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称光天皇 深草北陵 (京都市伏見区) Imperial mausoleum of Emperor Shoko |
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称光天皇 深草北陵 | 称光天皇 深草北陵 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 法華堂 ![]() |
深草坊町(ふかくさ-ぼうちょう)に、深草北陵(ふかくさ-の-きた-の-みささぎ)はある。「十二帝陵」、「深草十二帝陵」、「深草法華堂」などと呼ばれた。 室町時代前期の持統院統・第101代・称光天皇(しょうこう-てんのう)が葬られている。また、持統院統の12天皇、1親王が共同の納骨堂に合葬されている。 ◆歴史年表 室町時代、1428年、7月20日、称光天皇は亡くなった。7月29日、深草で火葬にされる。8月4日、遺骨は、深草法華堂に納骨された。(『常楽記』『皇年代略記』) ◆称光天皇 室町時代前期の持統院統・第101代・称光天皇(しょうこう-てんのう、1401-1428)。躬仁(みひと)、実仁(みひと)。法名は大宝寿。京都の生まれ。北朝第6代・第100代・後小松天皇の第1皇子。母は日野資国の娘・資子(すけこ)(光範門院)。1412年、後小松天皇より12歳で践祚、元服した。1414年、即位する。父・後小松上皇が院政を行う。1425年、皇太弟・小川宮が急逝した。称光天皇は病になる。後小松上皇は、幕府とともに北朝第3代・崇光天皇の孫・伏見宮貞成(さだふさ)親王を後継にしようとした。称光天皇は、奇跡的に回復し反対した。1428年、称光天皇には後嗣がなく、貞成親王・第1王子・彦仁(ひこひと)王(第102代・後花園天皇)を猶子として皇位を継がせた。親王宣下、立太子の儀もなかった。京都で没した。28歳。 病弱であり、父・後小松天の院政が続き、皇位継承などをめぐり対立した。政務実績はなかった。持統院統内部にも、後光厳流、祟光流の対立が生じた。仏法に深く帰依する。母方の日野一族、将軍家との結びつきは強く、日野光子を典侍として迎える。 陵墓は深草北陵(伏見区)になる。泉涌寺・雲龍院内に御塔があるとする。(『建内記』) ◆陵墓 深草北陵は、冠木門、築地塀に囲まれた中に、方形堂が南面して建てられている。持統院統の12天皇、1親王が納骨され、共同の納骨堂(天皇家の墓)に13人を合葬する。 室町時代、1428年7月20日、称光天皇は亡くなった。7月29日、深草で火葬にされる。8月4日、遺骨は、深草法華堂に納骨された。(『常楽記』『皇年代略記』) ほかの被葬者は、鎌倉時代の第89代・後深草天皇(1243-1304)、第92代・伏見天皇(1265-1317)、鎌倉時代-南北朝時代の第93代・後伏見天皇(1288-1336)、南北朝時代の北朝第4代・後光厳天皇(1338-1374)、北朝第5代・後円融天皇(1359-1393)、南北朝時代-室町時代の第100代・後小松天皇(1377-1433)、第103代・後土御門天皇(1442-1500)、第104代・後柏原天皇(1464-1526)、第105代・後奈良天皇(1497-1557)、第106代・正親町天皇、室町時代-安土・桃山時代の第107代・後陽成天皇(1571-1617)が納骨されている。 南北朝時代-室町時代の伏見宮栄仁親王(1351-1416)が納骨されている。 99 後亀山天皇(大覚寺統)(在位:1383-1392)→北6・100 後小松天皇(持統院統)(在位:1382-1412)→101 称光天皇(持統院統)(在位:1412-1428)→102 後花園天皇(持統院統)(在位:1428-1464) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『歴代天皇125代総覧』、『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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