二条城撮影所跡 (京都市中京区)  
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二条城撮影所跡 二条城撮影所跡
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「二条城撮影所跡」の碑

 二条城の西南に「二条城撮影所跡(にじょうじょう-さつえいしょ-あと)」の碑が立てられている。
 この地には、近代に映画興行会社・横田商会(日活の前身の一つ)の撮影所があった。京都初の撮影所だった。
◆歴史年表 近代、1910年、二条城西南櫓の下300坪(990㎡)の土地に、映画興行会社・横田商会(社主・横田永之助)により、京都初の撮影所が開設された。牧野省三は、尾上松之助を主演に「忠臣蔵」を監督する。10月、撮影所開きに、初の全通し版「忠臣蔵」を公開する。
 1912年、1月、撮影所は法華堂撮影所(上京区御前通一条下ル)に移る。
 現代、1997年、11月、京都映画100年を記念し、京都市・京都市教育委員会により、現在地に二条城撮影所跡の碑が立てられた。
◆横田永之助 近代の映画興行師・横田永之助(よこた-えいのすけ、1872-1943)。京都市の生まれ。父・華頂宮の旧臣である横田摂津守豊成の3男。兄に実業家の横田万寿之助。1886年、上京し杉浦重剛の称好塾に学ぶ。その後、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学し、卒業後渡米した。アメリカ合衆国サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジで商業を学ぶ。1893年、開催されたシカゴ・コロンブス万国博覧会に京都府の出品委員として再渡米した。リュミエールのシネマトグラフ・X光線持ち帰り、京阪地方で見世物として興行する。その後、神戸の内外物産貿易に入社する。1897年、兄・万寿之助の紹介で稲畑勝太郎と知り合い、輸入したシネマトグラフの興行を引き受ける。1900年、パリ万国博覧会で京都府の出品委員として派遣され、パテー社との間にフィルム購入の契約を結ぶ。ゴーモン映写機・フィルムを携え帰国する。自ら映写技師・説明者になる。1903年、兄とともに京都に映画興行会社・横田兄弟商会(のち横田商会)を設立した。1904年、日露戦争勃発により戦争映画が関心を集め成長する。1907年、常設館として大阪に千日前電気館を開館した。1908年、同社初の劇映画「いもりの黒焼」(監督・福井繁一)、日本初の時代劇映画「本能寺合戦」(監督・牧野省三)を製作する。1909年、尾上松之助を起用し「碁盤忠信 源氏礎」(監督・牧野省三)を製作した。1910年、京都初の撮影所・二条城撮影所(二条城西南櫓の西側)を設立する。1912年、横田商会法華堂撮影所(御前通一条下ル)を開く。横田商会、福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会とのトラスト合併により、日本活動写真株式会社(日活)になり取締役に就任する。1914年、経営難により常務に就任した。後、副社長等を歴任し、1927年、社長になる。1928年、即位大礼叙勲の際、賞勲局疑獄に連座し、1934年、有罪になり社長を辞任し、相談役になった。70歳。
 京都での映画産業発展の基礎を作る。牧野省三、尾上松之助を見出した。京都の岐阜戸池興業各社長、京都商工会議所会頭なども務めた。
 墓は知恩院(東山区)にある。
◆牧野省三 近代の映画監督・映画製作者・脚本家・実業家・牧野省三(まきの-しょうぞう、1878-1929)。京都府北桑田郡山国村の生まれ。父・漢方医・山国隊の藤野齋、母・娘義太夫師・竹本弥奈吉(牧野彌奈)。1901年、劇場「千本座」を母とともに買収し開場した。後に千本座の経営を任された。1908年、横田商会の依頼により、真如堂の境内で「本能寺合戦」を初めて撮影する。省三は芝居に精通し、千本座の役者を出演させた。原作設定・演出・監督までこなした。1912年、合併した日活で関西撮影所の所長に就任する。1919年、日活在籍のままミカド商会を設立し、1920年、ミカド商会は横田商会により日活に吸収され、省三は日活に戻る。1921年、等持院境内に牧野教育映画製作所、等持院撮影所を開設した。1922年、「実録忠臣蔵」を撮り大ヒットする。1923年、マキノ映画製作所に改組する。1924年、東亜キネマに吸収合併され、東亜キネマ甲陽撮影所・等持院撮影所の所長に就任した。1925年、主演・澤田正二郎の「国定忠治」が大ヒットする。独立しマキノ・プロダクションを設立した。1929年、国産ディスク式トーキー「戻橋」を完成した。52歳。
 300本以上の時代劇映画を製作した。尾上松之助ら多くの映画人を育て「日本映画の父」と呼ばれた。
 墓は等持院(北区)にある。
尾上松之助 近代の役者・映画俳優・尾上松之助(おのえ-まつのすけ、1875-1926)。本名は中村鶴三。岡山県の生まれ。6歳で初舞台を踏む。岡山環翠高等科卒後、呉服屋に奉公し、15歳で兵庫弁天座の浅尾與作一座に加わる。1899年、神戸朝日座の主任になった。1904年、2代目・尾上松之助を襲名した。この頃、牧野省三の千本座に出演する。大阪八千代座の実川延童一座に加わり、1906年、天満座、1909年、千本座の座付俳優、座頭になった。横田商会製作、牧野監督の「碁盤忠信 源氏礎」に初出演した。1910年、第3作「石山軍記」で睨みをきかせ人気を呼ぶ。1912年、横田商会が合併して日活になり、牧野と共に日活関西撮影所へ移る。牧野と対立した。1921年、日活大将軍撮影所所長に就任する。「豪傑児雷也(じらいや)」、1925年、「落花の舞」に出演した。「荒木又右衛門」が大ヒットする。晩年、慈善活動に貢献した。著『尾上松之助自叙伝』。52歳。
 日本初の映画スターといわれ、生涯1000本以上の映画に出演し、「目玉の松ちゃん」と親しまれた。大将軍撮影所への葬列沿道では20万人の市民が見送った。1966年、鴨川公園内に胸像が建立されている。
 墓所は等持院(北区)にある。
◆二条城撮影所 近代、1910年に映画興行会社・横田商会社主・横田永之助は、撮影所(中京区智恵光院通押小路、現在の中京区西ノ京北聖町)を建てた。当初は呼称がなく、後に「二条城撮影所」と呼ばれる。日本で4番目、京都初の撮影所だった。二条城の西南隅櫓の道を隔てた地だった。
 敷地300坪(990㎡)あり、もとは侠客・千本組の笹井三左衛門の所有地だったという。牧野省三(1878-1929)の義父・三左衛門の兄弟分の縁で貸し出されたという。建物は簡素で、板敷の舞台(2間・4間、16畳)があった。開閉自由な天幕で覆われ、背景は書割(かきわり、張物に描かれた舞台背景)だった。照明はなく野外撮影が多く、カメラは据え置きだった。役者は近くの民家で着替え、化粧をしていたという。牧野は尾上松之助(1876-1926)と組み、初の作品「忠臣蔵」を撮影した。
 その後、二条城撮影所は手狭になり、1912年1月に、法華堂(ほっけんどう)撮影所(北野天満宮の南方、十如寺北側)に移る。1918年には日活大将軍撮影所(北区大将軍一条町)に移った。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 碑文、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト- 立命館大学アートリサーチセンター」、『京都大事典』、「京都市産業観光局観光MICE推進室 メディア支援センター」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 二条城撮影所跡 〒604-8382 京都市中京区西ノ京北聖町  
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