稲畑勝太郎の銅像・旧関西日仏学館 (京都市左京区)  
Bronze statue of Inabata,Katsutaro
稲畑勝太郎の銅像・旧関西日仏学館 稲畑勝太郎の銅像・旧関西日仏学館
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Institut français du Japon-Kansai(アンスティチュ・フランセ関西)


Consulat Général de Franc/Consulat général de France à Kyoto

旧関西日仏学館、南側


南側


南側


東側、「関西日仏学館」の名


東側


東側


南側


東側、文化庁の登録有形文化財のプレート




稲畑勝太郎の銅像


稲畑勝太郎の銅像


稲畑勝太郎の銅像

当初の塀、南側


南側


敷地南側の路地、道を隔てて旧独逸文化研究所が隣接していた。


【参照】現在、南隣にある京都大学高等研究院・物質-細胞統合システム拠点本館
 旧関西日仏学館(きゅう-かんさい-にちふつ-がっかん)は、京都大学付近の東大路通に東面して建つ。現在は、「アンスティチュ・フランセ関西/京都(Institut français du Japon-Kansai/Kyoto)に名称変更している。
 近現代の実業家・稲畑勝太郎(いなばた-かつたろう)が、旧学館・新学館の創設に多大な貢献をした。敷地内には勝太郎の銅像(1936年)が立てられている。
◆歴史年表 近代、1926年、9月29日、稲畑勝太郎の呼びかけで、関西日仏学館設立準備会合が催された。駐日フランス大使・ポール・クローデルも出席し、設立の協力を要請した。財団法人「日仏文化協会」が設立され、クローデルは会長、勝太郎は副会長に就任した。
 1927年、京都蹴上・九条山(現在の関西日仏交流会館・ヴィラ九条山の地)に、関西日仏学館が建設される。学館は、日仏文化協会に付属した。建設は清水組が請け負った。
 1936年、5月、吉田泉殿町(京都工芸学校跡地)に新館を建設する。勝太郎が寄付金を募り、多額の建設費を集めた。5月27日、新館落成式が行われる。新大使・ロベール・ド・ビリーが出席した。
 1939年、館長にマルセル・ロベールが就任する。
 1940年、6月、ドイツ軍がパリを占領した。学館は、フランスとの連絡を絶たれ孤立した。9月、学館の専門講義の大半を中止し、講師陣を22人から10人に縮小している。
 1941年、12月、太平洋戦争が勃発する。学館は、戦時中も休館せず授業が続けられた。
 1942年、4月、日本政府から金属供出の申し入れがあった。
 1945年、3月まで、授業は続けられている。その後、学館は日本政府に接収される。島津製作所の帝国陸軍向け精密機器工場になった。6月、学館の宮本正清、ジャン=ピエール・オーシュコルヌの2人が警察に逮捕され投獄された。
 現代、1945年、8月、日本の敗戦直後に2人は釈放される。その後、4カ月の復興作業が行われ、再開館した。年末、アメリカ合衆国占領軍向けの授業が再開されている。
 1946年、1月、授業が再開された。
 1958年、6月15日、京都市とパリの「友情盟約」締結の際に学館は窓口になった。
 1998、4月、学館建物は文化庁の登録有形文化財(建造物)に指定される。
 2003年、学館は新装開館した。
 2009年、12月、大阪市にあった在大阪・神戸フランス総領事館が学館内に移設され開設される。
◆稲畑勝太郎 江戸時代後期-近現代の実業家・稲畑勝太郎(いなばた-かつたろう、1862-1949)。京都生まれ。父は烏丸御池の菓子舗職人・利助の長男、母はみつ。幼少時より秀才として知られた。1872年、9歳で京都府小学生代表として、天皇の御前で本を誦読する。1876年、師範学校に入学した。1877年、15歳で京都府派遣留学生の8人の一人として、フランス・リヨンに派遣される。派遣について、医師・レオン・デュリーが府知事・槇村正直に進言している。勝太郎は、マルチニエール工業学校で染色技術を学ぶ。マルナス染工場で技術習得した。後、リヨン大学で化学課程を修める。1883年、アムステルダム万国博覧会で京都府の出品人総代補を務めた。1885年、帰国する。京都府染工講習所教授に任じられる。1887年、京都織物会社に染色技師長として入社した。1890年、「稲畑染料店(現在の稲畑産業)」を開業し、合成染料の直輸入貿易を行う。1895年、「毛斯綸紡織」を設立する。1897年、大阪に「稲畑染工場」を設立し、海外進出も果たす。シネマトグラフの興行権を得て、フランス人のコンスタン・ジレルとともに、京都で日本初の映画上映を行う。1900年、軍服のカーキー色染出に成功し、実用化した。1904年-1905年、日露戦争以来、帝国陸軍制服の染出に関わる。1922年、大阪商業会議所第10代会頭になる。1926年、「日本染料製造株式会社」社長に就任した。財団法人「日仏文化協会」を設立し、副会長に就任する。1926年-1947年、貴族院勅選議員になる。88歳。
