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鹿谷山荘遺址碑(俊寛僧都忠誠之碑)・鹿ヶ谷 (京都市左京区) Site of Shishigatani-sanso Residence |
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鹿谷山荘遺址碑・鹿ヶ谷 | 鹿谷山荘遺址碑・鹿ヶ谷 |
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![]() 碑が立つ岩山 ![]() 石段 ![]() 碑、副碑、この付近に山荘があったとされる。 ![]() 「俊寛僧都忠誠之碑」、一条実孝筆、碑文は長尾甲。 ![]() 副碑 ![]() 岩山傍の楼門の滝(如意ノ滝) ![]() 付近よりの京都市内の展望、山は西山方面。 |
霊鑑寺の脇より、大文字山に向かう急峻な山道を経ると、谷川にある滝の付近、岩山の上に「俊寛僧都忠誠之碑(しゅんかん-そうず-ちゅうせい-の-ひ)」と「副碑」が立つ。 この地に、かつて平安時代末期の僧・俊寛の鹿谷(ししがたに/ししのたに、鹿ヶ谷)山荘があったという。 ◆歴史年表 平安時代、1177年、鹿ヶ谷の俊寛の鹿谷山荘に、俊寛、西光法師、藤原成親、成経親子、平康頼らが集った。密かに平家の横暴に対し謀反計画をたてたという。(『平家物語』巻1) 近代、1935年、西垣精之助により現在地に碑が立てられた。 ◆俊寛 平安時代後期の真言宗の僧・俊寛(しゅんかん、1143?-1179?)。男性。山城(京都府)の生まれ。父・木寺法印寛雅。村上源氏源雅俊の孫。僧都になり、仁安年間(1166-1169)、父を継いで法勝寺執行になる。法勝寺領を管掌し、院関係の仏事を勤めた。1174年、八条院の御堂供養を行う。後白河院(第77代)の近習僧として仕えた。1174年、八条院の御堂供養なども行い、子・俊玄を法橋にした。1177年、平家横暴に抗し、藤原成親、成経父子、西光らと共に平氏打倒計画を企てる。謀議に、京都鹿ヶ谷の山荘を提供する。多田(源)行綱の密告で、平清盛によって捕らわれた。成経、平康頼とともに薩摩国・鬼界ケ島(硫黄島)に配流された。1178年、中宮徳子の御産に伴う大赦で成経、康頼は許され帰京した。俊寛は一人赦されず、その地で没した。(鹿ヶ谷事件)。37歳?。 『平家物語』、能、浄瑠璃、歌舞伎などの題材になった。 ◆有王 平安時代後期の有王(ありおう、 ?-?)。詳細不明。男性。京都で俊寛の侍童として仕えた。1177年、俊寛は鹿ヶ谷事件で薩摩・鬼界ヶ島(硫黄島)に流された。有王は島を訪れ、俊寛の娘の書状を届けた。俊寛は都での妻子の死などを知り、悲嘆のうちに亡くなったという。1179年、有王は俊寛の最期を看取り、遺骨は高野山奥の院に納めた。有王自らは法師になり、諸国を巡り俊寛を弔ったという。(『平家物語』巻3、『源平盛衰記』)。 民俗学者・柳田国男(1875-1962)は、有王を一群の高野聖の通名とし、御生れ(みあれ、神の誕生)と説いた。 ◆俊寛山荘跡 平安時代後期、1177年、俊寛の鹿谷(ししがたに/ししのたに)山荘に、俊寛(1143?-1179?)、西光法師(藤原師光、?-1177)、藤原成親(1138-1177)、成経親子(1156-1202)、平康頼(?-?)ら公家、武士が集った。密かに平家の横暴に対して謀反計画をたてた。時には、後白河法皇(第77代、1127-1192)も御幸したという。当時、平家一門は、官位、所領、荘園などを独占していた。 だが、同志の一人である北面の武士・多田蔵人行綱(ただの-くらうど-ゆきつな)(?-?)により密告された。首謀者の俊寛らは福原より入洛した平清盛(1118-1181)に捕らえられる。この鹿谷山荘事件(鹿ヶ谷の変)により、法皇は鳥羽殿に幽閉される。西光は斬殺、成親も備前に流され惨殺された。俊寛、成経、康頼らは薩摩国鬼界ヶ島(鬼界島、現鹿児島県硫黄島?)へ流された。翌1178年、成経、康頼の二人は赦免される。 首謀者とされた俊寛は、都に還ることもかなわなかった。俊寛の侍童・有王は、島を訪れ、俊寛の娘の手紙を届けたという。俊寛は涙を流し、読み終えて命を終えた。有王は、荼毘に付して遺骨を娘に届けた。娘は尼になり、有王も高野山に上ったという。 話は、『平家物語』、能、歌舞伎、人形浄瑠璃などに描かれている。峰定寺(左京区)には、俊寛と妻子の供養塔がある。この地は妻子が逃れた地という。平康頼の供養塔は双林寺(東山区)にある。 俊寛の山荘の位置については確定していない。鹿ヶ谷の地には、俊寛の所領地があっただけともいう。(『源平盛衰記』)。山荘の持主は、「静賢法印」だったともいう。(『愚管抄』) 霊鑑寺の東方山中には、「俊寛僧都忠誠之碑」が立ち、俊寛の山荘跡とされている。ただ、碑は、近代、1935年に西垣精之助()という人の夢告により立てられている。付近には現在も楼門の滝が落ち、かつて、平安時代中期-室町時代に存在した如意寺楼門に由来して名付けられたと見られている。如意寺の不動堂も建てられていた。霊鑑寺の南の道は「俊寛僧都旧跡道」と呼ばれている。 山荘跡としてほかに、鹿ヶ谷御所の段町の丘陵地(霊願寺東300m)、鹿ヶ谷村東の薮中、徳善谷にある談合谷(現在の碑の南の谷)、山科・安祥寺上の堂の跡地(壇の谷)ともされる。これが後世、「談合の谷」に転訛したともいう。 ◆白旗 第77代・後白河天皇(1127-1192)の院政時代に、戦の際の白旗の起源はあるという。北面の武士として御所警護した平氏は、赤旗を旗印にした。 後白河法皇は、平氏の打倒のために、鹿ヶ谷の陰謀に際し、30本の白旗を授けた。これが、紅白戦の始まりになったという。 ◆鹿ヶ谷 鹿ヶ谷(ししがたに)の鹿(しし)について、本来は「鹿猪(しし)」と書かれた。「しし」は、食用の獣の総称として用いられる。両者は区別され、鹿(かのしし)、猪(いのしし)とも呼ばれた。 鹿ヶ谷の地名由来について、平安時代前期、円珍(814-891)は山中で一頭の鹿に遭遇した。鹿はこの地を案内したことに因むともいう。 この地の谷に、山より鹿が下りてきたために呼ばれるようになったともいう。 ◆楼門の滝 楼門の滝(如意ノ滝)は、俊寛僧都忠誠之碑の近くにある。かつて、この付近に如意寺の楼門があったという。高さ10m。 ◆妙法念仏道場 この付近に法然(1133 -1212)の妙法念仏道場が開かれたともいう。 *碑は東山の山中にあります。大文字山に至る登山道(東山トレイル)は整備されており、道なりに登れば滝傍、岩山の上に碑が立っています。登山道の道案内は何か所かあります。霊鑑寺より約20分ほどの行程です。なお、途中より人家はありません。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都隠れた史跡100選』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都大事典』、『京都地名検証』、『京都歩きの愉しみ』 、「京都新聞2011年8月22日 -京の山寺・山城跡を行く 如意寺 下」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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