皇宸記』がある。 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。月輪陵(東山区)内に灰塚がある。 ◆陵墓 深草北陵は、冠木門、築地塀に囲まれた中に、方形堂が南面して建てられている。持統院統の12天皇、1親王が納骨され、共同の納骨堂(天皇家の墓)に13人を合葬する。 室町時代、1526年4月7日、後柏原天皇が小川仙洞御所(故勧修寺経顕宿所)で亡くなる。5月3日、泉涌寺で火葬された。5月4日、遺骨は深草法華堂に納められる。(『二水記』『続史愚抄』) ほかの被葬者は、鎌倉時代の第89代・後深草天皇(1243-1304)、第92代・伏見天皇(1265-1317)、鎌倉時代-南北朝時代の第93代・後伏見天皇(1288-1336)、南北朝時代の北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)、北朝第5代・後円融天皇(1359-1393)、南北朝時代-室町時代の第100代・後小松天皇(1377-1433)、第101代・称光天皇(1401-1428)、第103代・後土御門天皇(1442-1500)、第105代・後奈良天皇(1497-1557)、第106代・正親町天皇、室町時代-安土・桃山時代の第107代・後陽成天皇(1571-1617)が納骨されている。 南北朝時代-室町時代の伏見宮栄仁親王(1351-1416)が納骨されている。 103 後土御門天皇(在位:1464-1500)→104 後柏原天皇(在位:1500-1526)→105 後奈良天皇(在位:1526-1557) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|