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四条大橋・四条河原 (京都市中京区-東山区) Shijo-ohashi Bridg,Shijokawara |
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四条大橋・四条河原 | 四条大橋・四条河原 |
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![]() 四条大橋 ![]() ![]() ![]() ![]() 欄干のデザイン ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 四条大橋から北方向、三条大橋、北山 ![]() 冠雪した北山 ![]() 【参照】室町時代後期の「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた四条大橋、御輿渡御の様子、京都土木事務所の鴨川の説明板より ![]() ![]() 【参照】江戸時代中期の『都名所図会』に描かれている四条河原夕涼(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター) ![]() 【参照】「皇室都祇園祭礼四条河原之涼」(五雲亭貞秀作、立命館大学アートサーチセンター蔵)、京都土木事務所の鴨川の説明板より ![]() 【参照】近代、1902年の四条大橋(ジャパンアーカイブス、琵琶湖疏水記念館の説明板より) ![]() 【参照】近代、明治期の四条大橋(矢野家写真資料、府立総合資料館蔵)、京都土木事務所の鴨川の説明板より ![]() 【参照】近代、大正期の四条大橋(黒川翠山撮影、府立総合資料館蔵)、京都土木事務所の鴨川の説明板より ![]() 【参照】近代、大正期の四条大橋(黒川翠山撮影、府立総合資料館蔵)、京都土木事務所の鴨川の説明板より ![]() 【参照】四条大橋の絵葉書、七条大橋の説明より ![]() 【参照】近代、1935年の四条大橋東詰での「鴨川出水」の様子、京都土木事務所の鴨川の説明板より ![]() 西岸南、右は中華料理レストラン東華菜館、ヴォーリズが設計したスペイン風バロック建築。 ![]() 西岸、先斗町 ![]() 北方向、先斗町、西岸の納涼床 ![]() 南方向、西岸 ![]() 南座と鴨川、南座(国登録有形文化財) ![]() 現在唯一残る「芝居小屋」南座の正面。四条大橋東側 ![]() 屋根の最上階には官許の証である櫓がある。 ![]() 「まねき上げ(揚げ)」 ![]() 四条大橋東詰北、阿国像 ![]() 「阿国歌舞伎発祥乃地」の碑、四条大橋東側 ![]() 前進座の「出雲阿国」南座公演 ![]() 7月10日、鴨川にかかる四条大橋の上での神輿洗 ![]() 朝鮮通信使の行列 ![]() 「北座跡」の碑、川端通四条上ル東側 ![]() 四条大橋北、西岸の「みそそぎ川」に組まれた納涼床、遠景は四条大橋 ![]() 車石跡、四条大橋上流東岸、かつて牛荷車はここから鴨川を渡った。 ![]() 【参照】行願寺(革堂)にある車石の遺構、溝に沿って荷車が川に出入りしていた。 ![]() 【参照】1875年頃の荒神橋付近の牛荷車、京都土木事務所の鴨川の説明板より京都府の鴨川の掲示板より ![]() ![]() 与謝野晶子の歌碑、川端四条上ル東 「四条橋 おしろい厚き 舞姫の 額ささやかに 打つ夕あられ」 ![]() 東詰南にある「京 ゆたかもの 雅」の碑 ![]() 【参照】かつて四条大橋を渡っていた市電 |
