大仙院 〔大徳寺〕 (京都市北区)
Daisen-in Temple
大仙院 大仙院
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表門

























庫裏






方丈




玄関









庭園、案内板より

庭園、案内板より

庭園、案内板より

 
 大徳寺境内北にある塔頭の大仙院(だいせんいん)は、塔頭の中では最も古い歴史がある。また、塔頭の中でも特に地位の高い特例別格地とされている。 
 大徳寺四法脈のうち、臨済宗大徳寺北派本庵。
◆歴史年表 
室町時代、1509年、永正年間(1504-1520)とも、六角政頼が、子・大徳寺76世・古岳(嶽)宗亘(こがくそうこう、正法大聖国師)を開祖として建立した。(「大徳寺井塔頭明細帳」『龍宝山大徳寺志』)
 1513年、古岳宗亘は方丈を建立し、庭園を作庭する。以後、大仙院は北派の本拠になる。
 1523年、方丈が建立されたともいう。(棟札)
 1530年、公卿で歌人の鷲尾隆康が、今宮社参詣の帰りに大仙院を訪れている。庭について「近比見事也」と記した。(『二水記』)。この頃には庭が完成していたとみられている。
 1544年、古岳は28項目の「当院後代法度」を定める。
 1551年、古岳弟子の驢雪鷹灞が古岳の作庭について記している。(『古岳和尚道行記』) 
 1554年、今井宗久は、入牌料170貫文を寄進する。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、御朱印配当90石、所管末寺3があった。
 安土・桃山時代、1573年頃、織田信長の名石狩りに際し、室町将軍家家臣・三淵(渕)藤英邸の庭石が大仙院に移されたともいう。
 1575年、本堂が上葺される。(棟札)
 1598年頃、豊臣秀吉は醍醐三宝院の庭園に使うための庭石を大仙院より没収しようとした。3世・古渓宗陳はこれに抗し防いだという。
 江戸時代、1614年、沢庵により「か亭橋」が築造される。書院が建立される。
 近代、1868年以後、神仏分離令後の廃仏毀釈により、大仙院にも被害がある。
 1905年、か亭橋が取り除かれる。
 現代、1961年、か亭橋が文化庁により復元される。
 1974年、茶席「か亭」が建てられる。
◆古岳宗亘 室町時代-戦国時代の臨済宗僧・古岳(嶽)宗亘(こがく そうこう、1465‐1548)。近江に生まれた。近江国守六角高四頼の実弟。8歳で近江・岩間寺入寺、義済に師事、1475年-1487年、11歳で建仁寺に移り、喜足和尚に参じ、建仁寺279世・驢雪鷹灞(ろせつ ようは)を知る。瑞光庵、17歳で受戒した。大徳寺・春浦宗きに参じ、1505年、如意庵・実伝宗真の印可を得る。1509年、大徳寺第76世。1521年、1522年、1525年、1528年、1535年、再住。大徳寺を茶の湯の本山とした。堺・南宗庵(後の南宗寺)を創立している。第104代・後柏原天皇、第105代・後奈良天皇の帰依を受ける。詩文に優れ、墨蹟も広めた。北派を形成し、本院は大仙院とし、全盛期の大徳寺主流になる。1521年、仏心正統禅師、1536年、正法大聖国師と称された。 
◆六角政頼 室町時代後期の守護大名・六角政頼(ろっかく まさより、生没年不詳)。詳細不明。父は政頼(政勝)という。近江守護。
