舎密局跡 (京都市中京区)  
Ruins of Seimi-kyoku
舎密局跡 舎密局跡
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舎密局跡の京都市の駒札


銅駝(どうだ)美術工芸高校




銅駝美術工芸高校


【参照】舎密局(京都学歴彩館蔵)、琵琶湖疏水記念館説明板より


銅駝水
 銅駝(どうだ)美術工芸高等学校敷地の南西角に、「舎密局跡(せいみきょく-あと)」の駒札が立てられている。
 この地には、かつて舎密局本局が置かれていた。東京遷都後に沈滞した京都の産業振興のための、理化学(舎密)の研究施設だった。
◆歴史年表 近代、1870年、11月/ 12月、京都府は旧長州藩邸(中京区河原町二条下ル)に舎密局を仮設立している。
 1871年、舎密局は薬物の検査証明、飲料の検定・証明などを行う。
 1872年、1月、旧角倉邸(中京区二条上る)に分局が設けられた。
 1873年、2月、 京都府は舎密局内に製靴場を開設する。6月、現在地付近の旧京極宮別邸(木屋町二条上ル、中京区夷川土手町)に本局が建設される。
 1875年-1876年、軍医・ゲールツ(ヘールツ)が舎密局で指導した。
 1878年、ワグネルを招き、化学校が開校される。ワグネルが教授している。
 1881年、1月、 就任した新知事・北垣国道の方針により、舎密局、諸工場の多くが民間に払い下げられた 。舎密局は、博高が払い下げを受ける。
 1884年、舎密局は資金面などで困難をきたし閉鎖した。
 1895年、舎密局の建物も失われる。