かつて鴨川の東岸は、いまよりも広く、仲源寺の辺りまで、西岸は柳馬場辺りまで河原が広がっていた。普段は何本かの小川の流れがあった。 四条大橋(しじょう-おおはし)は、公儀橋ではなく、庶民の手により架橋された仮橋だった。四条通の東にある祇園社(八坂神社)と、西の元祇園梛(もとぎおんなぎ)神社という二つの社の間にあり、四条通は祇園社の門前町として発展し、祇園会との関わりも深い。 京都の三大橋(ほかに三条大橋、五条大橋)の一つ。 ◆歴史年表 平安時代、1142年、祇園社参詣のために、勧進聖の寄付活動により板橋が架けられた。架橋の最も古い記録になる。(祇園社「社家記録」) 1154年、旧3月、僧妙という勧進聖が橋を新造し供養する。(『濫觴抄』『百錬抄』) 中世(鎌倉時代-室町時代)、橋の東に祇園社の朱塗りの鳥居が建てられていた。 鎌倉時代、橋は太鼓橋になり、擬宝珠はなかった。(『一遍上人絵詞伝』)。四条橋下に乞食僧・綴(つづれ)法師という「天下の悪党」が住し、六波羅探題の後藤某がこれを捕え、首を撥ねたという。(『蔭涼軒日録』) 1228年、風雨洪水により、四条大橋、五条大橋が流された。(『百錬抄』) 1284年、一遍が釈迦堂で踊り念仏を興行した際に、桁橋の四条橋が描かれている。(『一遍上人絵伝』) 南北朝時代、1347年、架橋のための勧進田楽が催される。 1349年、四条河原で架橋寄進(勧進)のために行われた「能くらべ」を、足利尊氏も観覧した。この時、桟敷60余間が壊れ、100人ほどの死者、多くの傷者が出る。「桟敷崩れの田楽」といわれた。(『師守記』『太平記』) 1374年、勧進僧の祇園感神院・十穀聖により架橋されている。(『師守記』) 1427年、洪水により四条橋、五条橋が落ちた。周辺の河原在家といわれる庶民の家が流された。 1441年、洪水により橋が落ちる。 1450年、九州の正領(等)入道により、36間(70m)の大橋が架橋される。祇園会で祇園神輿が御渡した。旧10月、相国寺、南禅寺、建仁寺の僧による供養が行われた。(『東寺執行日記』『祇園社記』)。その後も鴨川の洪水で幾度も流出し、その度に、氏子の寄進で架け替えられた。 室町時代、四条大橋は二重になっていた。(『町田家旧蔵本』『洛中洛外図上杉本』)。 室町時代、四条橋東側の大和大路角には、鴨川の治水の神・禹王社があったという。 1461年、「寛正の大飢饉(山城大飢饉)」の際に、飢饉と疫病、戦乱により、京中で8万2000人もの餓死者が出ている。時宗の僧・勧進聖の願阿弥は、四条橋河原、五条橋河原、油小路の空地で多くの餓死者を葬り塚を築く。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)。鴨川にも遺体が溢れ、川の流れを塞いだという。この後、四条橋で相国寺、東福寺、南禅寺の五山の僧による施餓鬼も相次いで行なわれた。 1517年頃、勧進聖・智源が本願になり、橋の再興が行われる。(「祇園古文書」『祇園社記』) 1519年、四条橋再興のために、山国より筏に組まれた材木が運ばれる。(「八坂神社文書」上) 1533年、四条橋が流失する。 1544年、大風、洪水により四条大橋、五条大橋が落ちる。京中でも被害がある。(『言継卿記』) 1547年頃、板橋の四条橋が描かれている。(『洛中洛外図屏風』上杉本) 安土・桃山時代、1576年、鴨川の洪水後、織田信長の命により橋は修復された。 1574年、四条河原には、中州を挟んで橋が2つ架かっていた。いずれも、祇園会のために造られていた。1つは粗末な船の上に板を渡した浮橋(船橋)だった。(『洛中洛外図屏風』) 1578年、洪水により、村井長門守の架けた四条橋は流失する。織田信長は洪水を押して播州に出陣する。(『信長公記』) 1581年、洪水により四条橋は流れる。 1591年、豊臣秀吉は洛中を囲むお土居を築造した。 江戸時代、元和-寛永年間(1615-1645)、板橋として描かれている。(『洛中洛外図』) 1654年、三条大橋は鴨川に架かる11橋の一つとして記されている。(『新板平安城東西南北町並洛外之図』) 1669年-1670年、京都所司代・板倉重矩により鴨川新堤(車坂-五条橋)の工事が始まる。石垣が築かれ西石垣(にしいしがき、西石[さいせき])、東石垣(ひがしいしがき)街が生まれた。 1676年頃、芝居小屋は、四条通南に3軒、北に2軒、繩手通四条上ル西に1軒あった。 1688年、旧5月、俳人・松尾芭蕉は四条河原の歌舞伎を観に出かけている。 1690年、旧6月上旬、芭蕉が四条河原で夕涼みしている。 1857年/1856年、旧4月、浮橋といわれる仮橋は、本格的な石橋(構造橋)に架け替えられた。