 フランス仏語に堪能だった。女学生の袴地の海老茶染、軍用服地のカーキー色染などで財を成した。日仏間の文化の懸け橋になることを望んだ。財団法人「日仏文化協会」の設立を呼びかけ、1927年、九条山・「関西日仏学館」の旧館建設、1936年の吉田・新館(後のアンスティチュ・フランセ関西)移設建設に寄付金を募り、多額の建設費を集めて協力した。
◆ポール ・クローデル 近現代の詩人・劇作家・外交官・ポール .クローデル(Paul Louis Charles Claudel,1868-1955)。北フランス・エーヌ県生まれ。父は大蔵省地方官吏・ルイ、母はルイーズ。4人子の末子。1881年、パリのルイ・ルグラン高等中学校に学ぶ。1884年、バカロレアに合格し哲学級へ進級した。級友にロマン.ロランがいた。1885年、パリ大学法学部に入学した。1890年、外交官試験に首席合格し、フランス外務省商務部に入る。1893年、アメリカ合衆国副領事などに就く。1895年-1909年、清国、上海領事館、福州領事、北京公使館一等書記官、天津領事など。1909年-1911年、オーストリア・ハンガリー領事、総領事、1911年-1914年、ドイツ総領事、ハンブルク総領事、1914年-1915年、フランス外務省、1915年-1916年、イタリア経済特使、1917年-1918年、ブラジル二等全権公使、1919年-1921年、デンマーク一等全権大使、1921年-1927年、駐日フランス大使、1927年-1933年、駐米フランス大使、1934年-1935年、駐ベルギー大使などを歴任した。1941年、ナチスのユダヤ人迫害に抗議する。1946年、アカデミー・フランセーズ会員になる。1951年、レジョン・ドヌール大十字勲章を受賞した。
 ド・ゴールと親交があった。文学に親しみ、アンドレ.ジッド、ロマン.ロランなどと交流する。外交官時代を通じ詩、戯曲などを発表する。1944年、ロラン没後、パリの「ロマン.ロランの友の会」初代会長になる。著『東方の認識』(1900年)、『五大賛歌」(1910)など。1923年、関東大震災直後の東京・横浜について、日本滞在記『朝日の中の黒い鳥』に記した。86歳。
 日本滞在中は日仏文化交流に貢献した。日本画家・竹内栖鳳、山本春挙らと交流した。1924年、東京・日仏会館、1927年、九条山・関西日仏学館旧館の建設に際して本省との折衝などに尽力した。1926年-1930年、京都帝国大学、第三高等学校でフランス文学を講義している。
◆レイモン・メストラレ 近代の建築家・レイモン.メストラレ(Raymond Mestrallet,1909-1943)。詳細不明。フランス生まれ。建築家・オーギュスト.ペレーの弟子になる。1936年、建設された吉田・関西日仏学館新館(現在のアンスティチュ・フランセ関西)の基本設計にあたる。
◆木子七郎 近現代の建築家・木子七郎(きご- しちろう、1884-1955)。京都に生まれる。宮内省内匠寮技師・木子清敬の四男。兄は建築家・木子幸三郎。1901年、高等師範学校附属中学校卒業。第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に入る。1911年、東京帝国大を卒業し、大林組設計部技師として来阪した。1913年、大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。日本赤十字社病院嘱託、日本赤十字社大阪支部病院嘱託、合資会社新田帯革製造所嘱託などを務める。1937年、フランスより、レジオンドヌール勲章を授与された。
 作品は、旧新田長次郎琴乃浦別邸(琴ノ浦温山荘、1915) (重文)、大阪国技館(初代、1919)、旧久松伯爵本邸(萬翠荘、1922)(重文)、 旧新田利國邸(松山大学温山記念会館、1928) (登録有形文化財)など。1936年、吉田・関西日仏学館新館(現在のアンスティチュ・フランセ関西)(登録有形文化財)の設計監督にあたる。
◆旧関西日仏学館 1926年、9月29日、稲畑勝太郎の呼びかけで、学館設立準備会合が催された。駐日フランス大使・ポール.クローデルも出席し、設立の協力を要請した。財団法人「日仏文化協会」が設立され、クローデルは会長に、勝太郎は副会長に就任する。勝太郎、実業家・政治家・藤田平太郎(1869-1940)も建設のための寄付をした。
 1927年、蹴上・九条山(現在のヴィラ九条山の地)に、日仏文化協会に付属した「関西日仏学館」旧館が建設される。財団法人「日仏文化協会」(会長・フランス大使)を母胎にした。5月27日、落成式には、2代大使・ロベール・ド・ビリー、官界、学界、財界の200人が集う。10月22日、フランスの化学者・ベルトロ(1827-1907)100年祭に来日していた、ベルトロの息子・ルネ.ベルトロにより開館記念講演が行われた。
 なお、理論物理学者・湯川秀樹(1907-1981)も学館に学んでいる。教授陣に、当初は哲学者・文学者・ジャン=ポール.サルトル(1905-1980)の予定があったという。その後の世界情勢の変化から実現はしなかった。
