去来墓・西行井戸 (小倉山墓地) (京都市右京区)
grave of MUKAI Kyorai
去来墓・西行井戸 去来墓・西行井戸 
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小倉山墓地


「去来先生墳」の碑


涌蓮上人墓、去来翁墓の石標


去来墓



去来墓



弘源寺開山、室町時代の玉岫禅師の塔



誓興上人墓



涌蓮上人墓


宝厳歴代の墓


募られた句歌の碑



四世庵主・吾同「を鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな」



西行井戸、小倉山麓に住まいを持っていた西行が使ったという井戸、いまも湧水している。
 落柿舎の北西にある天龍寺塔頭・弘源寺の境外・小倉山墓地には、江戸時代の俳人、向井去来の墓がある。この地に去来の遺髪を埋めたという。 
◆歴史年表 江戸時代、1770年、俳人・井上重厚により落柿舎が弘源寺跡に再興され、その際に去来墓も立てられた。
◆向井去来 江戸時代前期-中期の俳人・向井去来(むかい-きょらい、1651-1704)。幼名は慶千代、通称は嘉平次、平次郎、諱は兼時、字は元淵、別号は義焉子、落柿舎。肥前国(佐賀県)の生まれ。父は儒医・向井玄升、その次男。1658年、父・玄升が宮中儒医として仕え、京都の聖護院に住む。一時、福岡の母方叔父・久米家の養子に入り、武道修行に励む。福岡藩に招請され、固辞し、1675年頃、武士を捨て再び京都に戻る。1677年、父が没し、兄・元端は典薬を継ぐ。兄を助け堂上家に仕えた。公家に出入りし、神道家・陰陽家として天文・暦に携わったという。1678年、隠士(隠者)になる。1684年以降、文通により松尾芭蕉の教えを受ける。貞享年間 (1684-1688) 、其角を介し芭蕉に入門し、俳諧に専念したという。1686年/1685年、嵯峨野に別邸(後の落柿舎)を構える。江戸に下り初めて芭蕉と会う。1689年、冬、近畿滞在中の芭蕉を別荘「落柿舎」に招く。1691年、夏、芭蕉は「落柿舎」に滞在し『嵯峨日記』を書いた。芭蕉の指導のもと、野沢凡兆と撰集『猿蓑』を共編した。54歳。
 蕉門十哲の一人。芭蕉は去来を「鎮西の俳諧奉行」と評した。芭蕉研究の最高の俳論書とされる『去来抄』(1775)を記した。『旅寝論』 、句集『去来発句集』 がある。
 弘源寺(右京区)の墓苑内に遺髪を埋めたという「去来墓」がある。かつて真如堂(左京区)にも、墓が一門とともにあった。
◆西行 平安時代後期-鎌倉時代前期の真言宗の僧・西行(さいぎょう、1118-1190)。佐藤義清(のりきよ、憲清、則清、範清)、別号は大宝房、大本房、大法房、法名は円位。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使・左衛門尉佐藤康清。母は監物(けんもつ)源清経の娘。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられる。1137年、鳥羽院(第74代)の下北面(げほくめん)の武士になる。1140年、妻子を捨てて出家し、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1141年、東山の双林寺、長楽寺などに草庵を結んだ。1144年頃/1147年、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1156年、鳥羽法皇の葬送に参り、保元の乱に敗れ仁和寺に籠った崇徳上皇に参じた。1168年/1167年/仁安年間(1166-1169)、讃岐の崇徳院の墓陵参拝、弘法大師の遺跡巡礼を目的とし、中四国を巡る。1172年、平清盛主催の千僧供養に参加した。その後、高野山で聖生活に入り上人になる。1177年、高野山の蓮華乗院の移築に関わる。治承年間(1177-1181)、伊勢国二見浦に移る。神祇信仰を深め、内宮祠官荒木田氏と交わった。1186年、俊乗房重源に委嘱され、東大寺再建のため平泉での砂金勧進を奥州藤原氏に行う。この2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国・弘川寺(大阪府河南町)に庵を結ぶ。弘川寺で亡くなる。73歳。墓は弘川寺(右京区)にある。
 和歌に秀でた。平清盛、平忠盛、平時忠、待賢門院、崇徳院、徳大寺実能らと交わる。大原三寂(寂念、寂然[藤原為業])、寂超)、藤原俊成、待賢門院堀河、上西門院兵衛と親しくした。家集に『山家集』、勅撰集の『千載集』、『新古今和歌集』には94首が入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残した。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
涌蓮 江戸時代中期の歌僧・涌蓮(ようれん、1719-1774)。諱は慧亮(えりょう) 、字は達空、号は嵯峨居士。伊勢(三重県)生まれ。江戸・真宗高田派の澄泉寺の住職になる。嵯峨の獅子巌(ししがん)の下に住んだ。和歌を冷泉為村、小沢蘆庵に学ぶ。遺稿に『獅子巌和歌集類題』がある。『近世畸人伝』に載る。55歳。
 天龍寺で奉仕し、お供えされた餅であられを作り、山籠り修行に持って行った。里人に分け与えたという。あられ、かきもちの原形を作ったとされている。
 墓は去来墓(小倉山墓地)(右京区)にある。
工藤芝蘭子 近現代の実業家・工藤芝蘭子(くどう-しらんし、1890-1971)。相場師。1937年、芝蘭子ら8人は資金を出し合い、荒廃していた落柿舎を買い取り保存会を設立した。1945年、11世庵主を継ぐ。81歳。
 墓は去来墓(小倉山墓地)(右京区)にある。
◆去来の墓 墓地の外、東に平安時代の西行法師ゆかりという井戸がある。
 句碑は去来の「柿主や 梢は近き あらし山」「応々と 言へど叩くや 雪の門」。芭蕉の「野宮の 鳥居にも なかりけり」「ほととぎす 大竹藪をもる 月夜」。虚子の「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」がある。
 西行歌碑は「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」「仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば」。与謝野晶子の「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終りも なき世の如く」も立つ。
 1962年、弘源寺により全国から募集された歌・句碑が数多く立てられている。
◆井戸 墓地の南側に「西行井戸」が残されている。小倉山麓に住まいを持っていた西行が使ったという。いまも湧水している。
◆碑 「去来先生墳」の碑が立つ。10世庵主・永井瓢齋「秋風に ふきのこされて 墓一つ」と刻まれている。
 近代の俳人・永井瓢齋(1881-1945)は、島根県に生まれた。大阪朝日新聞社社会部長、「天声人語」を執筆。俳誌「趣味」を刊行した。
◆墓 去来、弘源寺開山で室町時代の玉岫禅師の塔、誓興上人、涌蓮上人、落柿舎4世庵主・吾同、俳人で落柿舎8世・山鹿栢年(はくねん)、落柿舎11世・工藤芝蘭子などの墓などがある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『日本の名僧』、『洛西探訪』、『昭和京都名所図会 4 洛西』 、ウェブサイト「コトバンク」


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去来墓(小倉山墓地) 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町 
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