下京の町衆、祇園社の氏子、祇園町新地の人々による募金と労力奉仕(河浚い[かわさらい] )が行われた。石柱42本の板橋(長さ90m、5.5m)が完成する。(『花洛名勝図絵』巻1に引用の『祇園新橋新造之記』)。大間渡り式が行われる。四条橋近くにも牛車の通る車道があった。橋を渡ることが出来ない荷車は、大和橋の南詰から白川に沿い鴨川に入っていた。 近代、1873年、京都初の錬鉄桁「くろがね橋」(長さ98.2m、幅7.3m)に架け替えられる。石柱鉄橋の材には、廃仏毀釈によって生じた寺院の銅製仏具類が使われた。京都府の補助を受ける。工費の半分は芸舞妓らが負担した。橋の欄干には、祇園の串団子と桜花散らしの意匠が施された。 1874年、架橋が完成し、京都初の鉄橋になる。渡り初めには祇園の芸妓が400人参加し盛大に祝う。経費の回収のために、橋に番所を設け通行料を徴収する。人は一銭、車馬は二銭で、このため「ゼニ取り橋」と評判が悪かった。 1881年、7月、橋は無料開放される。橋の管理は府に引き継がれ、後に市に変わった。 1894年、琵琶湖疏水運河の開通により、東岸のお茶屋床が撤去になる。北座は廃止された。 1897年、2月、四条河原で、染色技術者の稲畑勝太郎は、フランス留学から帰国後、仏人リュミエール兄弟の発明した「シネマトグラフ」の試写会を行った。この日本初の活動写真上映は失敗する。その後、島津製作所に変圧器の製作を依頼し、新京極東向座で公開映写を成功させている。 かつて「竹村家橋」という細い木造橋が、四条大橋の北一町ほどのところに架かっていた。橋の西詰めにあった料亭「竹村家」が私費で架けたことからこの名が生まれた。 1902年、橋中央にアーチが取り付けられる。東向きに「山紫水明」、西向きに「柳緑花紅」と彫られた。夜間に青と赤の電球が灯された。 1912年、鉄筋コンクリート製、ブロンズ製の高欄の橋に架け替えられた。新しく開通した市電が通る軌道敷の橋であり、幅員も広げられた。 1913年、3月20日、橋全体の工事が完了する。(「京都日出新聞」)。設計は、東大教授・柴田畦作、意匠は森山松之助、山口孝吉による。「セセッション(ゼツェシオン)式欧風意匠」といわれる。京阪電車四条駅ホームも橋のアーチに合わせた意匠だった。 1914年、洋画家・詩人・村山槐多は、詩「京都人の夜景色」で四条大橋、先斗町などを描写した。 1915年、京阪電車が三条大橋まで延長運行になる。 1935年、鴨川大洪水の際に、橋は流出はしなかった。基部の河積が大きな被害を受ける。流木が橋桁を塞ぎ、周辺の冠水被害が拡大した。橋は解体され、河床は1.5m掘り下げられた。 1937年、鋼板桁に架け替えられている。 1942年、12月、下部工の橋脚、橋桁が建設される。上部工は仮設のままになる。12月24日、竣工式が行われた。(「市事務報告書」) 太平洋戦争(1941-1945)中、欄干などの鉄材は金属供出になる。 現代、1964年、高欄意匠が全国公募される。 1965年、10月、全国公募により田村浩による高欄意匠が現在の橋に修景された。 1968年、鴨川納涼が復活した。 1972年、日本初の営業運転した市電廃止に伴い、市電は四条大橋を最後に渡る。 1996年、三条と四条間の鴨川に、フランス様式の芸術橋(ポン・デ・ザール)を架ける市の計画が表明され、以後、景観論争に発展した。(第二次景観問題)。その後計画は凍結される。 1999年、三条-七条間の「花の回廊」整備事業が完成した。 ◆出雲 阿国 安土・桃山時代の女性芸能者・出雲 阿国(いずもの-おくに、1572?-? )。詳細不明。女性。於国、国など。出雲国杵築中村の里・鍛冶中村三右衛門の娘ともいう。出雲大社の巫女(アルキ巫女)になり、永禄年間(1558-1570)、出雲大社勧進のため神楽舞をして諸国を巡回した。美貌もあり評判になる。1582年、奈良・春日大社で上演された「ややこ(稚児)踊り」は、8歳の加賀と演じた。1600年、京都で公家に招かれ近江殿、御所で菊とともに演じ、人気を博した。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露された。