京都博覧会碑・京都の博覧会 (京都市左京区)  
Stone monument of Kyoto exposition
京都博覧会碑 京都博覧会碑
50音索引,Japanese alphabetical orderホーム,Home 50音索引,Japanese alphabetical orderホーム,Home

京都博覧会碑

「京都博覧会碑」の篆額


碑の裏面


「京都府一等属明石博高」の名が刻まれている。

【参照】「チンチン電車」
 岡崎の「みやこメッセ」内、敷地の東端に「京都博覧会碑(きょうと-はくらんかい-ひ)」が立てられている。
 東京遷都後、京都では振興策の一つとして多くの博覧会が催される。後に、岡崎公園は主要な博覧会会場になった。
◆歴史年表 近代、1871年、10月10日-11月30日、京都で日本初の博覧会(見本市)が西本願寺(下京区)の大書院で行われた。
 1872年、11月、京都府、民間で「京都博覧会社」が設立される。3月10日-5月31日(80日間)で、「第1回京都博覧会(附博覧会)」を開催する。西本願寺・建仁寺(東山区)・知恩院(東山区)が会場になる。第122代・明治天皇が臨幸した。
 1873年-1880年、第2回は、京都御苑(上京区)内の大宮御所・仙洞御所で、3月13日-6月10日(90日間)行われた。以後、第9回まで京都御苑内で開催される。
 1874年、第3回は3月1日-6月8日(100日間)に行われる。「機械会」と称され、外国製蒸気機械の公開運転が行われている。
 1875年、第4回は3月1日-6月8日(100日間)に行われる。附博覧に「都をどり」が登場した。
 1880年、常設の博覧会場が京都御苑東南隅に建設される。建物、庭園が造られた。碑は京都博覧協会により常設博覧会場内に立てられた。
 1881年、第10回では、京都御苑内東南の一角に、常設の博覧会場が建設され使用される。市民の資金を募り、ワグネルが設計した。
 1890年、京都博覧会社は「京都博覧会協会」と改称された。
  1895年、平安遷都千百年紀念祭に伴い、誘致運動により「第4内国勧業博覧会」が岡崎(左京区)で開催される。
 1897年、博覧会館(左京区岡崎)が建設された。
 1914年以降、京都市勧業館(左京区岡崎)が京都博覧会の会場になる。
 1915年、第123代・大正天皇即位大礼を記念し、岡崎公園(左京区岡崎)を中心に「大典記念京都博覧会」が催された。入場者数は86万人だった。
 1920年、入場者数33万人になる。
 1924年、「東宮殿下(第124代・昭和天皇)御成婚奉祝・万国博覧会参加50年記念博覧会」が岡崎公園で開かれた。1873年に日本初のウィーン万国博覧会(オーストリア)出品50年を記念している。入場者数は122万人だった。
 1928年、昭和天皇即位大礼を祝し、「大礼記念京都大博覧会」が開催された。会場は岡崎公園、京都刑務所跡地(中京区、二条城北)、恩賜京都博物館(東山区)の3カ所だった。入場者数は318万人だった。
 1937年、10月、京都博覧協会は解散する。12月、碑も京都御苑内から現在地の京都市勧業館内庭園に移されている。
◆槙村正直 近代の政治家・槙(槇)村正直(まきむら-まさなお、1834-1896)。通称は半九郎、号は竜山。父・長門(山口県)萩藩士・羽仁正純、母・常の次男。1866年、藩士として幕長戦争の際に、手廻組に加わり大島口に出張した。1867年、右筆(ゆうひつ)役になる。1868年、議政官史官試補になり、京都府出仕として官界に入る。木戸孝允の庇護があり、1869年、京都府権大参事になる。1873年、豪商・小野組の東京移転に行政権を濫用し妨害し、太政官臨時裁判所で有罪判決を受けた。1874年、京都府権知事、1877年、京都府知事、1880年、大阪府知事を歴任した。地方税追徴をめぐり議会と対立し、産業基立金処理では連合区会と対立した。1881年、府知事辞職に追い込まれ、元老院議官に転じた。1887年、男爵を授与され、法律取調委員、のち行政裁判所長官になる。1890年、貴族院議員、同院懲罰委員になった。63歳。
 東京遷都後の京都近代化策を推進し、山本覚馬、明石博隆らを起用した。欧学舎、舎密局(1870)、物産取引会社、勧業場(1871)、女紅場(1872)、博覧会社、琵琶湖疏水(1890)などを実施した。
