粟田口峠(日岡峠)・粟田口刑場跡 (京都市山科区)  
Awataguchi-toge Pass
粟田口峠(日岡峠)・粟田口刑場跡 粟田口峠(日岡峠)・粟田口刑場跡
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石柱「日岡峠人馬道碑」


刻まれている「木食正禅」の名


上の道が三条通、左手が蹴上方面、右が山科方面になる。並行している下の道が車道で、道に面した白色四角部分が仕置場(刑場)になる。(九条山峠町町内会、京都市の説明板「御仕置絵図」より)


【参照】刑場があったと推定されている付近の山、道路は三条通


【参照】花鳥橋


【参照】九条山の地名
 三条通の九条山付近西側に、「粟田口刑場跡(あわたぐち-けいじょうあと)」の説明板が立てられている。
 付近は粟田峠と呼ばれた。東海道の最後の難所だった日岡峠に続く峠であり、幾度となく掘り下げ工事が行われた。
 粟田口(日岡)刑場の詳細については分かっていない。粟田峠付近にあったという。現在の東山ドライブウェイ陸橋(花鳥橋)の北西から蹴上浄水場の東端間にあったと推定されている。
◆歴史年表 江戸時代、粟田口(日岡)刑場があり、磔、獄門、火刑が行われていた。形場を望む山裾に、刑死者の供養塔が何基も立てられていた。
 1692年、3月、5月、ドイツ人医師・エンゲルベルト・ケンペルが粟田口、日岡村周辺で罪人を見たと記している。(『日本誌』)
 1736年、五条坂・安祥院住持の木食正禅により、粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられ、峠の切り下げ工事が行われた。同年、峠付近に「日岡峠人馬道碑」が立てられている。
 文化年間(1804-1818)、車道に車石舗装され、人馬道には燈籠が立てられた。
 1842年頃、刑場が「御仕置」と記されている。(「御仕置絵図」)
 1867年、急峻な日岡峠を避けるため、その北に新道が付け替えられた。このため、粟田口峠が日岡峠の最高所になった。
 近代、明治期(1868-1912)以降、粟田口峠が「日岡峠」と呼ばれる。明治期初期、周辺の供養塔、経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石、石垣石などに転用された。
 1872年、2月、刑場地の背後(南西)の粟田山中に、粟田口解剖所が設けられたとみられている。
 1873年、2月、粟田口解剖所で4屍体を解剖し、数百人の医師が参観している。
 1875年-1877年、日岡峠(粟田口峠)の切り下げ工事が行われている。
 1931年-1933年、京津国道改良工事が行われた。
◆養阿 江戸時代前期-後期の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。木食正禅、木食養阿。丹波国(京都府)桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事、五穀を断ち、木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃の善光寺、美濃の国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、六字名号碑、日岡名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)/1720年、狸谷不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興し、勧進により、1736年、日岡峠改修工事を着工する。1737年、旅人休憩所を設けた。1738年、日岡峠改修工事が完成する。1741年、法橋上人位を授与され、養阿に改めた。1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1763年、安祥院(東山区)で即身仏になり墓塔に納められた。日岡・梅香庵(山科区)で亡くなったともいう。76歳?。
◆日岡峠人馬道碑 石柱の「日岡峠人馬道碑」は、東山ドライブウェイの陸橋である花鳥橋近く、北西の山裾に立てられている。
 江戸時代、1736年に日岡峠道の改修に尽力した木食正禅が建立した。碑面には「享保廿一丙辰年二月十四日 日岡峠人馬道木食正禅建立」と刻まれている。
 碑の高さ2.30㎝、幅45㎝、厚さ45㎝。
◆粟田口刑場 粟田口(日ノ岡)刑場は、現在の碑の付近(東山ドライブウェイ陸橋の北西)から蹴上浄水場の東端間にあったとみられている。
 公開処刑場であり、磔(はりつけ、罪木に縛りつけ槍で突き殺した)、獄門(ごくもん、斬首し、獄門台に載せ罪状を記した立て札を立てた)、火刑(かけい、火あぶり)が行われていた。処刑場で約1万5000人が処刑されたという。
 江戸時代、1842年頃の「御仕置絵図」の写しには、刑場が「御仕置」と記されている。車道の脇にあり、周辺には複数の供養塔が立てられている。
◆粟田口解剖所 粟田口解剖所は、粟田口刑場の南西、粟田山山中(将軍塚の東南)にあったと推定されている。
 近代、1871年10月に舎密局(せいみきょく)から京都府に申請があった。1872年2月に、南北8間、東西4間の建物が立てられた。玻璃版(はりばん、ガラス板)を装した解剖台が備えられていた。1873年には、青蓮院内の粟田口療病院(東山区)の所轄になる。2月、執事・明石博高(1839-1910)は、医師・新宮凉閣(1828-1885)ら数百人を集めて4屍体の解剖を行っている。遺骸は南禅寺に祭壇を設けて慰霊した。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 九条山峠町町内会、京都市の案内板、『京の医史跡探訪』、『京の医学』、ウェブサイト「山科区役所 やましなを歩く東海道」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 粟田口峠(日岡峠)・粟田口刑場跡 〒607-8456 京都市山科区厨子奥花鳥町(ずしおくかちょう-ちょう)
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