豊臣秀吉が伏見より入洛した際に、見物人が通行の妨げになったとして、興行は四条河原に移されたともいう。1604年、伊勢国桑名、1607年、江戸城で興行した。その後の消息は不明という。歌舞伎の創始者とされる。 ◆板倉 重矩 江戸時代前期の大名・板倉 重矩(いたくら-しげのり、1617-1673)。男性。幼名は長命、通称は又右衛門、内膳正(ないぜんのかみ)。父・板倉重昌(しげまさ)、母・林吉定の娘の長男。1637年、島原の乱で父・重昌と共に九州へ赴く。重昌は戦死し、重矩は戦功を上げる。軍律に違反し一時逼塞させられた。1639年、三河(愛知県)深溝(ふこうず)藩主・板倉家(2代)を継ぎ、三河中島藩主に転じた。大坂定番を経て1665年、老中になる。1668年-1670年、京都所司代になる。1669年、鴨川に寛文新堤を築いた。1670年、老中に再任される。1672年、下野(しもつけ)(栃木県)烏山藩主・板倉家初代になる。57歳。 所司代として朝廷からも厚い信任を得ていたという。 ◆村山 槐多 近代の洋画家・詩人・村山 槐多(むらやま-かいた、1896-1919)。男性。横浜の生まれ。高知、4歳で京都へ一家で移る。府立第一中学校時代に従兄の山本鼎(かなえ)に感化され、文学と美術に目覚める。ポー、ボードレールに親しむ。1914年、中学卒業後に上京、小杉未醒(みせい、放庵)の家に寄寓し、日本美術院研究所に学ぶ。同年、二科展、1915年、日本美術院展に初入選した。 1917年、代表作『湖水と女』で美術院院友に推される。1919年、『松と榎』などで美術院賞を受ける。小説、詩も書き、放浪し、肺結核を病む。没後、1928年、詩集『槐多の歌へる』が刊行された。22歳。 1914年、「京都人の夜景色」を書いた。「ま、綺麗やおへんかどうえ/このたそがれの明るさや暗さや/どうどつしやろ紫の空のいろ/空中に女の毛がからまる/ま、見とみやすなよろしゆおすえな/西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに/どうどつしやろえええなあ/ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい/灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も/ホイツスラーの薄ら明かりに/あては立つて居る四条大橋/じつと北を見つめながら/虹の様に五色に霞んでるえ北山が/河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな/青うて冷たいやろえなあれ先斗町の灯が/きらきらと映つとおすわ/三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ/芸妓はんがちらちらと見えるのに/ま、もう夜どすか早いえな/お空が紫でお星さんがきらきらと/たんとの人出やな、美しい人ばかり/まるで燈と顔との戦場/あ、びつくりした電車が走る/あ、こはかつた/ええ風が吹く事、今夜は/綺麗やけど冷めたい晩やわ/あては四条大橋に立つて居る/花の様に輝く仁丹の色電気/うるしぬりの夜空に/なんで、ぽかんと立つて居るのやろ/あても知りまへんに。」 ◆四条大橋 現在の四条大橋の架設年は1942年であり、橋種は鋼橋/3径間連続鋼(非合成)プレートガーター、橋長64.8m/65m、幅員24m/25mになる。路線名は嵐山祇園線。 当初は下部工の橋脚、橋桁が建設された。上部工は戦時中のため仮設のままに置かれた。太平洋戦争(1941-1945)中に、欄干などの鉄材は金属供出されている。戦後になり、1964年、高欄の意匠が全国公募される。1965年、全国公募(460点)により、京都市内の田村浩の意匠が選ばれ修景された。 土台の地覆は、花崗岩に黒い那智玉石を貼り、逆V字型のコンクリート躯体を渡した。手摺は金色の青銅鋳物製(12×10㎝)、ボルト隠し(130個)は、金鍍金青銅鋳物製であり、御所車を模っている。欄干のコンクリート内部に、自動点滅式水銀灯(180個)が埋め込まれていた。さらに、早朝に自動的に橋面を洗う「洗浄装置」が備えられていたという。