小枝橋 (京都市南区-伏見区)
Saeda-bashi Bridge
小枝橋  小枝橋
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架け替えられた新しい小枝橋、鳥羽・伏見の戦い時の位置とは違う。その少し上流になる。


かつての小枝橋の東、道の脇に残る「鳥羽伏見戦跡」の碑、以前の橋はこの辻の西の延長上に架けられていた。


鳥羽離宮跡公園


「鳥羽伏見戦跡碑」が立つ。
鳥羽殿の築山跡と考えられている「秋の山」(国指定史跡)
薩摩軍の第一砲がここから小枝橋方面に向けて発せられた。
 鴨川の南にかかる小枝橋(さえだばし/こえだばし)は、「恋田橋(こいだばし)」とも呼ばれた。鳥羽街道が通じていた。かつて平安京の入り口の橋になっていた。
 現在の橋は架け替えられている。以前の橋は幅員狭く、現在の橋の下流にあった。
 橋は、鳥羽・伏見の戦いの緒戦の舞台になった。
◆歴史年表
 平安時代、当初は杭の上に板を渡しただけの木橋だった。その後、土を固めた狭い土橋になる。大陸から浪速に入った文化は、まず、この橋を渡って都に伝えられた。
 江戸時代、1643年、朝鮮使節来日を前に補修される。
 1654年、小枝橋は鴨川に架かる11橋の一つとして記されている。(「新板平安城東西南北町並洛外之図」)
 1682年、朝鮮使節来日を前に架橋される。
 1694年、架橋される。
 1711年、朝鮮使節来日を前に補修される。(上方所々橋新造御修復共年数之覚」)
 1719年、朝鮮使節来日を前に補修される。
 1780年、小枝橋(こえだのはし)の記載がある。(『都名所図会』)
 近代、1868年、1月3日、鳥羽・伏見の戦い(後の戊辰戦争)の緒戦地になる。
 現代、1955年、架け替えられる。
 1998年、現在の小枝橋が架け替えられている。
◆小枝橋 現在の小枝橋の架設年は1988年になる。橋種は4径間連続鋼プレートガーターになる。橋長133m、幅員22m。
◆朝鮮通信使 江戸時代、李氏朝鮮よりの使節団は、1607年-1811年の間に12回来日している。
 大坂より淀川を船で遡り、淀・納所で上陸、ここより陸路で淀小橋から淀城、京都を経て江戸に向かっていた。これに先立ち、要所に架けられた橋の修復が行われていた。
◆鳥羽・伏見の戦い 橋は、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)の緒戦地として知られている。
 1864年の禁門の変(蛤御門の変)後、徳川幕府は長州藩征伐を行う。だが、諸藩は出兵命令に従わなかった。1866年に薩長同盟が成立し、1868年12月9日、王政復古の大号令後、徳川幕府の廃絶宣告が下された。
 大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜には、辞官納地(領地の返還)が命じられる。慶喜は、朝敵になることを避け、二条城より大坂城に退く。その後、徳川家の領地返還は中止になり、討幕派の西郷隆盛、大久保利通は攻め手を失う。そのため、江戸市中で幕府への挑発を行い、軍事的衝突に持ち込もうとした。他方、大坂城には江戸より幕府側の援軍が入った。
 慶喜は朝廷、薩長に対して憤り、軍事的な京都の封鎖を試みた。12月25日、幕府側は江戸薩摩藩邸、佐土原藩邸を焼き討ちし、不穏分子の一掃を行う。大坂城の慶喜は、京都進軍を命じた。旧幕府軍は「討薩表」を掲げて鳥羽街道を東へ進み、伏見には会津藩、桑名藩、新撰組が入った。
 1868年1月3日、午後4時頃、旧幕府軍15000人とアームストロング砲、スペンサー銃など近代兵器で装備した薩摩軍(新政府軍、長州藩、土佐藩)の6000人(4500人とも)が対峙した。
 旧幕府軍は大坂城に布陣し、伏見街道の本隊、鳥羽街道の別動隊が北上した。薩摩藩は、小枝橋から城南宮、竹田街道にかけて布陣していた。旧幕府軍400人が鴨川西岸より小枝橋へ進行する。橋上で軍の通過について押し問答になる。旧幕府軍の徳川慶喜先発隊大目付・滝川具挙は、勅命により橋を通せという。薩摩軍・椎原小弥太がこれを拒否した。
 午後5時頃、鴨川東岸、鳥羽離宮址の秋の山から薩摩藩が砲撃した。旧幕府軍の大砲に当たり戦闘状態に入る。先陣は京都見廻組500人の佐々木只三郎、桑名藩、大垣藩だった。旧幕府軍は縦列行軍であり、旧式の武装のため大きな被害が出た。1時間ほどの戦闘後に旧幕府軍は後退する。
 同じ頃、橋の東方の伏見でも衝突が起きた。御香宮神社には、薩摩藩、伏見奉行所には会津藩、新撰組が陣取っていた。薩摩軍の大砲により奉行所は炎上する。新撰組の土方歳三、 久保田備中守の傳習隊などは、一旦、新政府軍を切り崩し墨染まで撃退した。
 4日朝、小枝橋に幕府軍は再攻する。だが、再び撃退される。5日、明治天皇は薩摩側に岩倉具視、大久保利通が考案した錦旗を与え、新政府軍が官軍になる。旧幕府軍は一挙に大義を失う。その後、鳥羽、淀、八幡と敗走する。7日、慶喜は密かに大坂城を脱し、天保山より幕府軍艦・開陽丸で江戸へ退却した。9日、大坂城に新政府軍が入る。その日、城は焼失した。以後、戦いは箱館戦争まで続く内戦・戊辰戦争(1868-1869)に続き旧幕府軍は完敗した。 
◆鳥羽離宮跡 鳥羽離宮跡公園は、平安時代、1086年、白河天皇が造らせたかつての南殿御所跡で、この地には証金剛院が建っていた。離宮の南殿北に、築山「秋の山」が造られていた。
 現在は遺構と考えられる「秋の山」だけが残されている。
 1179年、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、一時期、院政が停止している。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京の橋ものがたり』『京都歩きの愉しみ』『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』『京都・観光文化 時代MAP』『京都大事典』


  城南宮      御香宮神社                   

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 小枝橋 京都市伏見区中島流作町付近
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