◆明石博高 江戸時代後期-近代の医師・化学者・衛生学者・殖産家・明石博高(あかし-ひろあきら、1839-1910)。名は博人、号は静瀾。京都の生まれ。父・代々の医薬舗「浩然堂」を営む弥三郎、母・浅子。5歳で父が亡くなる。外祖父・蘭方医・松本松翁に育てられ、西洋医術・化学製薬術を学ぶ。14歳頃、桂文郁に古典医学を学んだ。宮本阮甫・武市文造にオランダ語、柏原学介に物理学、錦小路頼徳に解体術、主に新宮凉閣に解剖・生理・薬物・臨床医学、新宮凉民にも学ぶ。田中探山に本草学、辻礼甫に化学・製薬術・測量術を学んだ。1865年、京都医学研究会を創設した。1866年、公家・錦小路頼言(にしきこうじ-よりあき)に入門し、医道免許を受けた。自宅で理科学研究会「煉眞舎(れんししゃ)」を主宰し、理化学・薬学を研究した。1868年、博高は頼言に建議し御所内病院(烏丸一条下ル、施薬院三雲宗順宅)を開設し、医務を担当した。戊辰戦争の死傷者救済を行う。1869年、煉眞舎を三条通室町に移す。大阪・浪華仮病院を創設し、薬局主管・看頭になる。オランダ人・ハラタマ、ボードインらを招く。大阪舎密局のハラタマの助手も務める。1870年、煉眞舎は三井別邸に移る。京都府参事・槇村正直の誘いで京都府に出仕した。京都舎密局を創設し、局長になった。1871年、勧業掛になり、主吏に就く。1874年、京都で日本初の医師免許試験の実施を提言した。1877年、コレラの流行に際して、再流行を予言し検疫制度の採用を提案する。1881年、府知事・北垣国道に代わったため府を辞している。京都舎密局の廃止に際し、払下げを受けた。伏見製作所も払い下げられた。私財を尽くして支援する。1983年、私邸(河原町蛸薬師東入ル)に厚生病院を開き院長を務めた。明石と2人の医師は無給で、診療費も貧富を考慮し「適宜」とした。1884年、京都舎密局は多額の負債で困難をきたし閉鎖している。1887年、厚生病院も廃止され、その後は市井の医師として活動を続けた。著『日本薬泉考』『化学撮要』など。72歳。
 槇村正直、山本覚馬、三井源右衛門らと親交があった。博高は数多くの政策・事業に関与している。養蚕場(1871)、鴨東牧畜場(1872)、鉄具製工場(伏見製作所)(1873)、製靴場(1873)、織殿(1874)、染殿(1875)、梅津製紙場(1876)、日本初の小学校、英学校、農学校、女紅場(にょこうば)、博物館、観象台、勧業場(1871)、授産所、療病館(1870)、京都療病院(1872)、避病院(1872)、医学校(1872)、粟田口解剖所(1872)、医務取締制(1872)、医師試験制度(1874)、合薬会社アポテーキ(1874)、京都癲狂院(とんきょういん)(1875)、官立司薬場(1875)、円山吉水温泉などを創設した。京都博覧会開催にも関わる。1873年に、円山の枝垂桜を伐採から守った。
 墓は京都市営清水山墓地(東山区)にある。神道のために当初は墓は立てられず、松の木が植えられていた。1959年、明石家、明石博高翁顕彰会により墓が立てられている。
◆博覧会  京都で開催された1871-1928年の博覧会は56回といわれ、ほぼ毎年催されていた。主なものとして次のものがある。
 ◈1871年10月、京都で日本最初の「博覧会」が、西本願寺(下京区)の大書院で行われている。会期は10月10日から33日間に行われる。ただ、内容不十分として、第1回には数えられていない。
 古器旧物の展示品は国内166点、中国131点、欧州39点、入場料金1朱、入場者数1万1200人/1万1000人だった。
 ◈1872年3月より、「第1回京都博覧会」が、西本願寺・建仁寺(東山区)・知恩院(東山区)で80日間行われた。附博覧に祇園新橋の都踊、先斗町の鴨川踊とともに、「都をどり」(3代・井上八千代)が創始された。第122代・明治天皇が臨幸した。その後も、天皇・皇族の臨幸が相次ぐ。
 展示品は2485点、入場者数は3万1000人、外国人観光客770人も訪れている。
  ◈1895年、平安遷都千百年紀念祭に際して、「第4回内国勧業博覧会」が岡崎で会期4月1日から4カ月間行われた。なお、第1回-第3回は東京・上野、第5回は大阪・天王寺で開催されている。
 会場の岡崎には、工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、動物館、各府県の売店、飲食店などが建てられた。出品点数16万9000点、入場者数は113万人だった。