(『夕刊京都』) 橋台には、1874年のアーチ橋当時のものが残されている。基礎杭(木杭)も残る。 近代、1935年の鴨川大洪水の際に、橋は流出はしなかった。高欄の一部が破損しただけだった。基部の河積が大きな被害を受ける。ただ、流失しなかったため、流木が橋桁を塞ぎ、越流が起こり周辺の先斗町などの冠水被害が拡大した。その後、橋は解体され、河床は1.5m掘り下げられている。なお、西詰橋下に先代橋の橋桁痕跡が残る。 ◆七条大橋・旧四条大橋 近代、1913年に、旧四条大橋の工事が完了する。設計は、東大教授・柴田畦作、意匠は森山松之助、山口孝吉による。 「セセッション(ゼツェシオン)式欧風意匠」といわれる。19世紀末のドイツ・オーストリアなどで起きた芸術革新であり、分離派といわれる。生活・機能と結びついた新造形芸術で、直線的、実用的で斬新なものだった。なお、京阪電車四条駅ホームも橋のアーチに合わせた意匠だった。四条大橋は、1942年に架け替えられている。 七条大橋と旧四条大橋は、「兄弟橋」といわれている。設計者、意匠の技術者が共通していた。鉄筋コンクリートアーチの基本デザインもスパン15.2m、ライズ1.5mと同じだった。ただ、前者は6連(鴨川5連、疏水1連)、後者は5連(鴨川4連、疏水1連)になる。七条大橋は現存している。 ◆阿国・歌舞伎 四条河原は、南北朝以来の市民の歓楽地だった。勧進田楽や猿楽を行う市民の遊散所でもあった。当時の鴨川の東岸は、現在の大和大路まで、西岸は現在の河原町辺りまであり、一帯は広大な広場であり、芝居小屋なども建ち並ぶ遊興地だった。 安土・桃山時代、1582年、10歳の出雲阿国は、奈良春日若宮で「ややこ踊り」という少女踊りを舞う。1600年、京都の公家の前でも踊る。1603年、北野神社で男装した阿国の「歌舞伎踊」が披露され人気を博した。その後、四条祇園社の近くでも興行する。ただ、四条河原での阿国による興行はなかったといわれている。四条河原町の小屋掛けで行われたのは、阿国の踊りを真似た六条柳町(六条三筋町)の遊女による総踊り、遊女歌舞伎だったという。 阿国は出雲国松江に生まれ、出雲大社の巫女(アルキ神子、歩き巫女)となり、諸国を巡業したともいう。ただ、諸説ある。阿国、名古屋山三(名護屋山三郎)らは、歌舞伎(傾奇が語源)の創始者とされている。阿国は派手な衣装をまとい、黄金の太刀に、首には十字架を掛けていた。若衆に扮した阿国は、女装した若者相手に、恋のさまを踊るという趣向だった。当時の世相や風俗、事件なども踊りに取り入れ、都人の「天下一の女」との評判を取る。阿国は、五条大橋(いまの松原橋付近)の河原で小屋掛けしたともいう。その後、豊臣秀吉は、伏見城への通行の邪魔になるとして、大村梅庵により四条河原に移させた。1604年に阿国は京都を去り、地方巡業を続けた。1607年に江戸城に招かれて踊った後の消息は分かっていない。 江戸時代前期、1608年、四条河原で遊女による女歌舞伎が初めて披露された。遊里は1589年に二条柳町に開設され、1602年に六条三筋町へ移転、1640年には島原へ移転させられる。その後も、遊女歌舞伎(1629年禁止)、若衆歌舞伎(1652年禁止)、野郎歌舞伎などが次々に現れ人気を集めた。幕府により「風紀を乱す」として度々禁止され、野郎歌舞伎を元にした女形による現在の歌舞伎につながる。 1615年頃、京都所司代は七つの櫓(芝居小屋)を許可した。四条通南に3座、北に2座、大和大路西に2座、それに現在の南の芝居(南座)だった。この頃から、四条河原は賑わいを増し、さまざまな遊興が繰り広げられる。遊女歌舞伎、操り人形浄瑠璃、能、楽器演奏、弓技場、動物などの見世物、犬の曲芸、軽業(放下、蜘蛛舞、蓮飛び、枕返、輪脱)、相撲の小屋掛けも見られた。その後、それぞれの櫓が火災などで焼失し、近代、1893年、「北座」(北の芝居)も火災に遭った。北座は、四条通の拡幅工事でついに廃止され、南座だけが今も残る。 顔見世は、17世紀の末に始まったという。近代、大正期(1912-1926)以来、東西の役者が揃うようになる。以後、興行は一度も絶えることなく続く。太平洋戦争中の1944年に、高級享楽停止令が出された。