◆古溪宗陳 室町時代-安土・桃山時代の僧・古渓宗陳(こけい そうちん、1532-1597)。浦庵。越前に生まれた。驢雪鷹は(ろせつ ようは)を受業師として出家、下野足利学校に学び、江隠宗顕に参禅する。大徳寺・江隠宗顕、笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)に師事、大徳寺117世。1582年、織田信長の百ヶ日法要、豊臣秀吉による信長の葬儀で導師を務めた。秀吉により織田信長の菩提所の総見院の開山に招請される。1585年、秀吉の堺・海会寺の再興をする。1588年、信長の新たな菩提寺となる予定の天正寺建立を巡り、石田三成と対立、秀吉により一時、博多・大同院に蟄居になる。1589年、洛北市原・常楽庵に住した。千利休の禅の師匠で、1591年、三門の利休木像事件では、利休切腹を中止させようとした。秀吉の大徳寺破却に抗し、自らの命を賭して阻止したという。1592年、大和・大光院に移る。秀吉の計画した天正寺、方広寺の開山は実現しなかった。大仙院第3世。諡は1596年、大慈広照禅師。大仙院に塔された。
 利休と親交があり、茶の湯の弟子だった。一条戻橋に晒された利休の首を、夜陰に乗じて持ち帰ったとの伝承がある。
◆沢庵宗彭 安土・桃山時代-江戸時代の僧・沢庵宗彭(たくあん そうほう、1573-1645)。但馬国生まれ。1582年、10歳で浄土宗・唱念寺に入寺、堪蓮社衆誉につく。1586年、出石・宗鏡寺・勝福寺の希先秀先に師事し受戒、1592年、董甫紹仲に参じ、大徳寺・三玄院の春屋宗園を拝した。1594年、菫甫に伴い大徳寺、さらに近江・瑞岳寺に移る。1603年、堺・陽春庵の一凍紹滴に師事、1604年、印可を受け沢庵(澤庵)の号を得る。1607年、徳禅寺に移り、1609年、大徳寺153世住持を3日で辞した。大仙院、養徳院に居した。1614年、大仙院の書院建立、1616年、出石・宗鏡寺を再興、1617年、堺に南宗寺を移して再興、1618年、海会寺を再興、1629年、朝廷と幕府が対立した紫衣事件で玉室宗珀、江月宗玩らと幕府に抗議書を提出し出羽国配流となる。1632年、赦される。1634年、大徳寺に戻り、二条城の徳川家光に謁した。祥雲寺初祖。1635年、幕命により江戸に赴く。1636年、江戸城に招かれる。1637年、台命により江戸に赴く。1639年、家光の信篤く、江戸・萬松山東海寺に住持として招かれる。東海寺後山に葬られた。大仙院第7世。
 茶人・千宗旦と親交があり、墨蹟は茶掛けとし重用された。
◆相阿弥 室町時代後期の足利将軍家同朋・相阿弥(そうあみ、?-1525)。祖父・能阿弥、父・芸阿弥を継ぎ、国工相阿と呼ばれた。書画、書画鑑定、詩文、茶の湯、墨蹟、座敷飾、作庭などにも関わったとされている。
 大徳寺塔頭・大仙院の襖絵では室中を相阿弥が、他の部屋を狩野元信一門が描いた。元信は相阿弥に多大な影響を受けたという。大仙院庭園の作庭をしたともいわれている。
◆圜悟克勤・流れ圜悟 中国・北宋時代の禅僧・圜悟克勤(えんご こくごん、1063-1135)。四川省に生まれた。北宋の徽宗(きそう)皇帝から「仏果禅師」、南宋の高宗皇帝から「圜悟禅師」の号を贈られ、諡号は真覚禅師という。『碧巌録(へきがんろく)』を著す。
 1124年、圜悟克勤の墨蹟「流れ圜悟(ながれえんご)」(国宝)は、日本の茶家に珍重されてきた。現存する禅僧の墨蹟としては最古のものという。墨蹟は桐の筒に入って薩摩の坊ノ津海岸に漂着したとの伝承があり、「流れ圜悟」と呼ばれた。大仙院の古岳も傾倒し一時所有した。1588年、千利休の手元にも渡る。その後、堺の豪商茶人・谷宗卓に移り、伊達政宗により古田織部が分割したという。さらに祥雲寺に移り、松江藩主・松平不昧が金子千両、年々扶持米30俵で手に入れたという。
 現在、切断された前半部(国宝)は東京国立博物館所蔵になっている。後半部は行方不明という。
◆狩野元信 室町時代後期の画家・狩野元信(かのう もとのぶ、1476?-1559)。狩野派始祖・正信の子として山城国に生まれた。大炊助、越前守、法眼に叙せられる。「鞍馬寺縁起」(1513)、同年頃、大徳寺大仙院客殿障壁画を一門と相阿弥とともに制作 した。石山本願寺(大坂本願寺)障壁画(1539-1553)、妙心寺霊雲院旧方丈障壁画(1543)がある。分業による制作を確立し、中国絵画、室町水墨画、やまと絵の技法も取り入れ、狩野派の基礎を築いた。
