安養寺 (京都市東山区)
Anyo-ji Temple
安養寺 安養寺
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「法然親鸞両上人御旧跡 吉水草庵 慈円山安養寺」の石標




「真葛原吉水庵室」碑柱








本堂


本堂額、東本願寺23世・彰如聖人、大谷光演筆



本堂


本堂



法然上人(円光大師)尊像(右)、親鸞像「信決定御満足の像」、説明版より


善導大師、圓光大師(法然)真葛ヶ原のご対面、法然が高僧・善導大師と対面した様子を描いている。




書院



聖天堂(歓喜天堂)、生駒聖天より勧請された。かつては雨宝堂だった。



聖天堂



阿弥陀如来の石仏







「露けしや真葛ヶ原に石の階」、桂樟蹊子(1909-1993)京都市生まれで水原秋桜子門下。京都馬酔木会を起こし、「霜林」を主宰。植物病理学者。先祖の桂隼之助は京都見廻組の一人で、坂本龍馬暗殺に関わったともいう。納屋に血糊りの付いた刀が油紙に包まれて保存されていたという。


都をどり功労者・尾田木ゆう(ユウ)墓所の石標



都をどり功労者・尾田木ゆう(ユウ)の墓



本堂からの市街地の遠望



【参照】現在は料亭になっている「左阿弥」(長寿庵)
 円山公園の東、東山中腹に安養寺(あんようじ)がある。この地は、法然ゆかりの吉水(よしみず)草庵旧跡ともいわれる。吉水は東山大谷の地名で、境内から霊水が湧き「良い水」であったことから称されたという。 
 正式には、慈円山大乗院安養寺という。山号の慈円山(略して円山<えんざん>)は中興の祖・慈円の名に因む。院号の大乗院は、九条兼実と慈円が再建した比叡山無動寺の大乗院に因む。寺名は、慈円の小倉百人一首、「おほけなく 浮世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖」に因み、世に感謝し、民の恩で暮らす意という。
 念仏門時宗、本尊は阿弥陀三尊立像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、延暦年間(782-806)、都鎮めの寺として第50代・桓武天皇の勅命により、最澄が創建したという。当初は天台別院だった。(寺伝)
 1174年、1175年とも、法然はこの地に庵を結び、吉水草庵と呼ばれた。念仏三昧の日々を送ったともいう。
 1175年、法然は西山広谷に棲み、1177年、この地吉水に移るともいう。
 1190年、証空は吉水に入室し、法然の弟子になる。(『西山上人縁起』) 
 建久年間(1190-1199)、青蓮院の慈鎮(慈円)が中興し、この地に隠棲した。吉水坊を営み吉水坊と呼ばれた。慈円大乗院安養寺とも称され、青蓮院に属した。
 鎌倉時代、1193年、慈鎮(慈円)は天台座主を辞し、吉水の祈祷道場大懺法院に住む。
 1201年、親鸞は当地吉水で専修念仏を説いていた法然のもとへ100日間訪ねたという
 1205年、後鳥羽上皇(第82代)が白河(三条白川坊の地)に最勝四天王院を建立した。鎌倉幕府の呪詛のためだった。慈鎮(慈円)は寺地を献じ、4月、殿舎を青蓮院より吉水坊に移した。6月、大懺法院が上棟される。8月、「移徒之儀」が行われ、熾盛光堂(しじょうこうどう)、新宮社などが竣工した。 
 1207年、「建永の法難」による法然流罪の後、吉水教団は念仏停止になる。
 1219年、1月、第3代将軍・源実朝が暗殺され、後鳥羽上皇の呪詛が成就したことから、最勝四天王院は穢れがあるとして破却された。旧地(三条白川坊)は慈円に返還された。
 室町時代、至徳年間(1384-1387)、時宗の国阿、弟子の宣阿が入り、時宗霊山派に改宗した。
 1385年、光英(こうえい)は、国阿に霊山寺を譲り、臨終の行儀を依頼し、安養寺で没したという。以後、霊山正法寺(しょうぼうじ)末となる。
 応永年間(1394-1427)、盲人僧・源照が本堂を建てた。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で廃絶した。その後、再興されている。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1536-1598)により寺領の寄進があった。
 江戸時代、1678年、境内の一部が知恩院に譲渡されている。
 1793年、円山の安養寺が「歌舞の場」になっていたという。(『思出草』)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈、上知となる。