翌年には除外され、戦時下でも300年以上の歴史を持つ興行は続けられた。1906年、南座は松竹の経営になった。現在の建物は、1929年に新築されている。 ◆祇園 祇園が祇園社参詣人相手の遊興地になったのは、江戸時代前期の元和年間(1615-1623)で、1665年には幕府により茶屋の営業が認められている。1670年の寛文の鴨川新堤工事以後、三条-四条にかけて「新地」の開発が進んだ。それまであった西岸の茶屋が東岸に移され、芝居小屋は東岸、見世物小屋は西岸に分けられた。1681年に四条河原に「ホタル茶屋」も店を出している。江戸時代中期、1751年に宮川町に「陰間茶屋」が店を開いた。 ◆戦場・梟首 かつての鴨川は、いまよりも河川敷が広く中洲もあった。そのため、鴨の河原は数々の戦場になる。平安時代後期、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱や、幕末には、勤皇佐幕入れ乱れた抗争の舞台になった。戦になると見物人が出たという。見物人は、逃げ出した武将に対しては追い剥ぎに早代わりしたという。 四条河原でも梟首がおこなわれた。江戸時代後期、1862年に、幕末の天誅第一号になった島田左近、本間精一郎も晒し首になった。 ◆積塔会 近代以前まで、四条河原の西岸では積塔会(しゃくとうえ)が行なわれていた。目の不自由な人々が集まり、河原に石を積み上げ、祖先の報恩供養を行なた。 14世紀から、目を患い琵琶の名手といわれた仁明天皇第4皇子・人康親王(さねやす/ひとやす-しんのう)を祖神とした、総検校以下の人々が、四条河原で「積会」(旧2月16日)、「涼みの塔」(旧暦6月19日)を行った。職屋敷での琵琶演奏後、四条河原で石を積み上げ、香華を手向けていた。近代になり中止になった。 ◆親鸞 親鸞(1173-1263)と聖覚(1167-1235)は四条大橋の上で出合ったという。 親鸞が比叡山より六角堂への百日参籠を行った際に、満願の100日目に四条大橋の上で聖覚に会う。 親鸞はいまだ悟りに至らない心中を打ち明けた。聖覚は、いま吉水の法然の処へ伺うところだといい、法然の他力念仏について述べた。その後、親鸞は法然を訪ね、悟りを開いたという。 ◆納涼床 納涼床(のうりょうゆか)については、室町時代にすでに河原での夕涼みが行われていたという。安土・桃山時代、豊臣時代(1580-1590)に、裕福な商人が夏に遠来の客をもてなすのに、四条、五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのが始まりともいう。 中洲に板の小橋を渡し、浅瀬にも床几が置かれた。江戸時代前期、寛文年間(1661-1672)以降、護岸工事により生まれた東西両岸にも店が出された。最盛期は元禄年間(1688-1704)で、三条-松原間の河原に設けられ大いに賑わった。 納涼床は近代も引継がれる。近代、明治期(1868-1912)には、現在の高床式ばかりではなく、床机形式の低い床もあり、川の上に直接置かれていた。だが、増水時に被害があり、その後中止になる。1894年の琵琶湖疏水の完成後、高床式も東岸は中止になり、中州も1911年に四条大橋に市電が開通した後は中止になった。 1935年の昭和10年大洪水の後は、鴨川の補修工事により造られた水路の「みそそぎ川」(「禊川」、みそぎがわ、賀茂川の別称でもある)の上に納涼床を設けるようになる。「みそそぎ川」は、鴨川の水を取り入れ、鴨川の分流になる。床は、府の許可が必要で、鴨涯保勝会により管理されている。床開きは5月1日-9月30日になる。 ◆祇園祭 祇園祭の神幸路として、神輿の渡御、神輿洗の神事などの際には、「きよめの水」が鴨川から汲み上げられる。7月10日の夜、四条大橋で神輿洗のお祓いが行われる。 四条-五条(現在の松原橋)にかけての鴨川は「宮川」といわれている。現在も、「宮川町」「宮川筋」の名が残る。 ◆車石 東海道の起点は三条大橋になっている。荷を積んだ牛車の迅速な街道往来のために、道筋には車石という石が敷かれていた。いわば舗装道路で、竹田街道、鳥羽街道などにも見られた。