伏見京橋・伏見口の戦い激戦地跡 (京都市伏見区)  
Battle Site of Fushimi-guchi
伏見京橋・伏見口の戦い激戦地跡 伏見京橋・伏見口の戦い激戦地跡
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「伏見口の戦い激戦地跡」の石標・副碑


石標


副碑


京橋


【参照】寺田屋浜
 伏見の京橋北詰東側に「伏見口の戦い激戦地跡(ふしみくち-の-たたかい-げきせんち-あと)」の石標・副碑が立てられている。
 江戸時代に京橋付近は、伏見港の中心地になった。幕末には、この付近でも鳥羽・伏見の戦いが繰り広げられた。
◆歴史年表 江戸時代、1868年、1月2日、鳥羽・伏見の戦いが始まる前日夕刻に、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸し、伏見御堂を宿陣とし戦った。
 現代、2009年、12月、伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会により石標・副碑が立てられる。
◆京橋 江戸時代の京橋付近は、伏見港の中心だった。幕府公認の船の「過書船」、京都間の「高瀬舟」、大坂間の「三十石船」、山城間の「淀二十石船」、宇治間の「芝船」などがあり、千数百隻もの舟運で賑わった。
 三十石船は三十石の米の積載が可能であり、伏見・大坂八軒屋間を1日2便往復していた。船頭4人で操船され、28人の客を乗せた。船型は喫水の浅い平底であり「天当(てんとう、伝道)」と呼ばれていた。長さ 15m、幅 2m、深さ0.55mあった。
 伏見からの下り船は川の流れを利用し、夜に伏見を出て早朝に大坂の八軒家に着いた。川を遡る上り船(12時間)では舵取りの船頭1人とほかの3人は岸から綱で引き船しながら上った。順風の際は帆を利用していた。
 江戸時代前期、1611年に角倉了以は二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を開削している。さらに南へ水路を延長して竹田、南浜へと延ばして淀川と繋いだ。京都と大坂間は舟運で結ばれ、伏見港は中継地としてさらに発展する。
 伏見の京橋から蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯は、参勤交代の西国大名の発着地になった。大名の宿泊する本陣4軒、家臣宿泊の脇本陣2軒、宿場町として旅人が利用した39軒の旅籠が軒を連ねていた。
 江戸幕府は伏見を伝馬所(てんまじょ)として位置付け、街道の宿駅(しゅくえき)では人馬の継立(つぎたて)をした。事務をしていた役所の問屋場(といやば)には人足100人、馬100頭が常時用意されていた。前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送した。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わった。
 橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられていた。
◆鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いは、明治新政府と旧幕府との間の武力衝突であり、戊辰戦争最初の内乱だった。
 江戸時代後期、1867年12月9日(新暦1月3日)の王政復古の大号令後に、新政府内部では討幕派が公議政体派を抑えていた。小御所会議では、大政奉還した第15代将軍・徳川慶喜は、辞官納地を命じられる。幕府、会津藩、桑名藩などは受け入れず朝廷と対立した。12月25日、討幕派・薩摩軍の江戸での攪乱挑発に対し、幕府は庄内藩に薩摩藩邸を焼き討ちさせた。
 慶喜は薩摩を討つために上洛を決意した。1868年正月、慶喜の本営・大坂城に布陣した旧幕府軍(幕兵、会津・桑名藩兵)は、京都に向けて進軍開始する。他方、伏見の旧幕府軍、新撰組は伏見奉行所に布陣した。
 1月2日夕刻に、会津藩の先鋒隊200人は大坂から船で伏見京橋に上陸し伏見奉行所に入る。先鋒隊は東本願寺伏見別院(伏見御堂)を宿陣にした。薩摩軍は御香宮に陣を敷いた。
 3日(新暦1月27日)、旧幕府軍本隊は淀川を遡り、その先鋒隊は鳥羽街道、伏見街道の二手より京都に軍を進める。他方、薩長軍は竹田より小枝橋に兵を進めた。夕刻、小枝橋で橋を渡ろうとした旧幕府軍を薩摩軍が制止し、睨み合いになる。城南宮の西にある秋の山付近で、旧幕府軍と新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩・安芸藩)との緒戦になる。その後、小枝橋、中島、富ノ森、淀の町などでも戦闘が展開された。
 伏見御堂付近では、会津藩先鋒隊と薩摩藩との間で小競り合いがあり、伏見奉行所に陣を置いた幕府軍・新撰組と御香宮に陣を敷いた薩摩藩・長州藩との間でも戦闘が始まる。伏見の町でも戦いが始まる。旧幕府軍は民家に火を放ちながら淀方面へ敗走し、現在地付近の多くの民家が焼かれ大きな被害を受けたという。
 兵力は旧幕府軍が1万/1万5000、薩長軍は3000/4500といわれた。旧幕府軍は旧式の大砲1門のみと劣勢で、下鳥羽まで退却する。薩摩軍は御香宮に4門、龍雲寺(善光寺)からも伏見奉行所に対して砲撃が行われた。新撰組は鳥羽・伏見の戦い以前に近藤勇が負傷し、沖田総司も病により戦線離脱している。このため土方歳三が指揮し、鉄砲で武装した薩摩軍の御香宮に土方、永倉らが三度斬り込むが戦果はなかった。
 4日、砲撃により伏見奉行所が焼失し、旧幕府軍、新撰組は淀に退却する。新政府軍(薩長軍)は仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍に任命し、東寺に入る。錦の御旗により旧幕府軍は賊軍と化し、一気に士気喪失した。
 5日、淀堤千両松の戦いで、旧幕府軍の会津藩、新撰組は大敗し、井上源三郎など多数の死傷者が出る。旧幕府軍の淀城入城は淀藩、津藩の寝返りにより拒否された。やむなく、旧幕府軍、新撰組は大坂に敗走した。
 6日、慶喜、松平容保らは密かに大坂城を脱し、船で江戸に逃亡した。新撰組も江戸に戻る。
 鳥羽・伏見の戦い後、新政府内では討幕派が主導権を握り、2月9日、慶喜追討軍が東征に向かう。以後、戊辰戦争が始り、旧幕府軍が敗北する函館戦争まで、1年間にわたり内戦が繰り広げられる。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「伏見口の戦い激戦地跡」の石標・副碑碑文、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「伏見区の歴史-伏見区役所」、ウェブサイト「江戸時代、京都と大坂を結ぶ交通の要 ~ 桂・伏見 - 三井住友トラスト不動産」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 伏見京橋・伏見口の戦い激戦地跡 〒612-0000 京都市伏見区南浜町 京橋北詰東側
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