 1903年、「銅駝校」は現在地(鉾田町)に移転した。
 現代、1948年、「銅駝中学校」になる。
 1980年、銅駝中学校跡地に「銅駝美術工芸高等学校」が開校した。
◆明石博高 江戸時代後期-近代の医師・化学者・衛生学者・殖産家・明石博高(あかし-ひろあきら、1839-1910)。名は博人。号は静瀾。京都生まれ。父は代々の医薬舗「浩然堂」を営む弥三郎、母は浅子。5歳で父が亡くなる。外祖父・蘭方医・松本松翁に育てられ、西洋医術・化学製薬術を学ぶ。14歳頃、桂文郁に古典医学を学ぶ。宮本阮甫・武市文造にオランダ語、柏原学介に物理学、錦小路頼徳に解体術、主に新宮凉閣に解剖・生理・薬物・臨床医学、新宮凉民にも学ぶ。田中探山に本草学、辻礼甫に化学・製薬術・測量術を学ぶ。1865年、京都医学研究会を創設した。1866年、公家・錦小路頼言(にしきこうじ-よりあき)に入門し、医道免許を受けた。自宅で理科学研究会「煉眞舎(れんししゃ)」を主宰し、理化学・薬学を研究した。1868年、博高は頼言に建議し御所内病院(烏丸一条下ル、施薬院三雲宗順宅)を開設し、医務を担当した。戊辰戦争の死傷者救済を行う。1869年、煉眞舎を三条通室町に移す。後に三井別邸で開かれた。大阪・浪華仮病院を創設し、薬局主管・看頭になる。オランダ人・ハラタマ、ボードインらを招く。大阪舎密局のハラタマの助手も務める。1870年、三井別邸に移る。京都府参事・槇村正直の誘いで京都府に出仕した。京都舎密局を創設する。1871年、勧業掛になり、主吏に就く。1874年、京都で日本最初の医師免許試験の実施を提言した。1877年、コレラの流行に際して、再流行を予言し検疫制度の採用を提案する。1881年、府を辞している。京都舎密局の廃止に際し、払下げを受けた。伏見製作所も払い下げられた。私財を尽くして支援する。1884年、京都舎密局は多額の負債で困難をきたし閉鎖している。後、私邸(河原町蛸薬師東入ル)に厚生病院を開く。失意のうちに没した。著『日本薬泉考』『化学撮要』など。72歳。
 槇村正直、山本覚馬、三井源右衛門らと親交があった。博高は数多くの政策・事業に関与した。養蚕場(1871)、鴨東牧畜場(1872)、鉄具製工場(伏見製作所)(1873)、製靴場(1873)、織殿(1874)、染殿(1875)、梅津製紙場(1876)、日本初の小学校、英学校、農学校、女紅場(にょこうば)、博物館、観象台、勧業場(1871)、授産所、療病館(1870)、京都療病院(1872)、避病院(1872)、医学校(1872)、粟田口解剖所(1872)、医務取締制(1872)、医師試験制度(1874)、合薬会社アポテーキ(1874)、京都癲狂院(とんきょういん)(1875)、官立司薬場(1875)、円山吉水温泉などを創設した。京都博覧会開催にも関わる。1873年に、円山の枝垂桜を伐採から守った。
 墓は京都市営清水山墓地(東山区)にある。神道のために当初は墓は立てられず、松の木が植えられていた。1959年、明石家、明石博高翁顕彰会により墓が立てられた。
◆ヘールツ 近代のオランダの薬学者・ヘールツ/ゲールツ(Geerts, Anton Johannes Cornelis、1843-1883)。アムステルダム近郊生まれ。ユトレヒト大学で薬学を学び、陸軍薬剤官になる。21歳で陸軍軍医学校化学教官に抜擢される。1869年、来日し、長崎医学校の理化学教師になる。1875年、内務省衛生局雇として京都司薬場(施薬場)教師になり、薬品取締の検査と薬学教育を行う。京都府の設けた舎密局で理化学の教育を担当した。1876年、横浜司薬場に移る。妻は日本人の山口きわ。40歳。
 衛生知識の普及、コレラ防疫、伝染病予防規則制定の建議に尽力した。終生『日本薬局方』の編集を行う。日本研究資料収集、温泉調査に努める。
 山手の外国人墓地(横浜市)に葬られた。
◆ワグネル 近代のドイツ人化学者・ワグネル (Wagner Gottfried、1831-1892)。ドイツのハノーバー生まれ。1846年-1848年、地元の工芸学校に学び、鉄道に就職した。1849年-1851年、ゲッティンゲン大学でガウス、ベルリン大学の数学者・ディリクレに学ぶ。1852年、同大学から数学論文で博士号を取得した。その後、パリで数学を教え、数カ国語・化学を学ぶ。1860年-1864年、スイスのショー.ド.フォンの工業学校で数学・自然科学を教える。1864年、失職し、ドイツで義兄と溶鉱炉事業、パリで弟と化学工場設置を計画し失敗、一時療養した。1868年、来日した。上海のアメリカ商会より、長崎での石鹸工場建設を依頼される。石鹸は売れず事業は成功しなかった。1870年、肥前佐賀藩・有田の郡令・百武作十の発案により製陶近代化を指導した。酸化コバルトを有田小樽山の土で希釈、山林乱伐による水害防止のために植林を指導する。石炭・木炭両用の窯を奨励した。佐賀藩の佐野常民を知る。1871年、大学南校(東京大学前身)、1872年、東校(東京大学医学部前身)の講師として物理、化学を教える。ウィーン万国博覧会御用掛になる。1873年、ウィーン万国博覧会の欧日両政府顧問を務め、出品物の選択・製作を指導し成功に導く。日本は職工24人、総員77人で参加し、出品した京都の美術工芸品などは大好評を博した。閉会後、佐賀の伝習生・納富介次郎らが現地に残り技術習得した。同年、近代的な中等専門技術教育機関設置を文部省に建議した。1874年、東京開成学校(東京大学の前身)で理化学を教えた。文部省が開成学校内に開いた技術教育のための製作学教場の教師になる。1875年、内務省に設置の殖産興業政策部署顧問、博物館兼勤。農商務省で技術指導をした。勧業寮内の試験製作所でも教えた。1876年、フィラデルフィアの万国博覧会でも日本政府の顧問になる。1877年、製作学教場が廃止され、七宝製造の研究を行う。1878年、京都府に招かれる。舎密局(せいみきょく)、京都医学校(京都府立医科大学の前身)で教える。舎密局内に自ら設計した薪・石炭を使用する陶器窯(耐火煉瓦製)を築く。1879年、五条坂に舎密局管轄の陶磁器実験工場を建設し使用する。