祇園祭
Gionmatsuri Festival
祇園祭 祇園祭 
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6月15日、久世駒形稚児の奉告の神事、綾戸国中神社、久世駒形稚児は、氏子の中から選ばれ、当日発表される。神幸祭、還幸祭で神輿を先導する。


7月1日、長刀鉾町御千度祭八坂神社。稚児、禿(かむろ)、長刀鉾町役員により、八坂神社に参拝する。稚児として選ばれた事が奉告され、祭礼の無事進行も祈念する。稚児らは前髪をそろえ、襟足を三角にそり上げる「うろこ」の髪形。一行は本殿を右回りに3周し、本殿の表と裏で参拝することを繰り返す。お供の禿、役員も含めて千度の参拝になるという。


7月1日、鬮取り式(京都市議会議場)、近代以降は歴代の京都市長が立会い、山鉾巡行の順番をくじで決める。ただ、長刀鉾など8基の山鉾は順番が決まっている「籤取らず」(ほかに函谷鉾、放下鉾、岩戸山、船鉾、北観音山、橋弁慶山、南観音山)となっている。かつては、順番を巡る先陣争いが絶えず、室町時代後、始められたという。江戸時代には、京都所司代列席により、六角堂で行われていた。


7月1日、鬮取り式の後、各鉾町代表者、八坂神社参詣


7月3日、船鉾保存会の「神面改め」、吉符入りに合わせ、室町中期に作られた本面とそれを模したという江戸期の写し面を木箱から取り出す。17日の巡行では、神体の神功皇后に写し面をつけ、本面は役員が携えて鉾に乗る。


7月5日、 長刀鉾稚児舞披露長刀鉾町。長刀鉾の吉符入り(目出度い書付)では、正式に長刀鉾町に仲間入りした稚児と2人の禿(かむろ)による「太平の舞」が会所(四条烏丸東)で披露される。稚児は、孔雀の羽でできた「蝶とんぼの冠」を被り、撥を両手にし、空で交差させ開く所作で三度舞う。


7月7日 綾傘鉾稚児八坂神社社参 、稚児に選ばれた5~8歳の男児6人は、烏帽子に狩衣姿で八坂神社を社参し、山鉾巡行の無事を祈願する。本殿では、「神の役」を務めることを認める「宣状」を受け取り、本殿を3周、本殿の正面と背面で手を合わせる。


7月7日 船鉾二階囃子、祇園囃子の練習が各町内で始まる。


7月初旬、みやび会お千度、八坂神社。京舞井上流師匠・井上八千代と門下の祇園甲部の白地に流水模様の浴衣姿の芸舞妓ら100人が、芸の上達と無病息災を祈願する。


7月10日、仲源寺での神事


7月10日、神輿洗、四条大橋、宮川(鴨川)から御神用水のための水が汲み上げられる



7月10日、神輿洗の神事、四条大橋下流西岸


御神用水、7月10日、四条大橋東詰


7月10日、神輿洗、四条大橋、大松明を担ぎ四条大橋まで走る「道しらべ」


7月10日、鴨川にかかる四条大橋の上での神輿洗中御座


7月10日、神輿洗、中御座、四条大橋、「御神用水」に榊が浸され、神輿に降り注がれ、清められる。


7月10日以降、八坂神社舞殿に三基の神輿が鎮座する。


7月10日 お迎え提灯、神輿洗を前に、八坂神社氏子組織「祇園万灯会」より行われる。
八坂神社から、京都市役所までを往復し、祇園囃子、提灯などの行列が続く。途中で、鷺踊などが披露される。



7月12日 鉾建、鶏鉾。鉾建てには3日架かる.鉾本体(やぐら組み)は、大工方と組み立て方という職人による。くぎを使わず縄を巻いて木材を組む。縄で結わえる縄搦み(縄組み)には、雄蝶結び、雌蝶結び、海老結びなどが使い分けられる。各鉾で結び方に違いがある。これらの縄搦みにより鉾本体は柔構造となっている.。 