石の規格は一定ではなく、長さは60-70㎝、幅30-40㎝、厚さ15-20㎝あり、上に幅15㎝、深さ10㎝の溝が開けられていた。この車石が牛車の車幅140㎝に合わせて2列に敷かれた。単線であり、午前は東行き、午後は西行きと分けられていた。重い牛車は橋を渡ることは許可されておらず、車道を使って川を渡った。 ◆顔見世 南座では、顔見世(かおみせ)興行(11月30日-12月26日)が行われている。10月の名古屋御園座、11月の東京歌舞伎座に続く、12月の南座興行は京都の師走の風物詩になっている。 11月24日深夜から25日に「まねき看板」が南座にかけられる。25日午前中に「まねき揚げ」が行なわれ、最後の大看板2枚が揚げられる。劇場正面には竹矢来が組まれる。役者の名を書いた独特の太字・勘亭流の招き看板(180cm×30cmの桧板)が掲げられる。上部の庵形は「入」の字になる。勘亭流の独特の字体も大入りの縁起を担ぐ。向かって右が関西、左が東京の役者の名で総勢40、50人になる。 この顔見世、役者の披露興行は、江戸時代、元禄期(1688-1704)に定着したとされる。かつて、役者は旧暦10月末に契約更新していた。このため、11月から役者紹介のために披露興行が行われた。現在の興行は、1906年に南座が松竹に移ってから始められた。第二次世界大戦中も中止にはならなかった。 鴨の河原を舞台とした芝居には「近頃河原達引」「九十九折」「鳥辺山心中」などがある。 ◆阿国像 四条大橋東詰北に「阿国像」が建つ。刀脇差、ロザリオの傾き姿になっている。 「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都に来たりて その踊を披露し 都人を酔わせる」の碑文が刻まれている。「此比、かぶき踊りと云事有、是は出雲国神子女名は国、但非好女、仕出、京都へ上る、縦(たとえ)ハ異風なる男のまねをして、刀脇指衣装以下殊異相、彼男茶屋女と戯る体有難くしたり、京中の上下賞翫(しょうがん)する事不斜、伏見城江へも参上し、度々踊る、その後学之、かぶきの座いくらも有て諸国へ下る、但江戸右大将秀忠公は終不見給」(『当代記』) 「阿国歌舞伎発祥乃地」の碑は、四条大橋東側、南座の西入り口にある。1953年に建立された。鞍馬石。 ◆朝鮮通信使 朝鮮通信使は、江戸時代の1607年-1811年まで12回が行われた。400-500人の一行が漢城(ソウル)から対馬、京都、江戸(時に対馬止まり、京都止まり、また日光まで行くこともあった)へと向かった。 往路は三条大橋、三条小橋、復路は五条大橋(現松原橋)を渡った。2007年に朝鮮通信使初来日400周年の記念事業として、市内で行列が再現された。 ◆シネマトグラフ映画 近代、1895年、フランスのオーギュストとルイのリュミエール兄弟は、「シネマトグラフ」を発明した。撮影機であり映写することも可能な機械だった。 1896年、渡欧していた稲畑勝太郎(1862- 1949)は、リヨン工業学校の級友・オーギュストに再会した。稲畑は、シネマトグラフのことを知り、映写会にも出かけている。 1897年、稲畑は、シネマトグラフの東洋での興行権を得て、技師ジレールも伴って帰国する。京都での試写実験に際し、京都電灯会社の長谷川技師の考案により、島津製作所に変電器を製作させた。2月、安全確保のため、四条河原の野外で試写会が行われたという。日本初の映写になる。 2月15-28日、大阪・南地演舞場で上映され大盛況となる。3月1日-6月3日、京都の新京極元東向演舞場(京極座)でも上映され、連日の大入りになった。広告には「仏国シネマトグラフ 自動幻画」と紹介されている。上映作品は白布(1.8m四方)に映し出された。無声映画の「フランス士官学生の騎馬演習」「ミラノの水泳」など約10本の作品があり、40分ほどの上映時間だった。 7月、アメリカ合衆国のエジソンが発明した「バイタスコープ」という新型の活動写真が導入され、京都でも上映されている。 ◆文学 ◈江戸時代前期、1688年旧5月4日に俳人・松尾芭蕉(1644-1694)は、四条河原の歌舞伎を観に出かけている。大坂の大和屋座の役者・吉岡求馬(もとめ)の芝居を観た。