 真、行、草の筆致の分類を行い、水墨画に色彩を取り入れ、狩野派の棟梁となる。
◆北派 大仙院は北派の本拠として大林宗套(だいりん そうとう、1480-1568)、笑嶺宗きん(1505-1583)、春屋宗園(1529-1611)、3世・古渓宗陳(1531-1597)、7世・沢庵宗彭宗などを輩出した。
 塔頭としては聚光院、三玄院、龍光院がある。
 住持は、孤篷庵など9か院の輪番制による。
◆木像 仏間(真前)に、「祖師木像」を安置する。本来は祖師の頂相を真前に安置した。
◆茶の湯 大仙院は茶の湯とのかかわりが深い。古岳は中国・北宋時代の禅僧・圜悟克勤の墨跡に傾倒し、最高の墨蹟とされた「流れ圜悟」を一時所持していた。京都、堺の茶人がたびたび院を訪れ所望したという。
 千利休(1522-1591)も大仙院をしばしば訪れ、大林宗套の下で得度したという。1588年に流れ圜悟を譲られたという。利休が初めて用いた茶庭の蹲踞も、大仙院の北庭の石組より着想したという。また、床の間、待合なども考案したという。
 豊臣秀吉は千利休とともに大仙院を訪れた。秀吉は何か花を生けるようにと命じた。利休は、唐銅の花入の水を庭の沈香石の上に流し、石上に花を生けたという。また、花の上から水をかけたともいう。秀吉は、床の間に花を生けるという常識を覆した利休の行為を称賛したという。(『茶和指月集』1701)
 利休の孫・宗旦と清巌宗渭(せいがんそうい、1588-1661)は親交があった。
◆建築 「本堂(方丈)」(国宝)は、室町時代、1513年の創建当時のもので、棟札を残す。大徳寺塔頭の龍源院とともに、日本最古の禅宗方丈建築のひとつとされている。1535年に増築されたとみられる。入母屋造、銅板葺、南面にのみ広縁・鏡天井を付ける。
 内部は、六間間取りになっている。南中央に室中、西に檀那の間、東に礼の間、奥(北)中央に仏間(真前、眠蔵<めんぞう>、祠堂)、西に衣鉢の間、東に書院の間がある。北の三室は、かつて1間であり、その後1間半に増築された。最古の床の間と建物南東に玄関を持つ。室中は鏡天井で、天井板は梁で引っ張る。梁上に束、束に横方向に貫が通る。軒は垂木が下から見える化粧屋根裏。床は板敷で畳を回し敷きにする。北東に書院があり、付書院を備える。襖絵は相阿弥、狩野元信、狩野之信などによる。眠蔵は寝室であり、書院の間から出入りした。軒の桔木(はねぎ)が広縁、仏間、眠蔵の上に見えている。
 「書院」(重文)は江戸時代、1614年に建立された。
 北書院「拾雲軒」は、沢庵宗彭の創建で、宮本武蔵(1584-1645)に剣道の極意を授けたという。
 東庭の渡廊下「か亭殿」は、作庭当初からあったかについては諸説ある。かつては、庫裏と書院の間を結ぶ裏廊下として使われていたという。江戸時代、1614年、沢庵により築造される。近代、1905年に取り除かれた。庭の南端に移され、北庭と東庭は一つにつながる。1961年、文化庁により江戸時代の再現として、京都府文化財保護課技師・中根金作(1917-1995)の手により復興された。この時、元の位置(現在地)に戻された。これには、江戸時代、文政年間(1818-1830)の「大仙院石庭起し絵図」(三井家蔵、東京国立博物館蔵)が参照された。
◆庭園 枯山水式座観式の庭園(100㎡)は、史跡・特別名勝に指定されている。大徳寺山内の庭園としては最も古い。蓬莱思想、水墨山水画を組み合わせている。室町時代、1509年(1513年とも)に、開祖・古岳宗亘、また、将軍足利義稙の命を受けた相阿弥、山水河原者の作庭によるともいう。室町幕府奉公衆・三渕(淵)氏の庭から石が移されたともいう。石は足利義政寄進ともいう。