 博覧会開催に先立ち、1890年の琵琶湖疏水の完成、1891年に日本初の水力の蹴上発電所が完成した。1894年、京都電気鉄道会社が立ちあげられる。2月1日、七条停車場(京都駅)、伏見油掛間が開業している。4月1日、七条停車場-博覧会場-南禅寺船溜り(7km)が開業した。日本初の路面電車が運行し、「チンチン電車」(10km/h)と呼ばれ博覧会の目玉になる。
 1895年には、平安京の朝堂院、太極殿を縮小復元し、紀念祭の紀念殿として建てられた。この博覧会の建物群が、現在の平安神宮の創祀に繋がる。さらに、「京の三大祭」の一つに数えられる時代祭も、紀念祭の奉祝行事として始まった。
 ◈1915年11月の大正天皇即位大礼を記念し、「大典記念京都博覧会」が催された。会期は10月1日-12月19日の80日間だった。岡崎公園を中心に、京都の生産品展、文部省主催の美術展覧会が催される。入場者数は86万人だった。
 ◈1928年、昭和天皇即位大礼を祝し、「大礼記念京都大博覧会」が開催される。会場は岡崎公園、京都刑務所跡地(中京区、二条城北)、恩賜京都博物館(東山区)の3カ所だった。入場者数は318万人だった。
◆碑 近代、1880年に常設の博覧会場が京都御苑(上京区)東南隅に建設された。「京都博覧会碑碑」は京都博覧協会により会場内に立てられた。1937年10月に京都博覧協会が解散したのに伴い、12月に碑も京都御苑内から現在地の京都市勧業館内(左京区岡崎)の庭園に移されている。
 碑文によると、博覧会の役割として、珍しい物を展示することで、人々の知識増進、産業振興、貿易振興に寄与する。東京遷都後の京都の商業、産業、観光などの衰微に対し、賑わいを取り戻すことに大いに貢献したと記されている。
 碑文は京都府知事・槙村正直(1834-1896)の撰、「京都博覧会碑」の篆額は政治家・財政家・松方正義(1835-1924)による。碑の裏面に発起人として、鳩居堂7代・熊谷久右衛門(直孝、1817-1875)、三井家・8代・三井八郎右衛門 (高福、1808-85)、実業家・小野善助(1831-1887)など経済界の人々の名が刻まれている。博覧会掛として京都府一等属の明石博高(1839-1910)の名もある。
 自然石、高さ360㎝、幅115㎝、奥行17㎝。

 
原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 碑文、『京都大事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「京都市 都市史29 京都の博覧会 」、ウェブサイト「東京都総務局 史料解説―博覧会へのいざない 」、『京の文化と藝術-立命館大学文化講座 京都に学ぶ 8』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding areaワグネル顕彰碑  関連・周辺,relevance&surrounding area平安神宮  関連・周辺,relevance&surrounding area琵琶湖疏水・岡崎公園・鴨川運河  周辺,surrounding area  関連,relevance西本願寺・飛雲閣  関連,relevance建仁寺  周辺,surrounding area知恩院 関連,relevance京都御所・京都御苑   関連,relevance鳩居堂   関連,relevance舎密局(せいみきょく)跡  関連,relevance島津製作所創業之地  関連,relevance祇園甲部・花街・祇園  関連,relevance電気鉄道事業発祥地(下京区)  関連,relevance電気鉄道事業発祥の地(伏見区)  関連,relevance京都市電北野線記念碑    50音索引,Japanese alphabetical order 
map 京都博覧会碑 〒606-8343 京都市左京区岡崎成勝寺町(みやこメッセ内)
50音索引,Japanese alphabetical orderホーム,Hometop 50音索引,Japanese alphabetical orderホーム,Hometop
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光