1881年、舎密局の廃止に伴い、東京大学理学部化学科教授として製造化学を教える。1882年、農商務省の依頼で陶器焼成窯を設計・製作した。1883年、植田豊橘を助手に、神田の東京大学理学部化学教室で陶器「吾妻焼(旭焼)」の創製の研究を開始した。1884年、小石川の江戸川町で吾妻焼の製造実験を開始した。東京大学教授解任後、東京職工学校(東京工業大学前身)化学工芸部の専修科目窯業学を教えた。1885年、農商務省兼勤になる。吾妻焼製造実験工場を麻布霊南坂下に移転する。1886年、ワグネルの提言により、陶器玻璃(はり)工科が開設され主任官に就任した。純日本風の改良陶器「旭焼(吾妻焼より改称)」を東京職工学校に移し創製する。1890年、教え子の窯業技術者・藤江永孝を伴い、愛知・岡山・山口・佐賀・長崎の陶業地を視察した。途中で発病し、ドイツに一時帰国し療養した。1892年、東京に戻り亡くなる。ドイツの採鉱冶金学者・クルト.ネットーとの共著『日本のユーモア』など。
 旧来の徒弟教育でなく、近代的な技術教育の設置に尽力した。日本古来の美を愛し、伝統工芸を海外に紹介した。京焼・永楽善五郎、日本陶器創立者・飛鳥井孝太郎らが教えを受ける。陶家・入江道仙、永楽和全と交流した。島津製作所創業者・島津源五郎も旋盤技術をワグネルから習得した 。助手の小泉俊太郎、上田勝行らは後に京都薬科大学を生む。陶磁器、ガラス、石鹸、薬物、染織、ラムネ(鉄砲水)などの改良・研究も行う。
 墓は遺志により東京・青山墓地(港区)にある。記念碑は京都岡崎(左京区)、東京工業大学(目黒区)構内にある。
◆舎密局 近代、1868年に幕府開成所の理化学部門を大阪に移転した。1869年に政府は官営・公営の大阪舎密局(大阪市中央区大手前)を開局し、理化学の研究、教育、勧業を行った。
 舎密(せいみ)とはオランダ語/ドイツ語のChemie(化学)を英語風に読み当字をした。江戸時代の洋学者・宇田川榕庵(うだがわ-ようあん、1798-1846)が翻訳したという。当初は「しゃみつ」と呼ばれていた。
 明治新政府は、「殖産興業」「富国強兵」政策下で、硝石・火薬の製法などを重視した。教授にオランダ人・ハラタマ(1831-1888)を迎え、器械を輸入した。1870年に大阪理学所、さらに大阪開成学校に改称している。西洋の近代化学・物理学を主とする講義・実験が日本で初めて行なわれる。1872年には閉校している。
 大阪舎密局は第三高等中学校の基になる。1889年に京都に移転し、京都大学になった。
 1870年に京都府立の京都舎密局も開設される。京都府の勧業課長・明石博高の建議により、権大参事・槇村正直が大阪の舎密局から独立させている。開業前の勧業場(木屋町二条上ル、中京区土手町通竹屋町下ル)内に置かれた。その後、周辺地にも拡張される。
 石鹸、ガラス、漂泊粉、氷砂糖、鉄砲水(ラムネ)、ビールなどの飲食物の製造指導、薬物検定が行われた。陶磁器、織物、染色の改良実験も行う。ワグネルは七宝焼きの着色術を指導し、清水焼の製造改良に貢献した。
 1881年、 就任した北垣国道知事の政策変更により、舎密局をはじめ工場の多くが民間に払い下げられた 。博高は払い下げを受けている。1884年、資金面などで困難をきたし舎密局は閉局した。
◆銅駝・銅駝校 「銅駝(どうだ)」の名称は、漢の洛陽から西域への起点に駱駝(らくだ)の銅像が立てられていたことに由来している。平安京は中国の都制に倣ったため、二条より北、中御門辺りまでの左右両京の坊名を「銅駝坊」と称していた。
 近代、1869年9月21日に「上京第三十一番組小学校」(二条通寺町東入榎木町)が開校している。1872年に「上京第三十一区小学校」になる。1875年には「銅駝校」に改称される。校名は、第2代知事・槇村正道によるという。1903年に現在地(鉾田町)に移転した。1948年、「銅駝中学校」になる。
 1980年に京都市立日吉ヶ丘高等学校美術工芸科(東山区)が独立し、現在地(銅駝中学校跡地)に「銅駝美術工芸高等学校」が開校している。
◆銅駝水 「銅駝水」は、京都名水の一つという。銅駝美術工芸高校の南に隣接する銅駝会館内にある。塀外、塀内にも蛇口が付けられ、現在も湧水がある。
◆桂宮・京極宮 桂宮は、江戸時代の四親王家、伏見、有栖川(ありすがわ)・閑院(かんいん)の一つだった。
 第106代・正親町天皇皇子・誠仁(さねひと)親王第6皇子・智仁(としひと)親王(1579-1629)を「桂宮」初代にする。親王は初め豊臣秀吉の猶子になる。
 1589年に秀吉に鶴松が産まれると、親王家の取り立てを申請し、1590年に「八条宮」が創設された。別邸(桂離宮)は2代・智忠(としただ)親王の時に完成した。
 5代・尚仁(ひさひと)親王に嗣なく、第112代・霊元天皇皇子作宮(さくのみや)が継嗣になり「常盤井宮」になる。
 その夭折後、兄・文仁(あやひと)親王(1680-1711)が6代になり「京極宮」に改めた。
 その孫・公仁(きみひと)親王に嗣なく、第119代・光格天皇皇子・盛仁(たけひと)親王が9代になり「桂宮」と称した。10代・節仁(みさひと)親王、11代にその姉・淑子(すみこ)内親王が継承する。1881年、その死去とともに断絶した。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札、『増補版 京都の医史跡探訪』、『京の医学』、『京都大事典』、ウェブサイト「 京都・近代化の軌跡- 京都経済同友会」、ウェブサイト「 近創史No.6/2008年 日本の美を工業化したワグネル 佐賀・京都・東京で広く活躍」、『ウェブサイト「東京工業大学 ドクトル・ゴットフリード・ワグネル略年譜」 、ウェブサイト「中京区役所 銅駝学区」、琵琶湖疏水記念館、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 舎密局跡 〒604-0902 京都市中京区鉾田町542,中京区土手町通竹屋町下ル東側 銅駝美術工芸高等学校敷地内
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