 1886年、円山公園の整備に伴い、安養寺境内の大部分、伽藍、塔頭の多くは失われ、境内は東(現在地)に移された。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212) 。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り、黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じ、ひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷( 後の粟生光明寺) の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を、天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官( 鈴虫、松虫) らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房( 勢至堂付近) に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
法然の専修念仏とは、誰もがひたすら祈ることで極楽往生できるとするもので、既存の仏教で救われる対象ではない人々に希望をもたらした。
 吉水草庵(中の房)は、東山山麓にあったとみられている。法然はここで40年余りを過ごした。1201年、29歳の親鸞が参入し念仏門に投じた。また、浄土宗第2代聖光房( 鎮西上人) 、勢観房源智上人、熊谷蓮生房、阿波之介、天野四郎なども参集した。
◆慈円 鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん、1155-1225)。慈鎮。吉水僧正、無動寺法印。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光の娘。九条兼実の弟。1165年、11歳で延暦寺の 青蓮院に入り、1167年、覚快法親王の室に入って出家し、道快と称した。1181年、慈円と改名した。1192年、権僧正、天台座主、護持僧になった。1193年、座主を辞し、東山の吉水の祈祷道場大懺法院に住む。1196年、座主の地位を追われ、1201 年、再び座主になり、都合4度座主になった。1203年、大僧正になり、後鳥羽上皇(第82代)の護持僧になった。1221年、承久の乱後、新たに大懺法院を整備した。無動寺検校、四天王寺別当などを務めた。墓は比叡山東坂本小島坊、善峰寺にもある。
 公武協調した史書・史論書の『愚管抄』を著した。歌人として知られ、『新古今和歌集』、家集『拾玉集』にも多くの歌が収められている。
 慈円は天台座主でありながら、当時の新興宗教だった浄土宗開祖・法然、浄土真宗開祖・親鸞に理解を示し、延暦寺の圧力から庇護した。慈円が法然に与えた院内一坊跡に、法然没後、門弟の源智により勢至堂が建立され、知恩院の起こりになった。9歳の親鸞の得度に際して、剃髪の師になった。
◆親鸞
 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し、範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空( 法然) の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
 1201年、29歳の時、毎夜、比叡山より下り、六角堂の本堂に百日参籠した。95日目に、暁の夢に本尊が現れ、「法然の許へ行け」と告げられた。以後、「後世の助からんずる縁にあいまいらせん」と、69歳の法然のもとへ百日参籠を行う。六角堂より吉水へ通い、その導きにより浄土教に帰依した。その2年後、浄土真宗を開く。
◆国阿 鎌倉時代-室町時代の僧・国阿(こくあ、1314-1405)。播磨・円教寺で天台を修めた。託何(たくが)の弟子となり、時宗に転じた。1383年、京都の東山の正法(しょうぼう)寺、双林寺で布教にあたった。霊山派、国阿派の祖。
◆伝承 この付近一帯の原野を、かつては真葛ヶ原といった。現在の円山公園を挟んで、北は知恩院三門前、南は双林寺、東山山麓一帯を指した。かつては、真葛、薄、茅などが生い茂り、萩の名所だったという。
 この地で、法然と善導が夢中で対面した「真葛ヶ原のご対面」が行われたという。
 善導は、「腰上半身尋常僧相、腰下半身金色仏相」の姿で法然の夢に現れ、専修念仏の道を説いたという。その時、紫雲棚引き雲間に光が差した。光放つ色鳥が舞い降り、乱舞したという。法然は急いで山腹に登り、遙か西方を見やると、半金色生身の善導が現れ、法然を励ましたという。