その翌日、求馬は急逝し、芭蕉は「花あやめ一夜にかれし求馬哉」と詠んでいる。 江戸時代前期、1690年旧6月上旬に、芭蕉は、医師・俳人・野沢凡兆宅(小川通椹木町)に10日間ほど滞在した。この時、四条河原に夕涼みし、「川かぜや 薄柿(うすがき)着たる 夕涼み」と詠んだ。 ◈江戸時代中期、1780年の『都名所図会』(著・秋里籬島、絵・竹原春朝斎)に四条河原の夕涼みの様が挿絵入りで記されている。 ◈島崎藤村(1872-1943)の『新生』には、四条大橋界隈の描写がある。フランスから帰国した藤村は、京都にしばらく滞在している。 ◈有吉佐和子(1931-1984)には『出雲の阿国』がある。 ◆景観論争 現在の四条大橋(1913)が架けられた際に、近代的なデザインに対し、景観に関して様々な批判が起きている。 四条大橋と三条大橋の間(新門前町通付近)の鴨川に、パリのポン・デ・ザール(芸術橋)風の橋を新設するという計画をめぐり、景観論争(1996-1998)が起きた。シラク仏大統領の提言を受け、京都市は、現代、1999年の「鴨川人道橋」完成を目指した。その後、市民の広範な反対運動が起こり、白紙撤回されている。 ◆花の回廊 現代、1999年に鴨川三条-七条にかけて、京都府と京都市による「花の回廊」整備事業が完成した。枝垂桜、山吹などが植栽された。 毎年4月初旬(4月6日-7日)には、「鴨川さくらまつり」が催される。鴨川河川敷(四条大橋-三条大橋間)のサクラ50本の並木がライトアップされ、鴨川右岸には「花灯路」が灯される。 ◆映画 時代劇映画「殺陣師段平」(監督・マキノ雅弘、1950年、東横映画)で、四条大橋で撮影が行われた。沢田正二郎(市川右太衛門)は、老殺陣師の段平(月形龍之助)の身を案じながら床で酒を飲む。 ◆アニメ ◈アニメーション『四畳半神話大系』(原作・森見登美彦、監督・湯浅政明、制作・マッドハウス、 2010年4月-7月、全11話)の第4話「弟子求ム」で、橋が登場する。 ◈アニメーション『有頂天家族』『有頂天家族2』(原作・森見登美彦、監督・吉原正行 、制作・P.A.WORKS、第1期2013年7月-9月、全13話、第2期2017年4月-6月、全12話)の舞台になった。第1期オープニング、第1期第1話で「下鴨矢三郎」が橋にもたれかかる。近くの南座は第1話で裏口階段に「赤玉先生」が居り、大屋根から「弁天」が飛び去る。第1期第12話の「偽叡山電車」で、第2期第12話にも登場する。 ◈アニメーション『ガリレイドンナ』(原作・梅津泰臣・TeamGD、制作・A-1 Pictures、2013年10月-12月、全11話)に橋が登場する。第8話「ジャッポーネ」に、鴨川三条-四条左岸のシーンがある。 ◈アニメーション『暗殺教室』(原作・松井優征、監督・岸誠二、制作・Lerche、第1期2015年1月-6月、第2期2016年1月-7月、第1期全22話、第2期全25話)に付近が登場する。第7話で修学旅行中のシーンがある。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』、『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京の橋ものがたり』、『鴨川・まちと川のあゆみ』、『京都の近代化遺産 近代建築編』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『あなたの知らない京都の歴史』、『京都はじまり物語』、『京都の映画80年の歩み』、『京都絵になる風景』、『京都隠れた史跡100選』、 『おんなの史跡を歩く』、『女たちの京都』、『京都・湖南の芭蕉』、『京都の自然ふしぎ見聞録』、『京都の災害をめぐる』、琵琶湖疏水記念館、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)」、ウェブサイト「アニメ旅」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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