 方丈北庭、東庭、中庭、南庭になる。方丈の北東を基点に、西と南の二方向に続いている。庭は、狭い庭面に矩の手(直角)に造られている。東庭は北庭より低く造られ、分けられた渡廊下の下には、庭が仕切られたかのように、2枚の青石が据えられている。
 庭は本来、書院南の礼(らい)の間(12帖)、書院(6帖)内からすべての障子を取り払い観賞する。額縁庭園になっており、このうち書院の間の茶室の床の部分は、上の戸袋のため一段低くなる。広縁と庭の落差(35㎝)が低く抑えられているのは、庭地盤があえて底上げされたためという。
 狭い地に多くの石、植栽が立て込んでいる。石は青石であり、貴重な紀州・阿波産の結晶片岩と、白砂、植栽による。石は霊山、船、橋、白砂は水を意味する。
 北東隅に蓬莱山という樹齢500年の千葉椿の刈込がある。その下に筋目の石が立てられている。枯滝の石組であり、ここより流れ出した水は、三段の滝組である龍門瀑を左に流れ下る。滝の手前に「水分石(石英)」が置かれる。白砂に青石の石橋が架けられている。石橋は内にわずかな反りを見せる。滝口の左に巨石の「不動石(左、右ともいう。2.3m)」と「観音石(右、左ともいう。1.7m)」の2石が立てられる。その前に滝を昇る「鯉魚石」が白砂に置かれている。
 これらの龍門瀑、鯉魚石は、中国黄河中流域にある龍門瀑の故事に由来する。龍門瀑は流れが激しく、滝を昇りきった鯉は天に昇り龍になるといわれた。禅ではそれにたとえ、厳しい修行の後に悟りを開き仏になることを意味した。南宋からの渡来僧・鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213-1278)が日本に伝えたといわれている。
 滝の右手に「鶴島(手前に尾、左右に羽、奥に首)」があり、マツが植えられている。左手に「亀島(右に首、手前に甲羅、足)」がありクロマツがある。これらは蓬莱世界を描く。
 渓流の一つは西行し、亀島の脇を抜けやがて大河になる。渡廊下の下をくぐり方丈北の中庭(中海)に注ぐ。中庭にはわずかな石、植栽のみで構成されており、井筒がある。
 他方、南行の流れは、渡廊下(か亭橋、亭橋、透渡殿)の下を潜る。この亭橋には屋根が付けら、白壁に花頭窓が開けられている。流れは直下で堰石で止められ落とされる。なお、南の渡廊下から北を見ると、火頭窓内に不動岩と観音石の二石が見える趣向になる。
 礼の間前で大海に「宝船(石舟、舟石)」を浮かべる。奥の「叡山石」、手前に「臥牛石(亀)」が泳ぐ。流れは渡廊下の下をくぐり、方丈南庭の大海に注いでいる。これらは北宋画の山水を表すという。
 主な石には名が付けられている。滝組の南手前に、千利休が石上に花を生けたという「沈香石」、鶴島周辺に「法螺貝石」、「達磨石」、滝の西の亀島周辺に「座禅石」、「独醒石」、窪みのある「仏盤石」などがある。
 大海の南庭は、白砂の砂紋と一対の清めの盛砂だけで構成される。西南隅に沙羅双樹があり、小躑躅、二段刈込の生垣、樫などが植えられている。
 庭は幾度か手が加えられている。渡廊下「亭殿」が、作庭当初から存在したかについては諸説ある。1905年、庭の南端に移され、北庭と東庭は一つにつながった。1961年、江戸時代の再現として、京都府文化財保護課技師・中根金作により復興され、この際に元の位置(現在地)に戻された。これは、江戸時代、文政年間(1818-1830)の「大仙院石庭起し絵図」(三井家蔵、東京国立博物館蔵)が参照されたことによる。
 南庭(前庭)は、近代以降に改修された。平庭には白砂が敷かれ、砂紋が引かれ、盛り砂が2つだけある。
 *か亭橋の「か」は「口」中に「力」。
◆茶室 茶室「すいしょう室」「か亭」がある
 