 なお、浄土宗の檀家の仏壇では、阿弥陀仏を中心にして、右に半金色の善導、左に法然を祀り、この「真葛ヶ原のご対面」を再現している。
◆仏像・木像 法然念持仏という「阿弥陀如来三尊(観音、勢至)」、右に晩年という「法然上人(円光大師)尊像」、左に「慈鎮和尚尊像」、29歳の親鸞像「信決定御満足の像」(1939年作)が安置されている。
 親鸞像は、「百万人結縁信決定御満足親鸞聖人吉水参入二十九乾漆像」といい、大正期(1912-1926)、高力善嗟により、百万人の血縁者の名をしたためた紙を燃やし、その灰を漆と混ぜて造られたものという。
◆石仏 本堂前に石仏の「阿弥陀如来」がある。鎌倉時代作とみられ、額際が深く刻まれ、特徴を示している。蓮華座に定印、結跏趺坐する。衣文線も多く、蓮華座の弁の噴き方も厚い。舟形光背、厚肉彫、花崗岩製、1m。
 台座は別石で補われ、鎌倉風の格狭間を刻む。
◆文化財 鎌倉時代、日本曹洞宗の祖・道元の記した「遺偈( ゆいげ) 」がある。道元は、1253年8月28日明け方、京都の弟子・覚念宅で亡くなった。「五四年、第一天を照らす。箇のぼっ跳を打し、大千を触破( しょくは) す。咦(い) 渾身を覓( もと) むる無く、活( い) きながら黄泉( こうせん) に陥つ」とある。書き終えた後に永眠したという。
塔頭 近世-近代以前、現在の円山公園内に、安養寺の塔頭の六阿弥坊があり「円山の六坊」と呼ばれていた。
 1.「多蔵庵(春阿弥、眼阿弥[がんあみ])」は弁天社の北にあった。2.「延寿庵(連阿弥[れんあみ])」は、現在の安養寺の西、石段下付近にあった。3.「花洛庵(重阿弥[じゅうあみ]、端の寮[はしのりょう]、庭阿弥[ていあみ])」は、弁天社近く北東付近にあった。4.「多福庵(也阿弥[やあみ]」も、弁天社近くさらに北東付近にあった。5.「長寿庵(左阿弥[さあみ])」は、吉水社の西付近に現存している。6.「勝興庵(しょうこうあん、正阿弥[しょうあみ])」は、吉水社の西付近にあった。
 江戸時代以降、これらの塔頭は遊覧酒宴の宿になり、僧坊は貸し席、料亭になる。庭があり、俳句、連歌、能楽、蹴鞠、茶会、花の会などが催されていた。安養寺塔頭以外にも、近隣の双林寺、長楽寺も貸座敷と化し、19世紀前半には賑わいをみせた。
 春阿弥は、1877年(1886年とも)に温泉場になり高楼を建てる。1906年に焼失した。
 連阿弥は、1838年に焼失した。
 重阿弥は、弁財天前にあった。江戸時代、1702年、赤穂浪士により吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれている。
 近代に入り、1873年に、明石博高は安養寺塔頭に隣接し、鉱泉施設「吉水園」を建てた。三重楼閣があった。1886年に境内の大部分が円山公園に編入されている。
 1886年、重阿弥、連阿弥は、也阿弥に合併され、也阿弥ホテルになる。1899年に焼失した。その後再築され、正阿弥を合併し、外国人宿泊所になる。1906年に再び焼失した。正阿弥は、1886年に洋風旅館になり、1911年に焼失している。
 「左阿弥(さあみ、長寿庵、長寿院)」だけは、茶懐石の料亭として円山公園内にいまも残る。安養寺6坊中の唯一の遺構になる。近年建て替えられた。
 江戸時代初期の武将・織田長益(有楽斎) の次男・織田頼長(1582-1620、雲生寺道八) の建立によるという。作庭も行う。頼長は慶長年間(1596-1615)にこの地に暮らした。1614年、大坂冬の陣で敗れ、父とともに出家し茶を極める。有楽斎の茶会では、邸内の吉水の井水を用いたという。邸内に頼長の墓という江戸時代の五輪石塔(4m)が立つ。
 江戸時代、1849年(1625年とも)に料亭として開かれた。建仁寺・五温和尚と伊藤和尚合作の茶室「遍松庵」、富岡鉄斎席開きの「寛楽」など5茶室がある。
 近代以後、御前会議に使われたという。
◆円山 当寺の山号の慈円山により、江戸時代には「円山(えんざん)」と称された。徳川家康は「慈」を略して「円山」と呼んだともいう。
 現在の円山(まるやま)公園はかつての境内にあり、公園の名の由来になった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都古社寺辞典』『京都・山城寺院神社大事典』『京都 道元禅師を歩く』『證空辞典』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京の石造美術めぐり』『京の花街ものがたり』『日本の名僧』『文学散歩 作家が歩いた京の道』、ウェブサイト「コトバンク」


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