長州藩邸跡 (京都市中京区)  
The ruins of residence of Choshu Domain
長州藩邸跡 長州藩邸跡
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ホテルの南側にある「長州藩邸址」の石標


ホテルの西側玄関にある桂小五郎(木戸孝允)の等身大の像


桂小五郎(木戸孝允)
 京都ホテルオークラの南側に、「長州藩邸址(跡)」の石標が立てられている。
 この地一帯には、江戸時代に長州藩邸京屋敷が置かれていた。藩邸は、幕末-維新に重要な政治的拠点になった。
◆歴史年表 江戸時代初期、慶長年間()以来、長州藩邸京屋敷は高瀬川畔(河原町通二条下ル)にあった。
 1864年、閏1月、吉田稔麿は池田屋事件で新選組に襲われ、重傷を負い長州藩邸まで帰ったものの門内に入れず、門外で自殺した。7月、禁門の変(蛤御門の変)にともない罹災している。
 幕末-維新、重要な政治的拠点の一つになる。
 近代、1868年、藩邸跡は官有になり、勧業が設立された。外国語を専門に教える欧学舎になる。
 1877年、第122代・明治天皇が行幸した。
 1888年/1890年、常盤ホテルが開業した。
 1895年、京都ホテルになる。
 1938年、京都市教育会により石標が立てられた。
 現代、1995年、等身大の桂小五郎像が立てられる。
 2002年、京都ホテルオークラに改めた。
◆木戸孝允 江戸時代後期-近代の政治家・木戸孝允(きど-たかよし/こういん、1833-1877)。本姓は和田、通称は桂小五郎(かつら-こごろう)、貫治、準一郎、号は松菊(しょうぎく)、木圭、竿鈴(干令)、変名は新堀松輔、あだ名は逃げの小五郎など。萩(山口県)の生まれ。長州萩藩医・和田昌景の次男。1840年、桂九郎兵衛(孝古)の養子になる。1849年、吉田松陰の門下になった。1852年、江戸に出て剣術・斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)に入り塾頭になる。後、江川太郎左衛門から洋式砲術を学ぶ。蘭学、造船術も学ぶ。水戸、越前、薩摩などの尊攘派と交わった。1860年、井伊大老の暗殺直後に、長州藩の軍艦・丙辰丸船上で水戸藩士・西丸帯刀らと「丙辰丸盟約」を結び、尊王攘夷に加わる。1862年、藩命により京都・長州藩邸へ入り情報収集を行う。1863年、8月18日の政変後に京都に潜伏した。1864年、6月、新撰組による池田屋襲撃では難を逃れた。7月、蛤御門(禁門の変)を防ぐことができず、但馬・出石に潜伏する。1865年、一旦、長州に帰藩した。1866年、長州藩代表として、京都・薩摩藩邸で坂本龍馬の立会により薩摩藩・西郷隆盛らと「薩長同盟」を結ぶ。1867年、長州藩を訪ねた大久保利通、西郷らと討幕挙兵を協議した。 1868年、新政府の太政官に出仕し、参与になる。由利公正、福岡孝弟らと「五箇条の御誓文」の起草に関与した。1869年、版籍奉還建白の実現に関わる。1870年、新政府の参議になる。1871年、西郷とともに廃藩置県の断行に関与した。開明急進派を主導し、漸進派の大久保と対立する。米欧遣外使節団(特命全権大使・岩倉具視)の全権副使として大久保、伊藤博文らと米欧視察する。木戸は諸国の憲法・法制を担当した。1873年、帰国後、憲法制定を建言した。西郷、板垣退助らの征韓論に対し、内治派(大久保、岩倉、木戸)らは、国力が充実していないとして反対し、西郷を下野させた。木戸は大久保の独裁政権成立後は大久保を批判した。1874年、富国強兵政策の台湾出兵(征台の役)の、征台論に反対し参議を辞する。1875年、一時、大久保らの政府主流派に妥協し政府に復帰する。第1回地方官会議(大阪会議)の議長になる。再び、大久保主導への不満から、1876年、辞職した。1877年、西南戦争の最中に京都で病没する。44歳。
 「維新三功臣(ほかに西郷隆盛、大久保利通)」の一人。勝海舟、坂本龍馬、横井小楠ら開明派とも親交があった。
 墓は霊山護国神社内墓地(東山区)にある。
◆長州藩・藩邸 長州藩は外様の大藩であり、江戸時代の萩藩をいう。山口藩、毛利藩とも呼ばれた。長府、徳山、清末、岩国の4支藩を含めて長州藩と呼んだ。江戸時代末には周防国、長門国の2支藩を領有し、これらも含める。毛利元就(1497-1571 )を藩祖にし、藩主は代々、毛利氏になった。
 幕末-維新期に、尊王攘夷運動を推進した。1864年、下関戦争、1864年、蛤御門の変、幕府による1864年、第一次長州征伐後に、1866年、第二次長州征伐に勝利した。1866年、薩長同盟により薩摩藩と連合し討幕を進める。1868年以降、明治新政府に、木戸孝允(桂小五郎、1833-1877)、伊藤博文(俊輔、1841 -1909)、井上馨(聞多、1836 -1915)らが参加した。
 江戸時代初期、藩邸京屋敷は高瀬川畔の高瀬川一之舟入町(角倉屋敷)南側より御池通まで、河原町通より木屋町通一帯までの広大な敷地を占めていた。藩邸は高瀬川一之舟入に接した。当初は南北2カ所の屋敷があった。北側屋敷は表口39間(70m)、裏行31間(56m)、南側屋敷は、表口30間(54m)、裏行8間(14m)の広さを有していた。
 江戸時代、1864年、禁門の変(蛤御門の変)では、長州藩は会津、薩摩を中心にした朝廷、幕府方に敗れた。長州藩は自ら藩邸内に火を放ち京都を逃れる。ただ、火の手は藩邸内で消失し、市中に広がることはなかったともいう。また、この時の「どんどん焼け(鉄砲焼け)」により、市中を焼き尽くしたともいう。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 説明板、『京都大事典』、『幕末京都歴史ウォーキング』、『新選組と幕末の京都』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 長州藩邸跡 〒604-0924 京都市中京区一之船入町, 河原町御池
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