 3代館長・ルイ.マルシャンは、立地が便利な京都帝国大学周辺の現在地(現在の吉田泉殿町)への学館移転を決めた。1930年代にはフランスとドイツ間での対立が顕在化していた。フランス外務省は、日本の教育界・文化界でのドイツ隆盛に対抗し、フランス語教育の発展、日仏の文化融合による勢力拡大の意図があった。
 京都工芸学校跡地(4000㎡)の日本政府の国有地土地を、フランスとドイツが争う。日本政府は、等分の土地を両国に与えている。一筋の路地を挟み、北側をフランスに、南側をドイツに売却した。フランスの敷地(2030㎡)について、当初は無償で借り受け、後日、フランス政府が買い上げた。
 1936年、吉田泉殿町に新館を建設する。再び勝太郎が寄付金を募り、多額の建設費を集めた。5月27日、新館落成式が行われる。東久邇宮、フランス大使・「日仏文化協会」会長・フェルナン.ピラー、建設委員長・勝太郎、文部・外務両大臣、京都府・京都市、京都帝国大学総長、パリ大学代表の日仏会館学長らが祝辞を述べた。
 1940年、6月、ドイツ軍がパリを占領する。9月、日独伊三国同盟が締結され、学館は、フランスとの連絡を絶たれ孤立した。警察特高課は学館に対しての監視強化している。1941年、太平洋戦争になる。学館では、戦時も休館せずに授業が続けられた。1945年、島津製作所の軍需産業用作業場として接収された。1945年3月-年末、学館の多数の文書が押収され廃棄されている。6月15日、学館事務局長・専任教員の宮本正清、ジャン=ピエール.オーシュコルヌ(在神戸フランス領事・アルマン.オーシュコルヌの子)の2人が理由も示されず、警察に逮捕され投獄された。飢餓状態に置かれ、尋問と拷問を受ける。
 1945年、8月17日、日本の敗戦後に、オーシュコルヌは衰弱した状態で釈放され、米軍病院で手当を受けた。10月15日以降、マルセル.ロベール館長、オーシュコルヌは業務再開に向けて動く。館内は荒廃しており、4カ月にわたる復興作業が行われ、再開館している。1946年1月、授業が再開された。年末、アメリカ合衆国占領軍向けの授業が再開されている。1958年6月15日、京都市とパリの「友情盟約」締結の際に学館は窓口になる。
 2003年、学館はリニューアル・オープンした。2009年、12月、大阪市にあった在大阪・神戸フランス総領事館は移転する形で、学館内に移設し開設された 
◆建築 ◈ 「旧学館」は、1927年に、蹴上・九条山に建設される。清水組が請け負った。
 1981年に取り壊されている。敷地には1992年に関西日仏交流会館の「ヴィラ九条山」が建てられている。
 ◈ 「旧関西日仏学館」は、1936年に建設された。フランス人建築家・レイモン.メストラレが基本設計にあたる。建築家・木子七郎が設計(実施)監督をした。当初の計画では、授業用の木造校舎を建設し、九条山の旧館の図書室、館長宿舎などは残すとしていた。その後、新館はコンクリート造に変更になる。1階・2階に教室、図書館、3階に館長の居住空間があった。
 レイモンの師・ペレは、「鉄筋コンクリートの伝道師」といわれた。新館には、そのペレ流の柱型、軒線による古典主義、曲面の意匠が見られる。白色の外壁に、曲面の柱型により垂直に分割されている。正面入口2階部分、四隅に曲面が付けられている。当時、隣地にはすでに「独逸文化研究所」の建物があった、学館の建物はそれを規模、美しさでも凌いだという。
 鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建(塔屋付)、建築面積549㎡、当時の総工費は4万円、建設は大林組による。1998年4月に、登録有形文化財(建造物)に指定されている。2003年に内部の改修が行われた。
 なお、木子の友人、画家・藤田嗣治(1886-1968)が、学館貴賓室の大壁面に「ノルマンデイーの四季」を描いて寄贈した。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「『アンスティチュの創設者、クローデルと稲畑 』、立木康介、2017年」、ウェブサイト「 動乱の時代の関西日仏学館(1940-1945)、ミシェル・ワッセルマン、2017年」、ウェブサイト「リニューアル・オープン記念冊子『関西日仏学館 75年の軌跡』 宮本 ヱイ子、2003年」、ウェブサイト「アンスティチュ・フランセ関西」、 『京都の映画80年の歩み』、『京都まちかど遺産めぐり』、『京都はじまり物語』、『意外と知らない京都』、『京都ふらんす事始め』、『京都の洋館』 ウェブサイト「文化庁 文化遺産オンライン」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 旧関西日仏学館(アンスティチュ・フランセ関西)  〒606-8301 京都市左京区吉田泉殿町8-8  075-761-2105
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