*「すい」は(ケ+土)、「しょう」は(草かんむり+召)
◆文化財 鎌倉時代、1330年、紙本墨蹟「大燈国師墨蹟 与宗悟大姉法語(しゅうごだいし に あたうる ほうご)」(国宝)。33.2×137cm。京都国立博物館蔵。
 元の張成作「牡丹孔雀模様堆朱盆」(重文)は、古岳没後、第105代・後奈良天皇が金剛経とともに贈った。
 「義政の鼻眼鏡」と伝えられる西洋眼鏡がある。象牙の瓢箪型の容器に入れられている鼻眼鏡(鞍眼鏡)であり、柄の部分はない。当初はポルトガル船で日本に伝えられ、8代将軍・義政(1436-1490)に贈られた。後に12代将軍義晴(1511-1550)に贈られたという。15世紀の作という。
◆障壁画  複合四方四季障壁画群現存最古の方丈襖絵とされている。礼の間、室中、檀那の間の絵は掛軸に改装されている。書院、衣鉢の間の中国故事人物図、禅宗祖師図は現在、東京国立博物館所蔵になる。
 室中の室町時代、1513年作、相阿弥(?-1525)筆といわれる「四季山水図(瀟湘八景図)」20面(重文)。
 檀那の間の1513年の狩野元信(1476-1559)筆「四季花鳥図」8面(重文)(各178×99/142㎝)には、水墨画の一部の孔雀、牡丹(白、赤)などに色彩を取り入れる試みをして効果を上げる。元信は「漢にして倭を兼ねる」と評された。京都国立博物館寄託。
 衣鉢間の元信筆「禅会図」、礼の間の狩野之信(1513-1573)筆「四季耕作図」8面(重文)など5室からなっていた。これら重要文化財は現在、京都国立博物館寄託されている。
◆寮舎 旧大仙院のものとして清源庵、祥林軒、耕雲軒、東林庵、大仙院寮舎として拾雲軒がある。拾雲軒は、江戸時代、1614年、古岳宗亘の坐禅所になり、書院の地にあったとみられている。沢庵が建立したともいう。
 意北軒も寮舎とみられ、文献初見は、室町時代、1535年になる。
◆花暦 創建時のものという凌霄花、生垣の椿、薮椿、日光椿、月光椿、椿の岩根絞り、また沙羅双樹、山梔子、石榴、睡蓮などが咲く。
◆修行体験 開山の月命日に因み定例坐禅会「報恩坐禅」(毎月24日17:00-18:00、12-2月16:30-17:30)。
 土曜禅の会(毎月第4土曜日、3月-11月5:00-6:00、12月-2月4:30-5:30)。
 週末坐禅会(毎週土・日曜日17:00-18:00、12-2月16:30-17:30)。
 春休み禅体験教室(3月第4日曜日10:00-12:30、座禅・経文唱和・写経・作務・法話)。
 夏休み禅体験教室(8月第1日曜日10:00-12:30、座禅・経文唱和・写経・作務・法話)。
◆年間行事 「古渓忌」(3月17日)では茶室での薄茶の奉仕、墓参ができる。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*建物の大部分、室内、庭園は撮影禁止、普段は非公開。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古都から 28 大仙院』『拝観の手引』『古寺巡礼 京都 17 大徳寺』『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『日本の庭園美 大仙院』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都・美のこころ』『事典 日本の名僧』『日本の名僧』『京都で建築に出会う』『京都 四季の庭園』『京都で日本美術をみる』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『週刊 日本の美をめぐる 34 竜安寺石庭と禅の文化』『京都 古都の庭をめぐる』 『週刊 日本庭園をゆく 13 京都洛北の名庭 2 大徳寺』『週刊 仏教新発見 28 大徳寺 妙心寺』『週刊 日本の美をめぐる 室町5 38 狩野派の流れ 元信 永徳 探幽』 


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 大仙院 〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町54-1  075-491-8346  9:00-17:00(12月-2月9:00-16:30)
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