|
|
大光院 〔大徳寺〕 (京都市北区) Taiko-in Temple |
|
大光院 | 大光院 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 鳥塚 ![]() ![]() |
大徳寺境内の南西に塔頭・大光院(たいこう-いん)がある。豊臣秀吉の弟・秀長の菩提所になる。 臨済宗妙心寺派。 ◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年/1596年、豊臣秀吉の弟・秀長の菩提を弔うために、大光院は大和郡山に創建された。開祖は古溪宗陳(こけい-そうちん)による。 1599年/慶長年間(1596-1615)、秀長に仕えた武将・藤堂高虎(1556-1630)により、大徳寺山内(金龍院南、高桐院西)に移された。以後、北派輪住により護持される。1599年、現在の表門が建立された。 江戸時代、1816年/1824年、焼失する。 文政年間(1818-1830)、藤堂氏により再建される。現在の客殿・書院が建てられる。 現代、1955年/1954年、小堀大嶺により現在地(龍光院南)に移された。 ◆古溪 宗陳 室町時代後期-安土・桃山時代の臨済宗の僧・古溪 宗陳(こけい-そうちん、1532-1597)。男性。俗姓は朝倉、諡号は大慈広照禅師、別号に蒲庵(ほあん)。 越前(福井県)の生まれ。驢雪鷹灞(ろせつ-ようは)を受業師として出家し、下野足利学校に学び、大徳寺・江隠宗顕(こういん-そうけん)、笑嶺宗訢(しょうれい-そうきん)に師事し、大徳寺117世になる。1582年、織田信長の百ヶ日法要、秀吉による信長の葬儀で導師を務めた。豊臣秀吉により信長の菩提所の総見院開山に招請される。1585年、秀吉の堺・海会寺の再興をした。1588年、信長の新たな菩提寺になる予定の天正寺建立を巡り、石田三成と対立し、秀吉により一時、 博多・大同院に蟄居させられる。1589年、洛北市原・常楽庵、千利休の禅の師匠であり、1591年、三門の利休木像事件では利休切腹を中止させようとした。秀吉の大徳寺破却に抗し、自らの命を賭して阻止したという。1592年、豊臣秀長の葬儀導師を務めた。大和・大光院に移る。 秀吉の計画した天正寺、方広寺の開山は実現しなかった。大仙院第3世。諡号は1596年、大慈広照禅師。66歳。 墓は大徳寺・大仙院(北区)にある。 弟子に玉甫紹琮(ぎょくほ-じょうそう)、月岑宗印(げっしん-そういん)がいる。 ◆蘭叔 宗秀 安土・桃山時代の臨済宗の僧・蘭叔 宗秀(らんしゅく-そうしゅう?-1599)。詳細不明。男性。父・島津義弘。庶子のため家督は弟・家久が継ぎ、京都に出て僧侶になる。古渓宗陳の弟子になった。大徳寺140世、大光院2世。 ◆羽柴 秀長 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・羽柴 秀長(はしば-ひでなが、1541-1591)。豊臣秀長、幼名は小竹、通称は小一郎、名は長秀、大和大納言。尾張(愛知県)の生まれ。父・百姓・弥右衛門/竹阿弥?、母・なか(大政所)。秀吉の弟/異父弟。1564年以降、秀吉に仕える。1573年、長浜城城代になる。藤堂高虎が仕官した。1574年、伊勢長島一向一揆攻めで、丹羽長秀・前田利家らと先陣を務めた。1575年、羽柴の名字を与えられる。秀吉の中国攻めで、1577年、第1次但馬攻め、1578年、但馬攻め、黒井城の戦いに加わる。1579年、丹生山を襲撃し、淡河城を攻め撤退した。(三木合戦)。1580年、第2次但馬攻めで総大将を務め、但馬の竹田・出石城の城代になる。1581年、鳥取城の戦い、1582年、備中高松城の戦い、本能寺の変後、山崎の戦い、1583年、賤ヶ岳の戦いに参戦した。美濃守に任官し、姫路城を居城にした。1584年より、秀長と名乗る。小牧・長久手の戦いに参戦し、講和交渉で秀吉の名代として赴く。1585年、紀州征伐で秀吉の副将に任命される。功として紀伊・和泉に所領を得る。四国攻めで、病の秀吉に代わり総大将になった。その後、紀伊・和泉に大和一国が加増される。居城を紀伊若山から大和郡山に移した。豊臣の本姓を与えられる。1586年、北山一揆出陣、従三位、参議になる。1587年、九州攻めで日向方面の総大将になる。島津攻めの先鋒になった。戦後、従二位・権大納言に叙任され、大和大納言と呼ばれる。大和郡山城で病没した。52/51歳。 常に秀吉の補佐役として奮闘した。 戒名は古溪宗陳が「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」と付した。墓は大徳寺・大光院(北区)、1777年に大和郡山に町衆により供養塔(大納言塚)が立てられた。 ◆藤堂 高虎 室町時代後期-江戸時代前期の武将・大名・藤堂 高虎(とうどう-たかとら、1556-1630)。男性。近江国(滋賀県)の生まれ。父・土豪・藤堂虎高の次男。浅井長政の足軽、1570年、姉川の戦い、1573年、小谷城の戦いに参戦、浅井氏の旧臣・阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕える。1576年、羽柴秀吉の弟・秀長に仕える。1581年、但馬国の土豪を討ち、所領を加増、鉄砲大将になる。秀長の中国攻め、賤ヶ岳の戦い、1585年、四国攻め、紀州征伐にも功あり加増、大名になった。1585年、紀州征伐に加わる。猿岡山城、和歌山城の普請奉行に任命される。1587年、九州征伐で救援。この頃正五位下・佐渡守に叙任する。1589年、北山一揆鎮圧のため赤木城を築城した。1591年、秀長死後、豊臣秀保に仕え、1592年-1593年、文禄の役に参戦、1595年、秀保没後、出家し高野山に上る。秀吉召還により還俗、伊予国板島の大名になる。1597年-1598年、慶長の役に参戦、大洲城を加増。板島丸串城の改修を行う。1600年、徳川家康の会津征伐に従い、岐阜城攻め、関ヶ原本戦に加わる。功により家康より今治に加増。江戸城改築、1608年、津藩主。1614年-1615年、大坂の陣で徳川方として参戦、従四位下に昇任した。戦没者供養のため南禅寺三門を造営した。家康没後、2代将軍・秀忠に仕え、藩政も確立、幕命により他藩の後見も務めた。75歳。 ◆木像 客殿(本堂)に、開祖・古溪宗陳、2世・蘭叔宗秀、羽柴秀長の木像が祀られている。 ◆建築 ◈現在の「表門」が安土・桃山時代、1599年に建立された。 ◈現在の「客殿」、「書院」は、江戸時代後期、文政年間(1818-1830)に藤堂氏により再建される。 ◆茶室 ◈ 茶室「蒲庵(ほあん)」は、江戸時代前期に建立された。近代、1868年に他寺で解体・保存していたものを譲り受け、現代、1955年の移転期に移築された。 蒲庵とは、古溪宗陳の庵号に因む。黒田如水(官兵衛、1546-1604)好みとされる。古図面をもとに当時の古材で再建された。「三石の席」とも称された。かつての露地庭にあった石は、如水の子・長政(1568-1623)、加藤清正(1562-1611)、福島正則(1561-1624)の三武将の寄進であり、「三石」と称したことに由来する。 点前座は蒲の落ち天井であり、柱間に連子窓が開けられ室内は明るい。二畳台目。 ◆文化財 安土・桃山時代、1593年、豊臣秀長3回忌法要の際の「秀長画像」、「秀長木像」がある。 ◆障壁画 本堂に伝・狩野探幽筆「水墨黒雲龍図」がある。奥州・伊達家伝来とされ、客殿再建時に寄進された。かつて、仙台城の屏風5双だったという。このため、襖絵に剥落した縦筋が残っている。村雲に姿を見せた龍が、穏やかに泳ぐ様が描かれている。 ◆庭園 ◈ 客殿前に枯山水式庭園がある。白川砂に、苔地、後方の植栽で構成される。 ◈ 茶室「蒲庵」の露地庭は、苔、飛石、植栽などで構成されている。 ◆大光院・秀長墓所 安土・桃山時代、1591年旧1月22日に、羽柴秀長(1540-1591)が大和郡山城で亡くなる。旧1月29日の葬儀は豊臣秀吉(1536-1598)が段取りした。大徳寺・総見院の住持・古溪宗陳( 秀長に男児の跡継ぎなく、養子・秀保 江戸時代前期、1615年の豊臣家の滅亡後、かつて、秀長に仕えた藤堂高虎(1556-1630)が宗陳に相談し、慶長年間(1596-1615)に、秀長の墓所と大光院も京都・大徳寺山内に移した。 現在、大徳寺・大光院内墓所に秀長と高虎の墓2基は寄り添うように立てられている。 ◆墓 ◈豊臣秀長の五輪石塔が立つ。 ◈藤堂高虎の五輪石塔があり、秀長の墓に隣接して立つ。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』、『紫野大徳寺の歴史と文化』、『京都・紫野大徳寺僧の略歴』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都大事典』 、『京都戦国武将の寺をゆく』、『京の冬の旅 2022 -別冊旅の手帖』、ウェブサイト「神殿大観」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|