7月12日、松取式、北観音山、巡行の順番を縄のくじで決める。


7月12日 長刀鉾車輪入れ


7月12日 長刀鉾曳き初め(ひきぞめ)、山鉾町の人だけではなく、市民も参加できる。
 祇園祭(祇園御霊会)は、八坂神社(祇園社)、「祇園さん」の祭礼であり、疫病退散のための祭り。八坂神社の神事である神輿御渡(みこしとぎょ)と町衆の祭礼・山鉾巡行からなっている。 
 この二つの祭りは一体で、山鉾 巡行は神事の神幸祭、還幸祭にあたって、都大路を清祓する意味がある。
 「鱧(はも)祭」の異名があるのは、この時期に瀬戸内産の鱧が旬となるから。
◆起源 祇園祭の起源についてはよくわかっていないが、10世紀から続いている。官祭となった平安時代、970年、974年起源説もある。
 鉾により市中の疫病神を集め、疫病神・御霊を追い払う(遷却) 祭礼のひとつであるとみられている。それは、御霊会と深い関わりがある。御霊会は、平安時代に相次いだ疫病(伝染病)や災害は、政治的失脚者の怨霊・御霊による祟り(たとえばその代表格は桓武天皇の弟・早良親王)が原因とされ、それを鎮め、行疫神の災厄を祓うために始まっている。そのためには、疫神を集めたうえで、歌舞芸能を披露し、神の心を和ませて、他の場所に送るという意味がある。1069年には田楽五十組500人の参加があり、田楽や猿楽などが演じられていた。(『中右記』)
 また、鴨川など河川の氾濫後に相次いだ疫病流行の原因について、平安時代の貴族は、政治的な事件で犠牲となった人々の御霊の祟りと考えた。鎌倉時代後期になって新たに台頭してきた町衆は、これらを疫神の影響と考え、疫神退散のために疫神を集める鉾を生み出したともいう。
 869年、卜部日良麿が悪疫流行の際に、神泉苑に祇園社から神輿を出し、諸国の数66本の鉾を立て悪疫退散の祈願をしたのが始まりともいわれている。(『祇園社本縁録』)ただ、『三代実録』に、それ以前の御霊会(865)の記録もある。これらの祭りは、庶民の手で行われた。
 御旅所の成立後に、祇園社の御霊会が始まったという説もある。974年、秦助正という人物が夢のお告げで御旅所(大政所御旅所、高辻東洞院、東御座・中御座渡御)を造営したという伝承がある。翌年(975、970とも)に官祭となった。1136年、さらにもう一つの御旅所(少将井御旅所、冷泉院東洞院、西御座渡御)も造られた。
 祇園祭の原型は、御旅所への神輿の御渡により成立しているとされ、現在も続いている神事・神輿御渡(御輿向・神輿迎-現在の神幸祭、祇園御霊会・祇園会-現在の還幸祭)が祇園祭の本来の意味を持っているとみられている。平安時代中期以降、祇園社から三基の神輿が神泉苑に向かい、7日後に戻っていたという。
 中世には、現在の山鉾巡行はまだなく、巡行は14世紀から始まった。当時は、神幸列、三基の神輿、山鉾の原型とされる馬上十三鉾、神馬、巫女の神楽、田楽、獅子舞などからなっていた。また、御渡の際に、駕輿丁らがたびたび喧嘩が起こし、死者も出ていた。
◆山鉾 鉾の原型となったのは、邪気を祓う矛とされている。剣鉾といわれる6mほどの柄の先に矛が付いたもので、人が垂直に立てて柄を支えた。鉾は、神の降臨する依代(よりしろ)でもあった。現在、京都には200本ほどの剣鉾があると推定されている。その後、鉾は次第に巨大化していく。平安時代に、作り山、笠が現れた。室町時代には現在のような台車が登場する。
 山の原型は大嘗祭で使われる標山(しめやま)にあるという。真柱の松には人形が置かれており、松もまた神の依代であり、人形は神を表している。
 山鉾の源流は998年、「無(尤)骨」という田楽法師が大嘗会の標様の柱を引いたものが始めともいわれる。ところが、藤原道長は、翌年にこれを禁じ、検非違使に追捕を命じたが、無骨はうまく逃れた。道長は、祭りの過熱を恐れた。(『本朝世紀』)
 鉾が現れたのは、平安時代末1157年とも伝えられる。鎌倉末期から室町時代(南北朝期)に、鉾、山、笠鉾、芸屋台(移動舞台となる作り物)が形作られたともいわれる。「散楽空車<むなぐるま>」(1013、『本朝世紀』)といわれる山車では、田楽の元になる民間芸能が演じられた。
 なお、鉾は当初、祇園社が所有し、社家が分担し管理していたという。室町時代に、町衆の山鉾と入れ替わったともみられ入る。
 室町時代(1378)、足利義満は世阿弥を伴い山鉾を見物している。
◆変遷 中世の頃、山鉾の経営は、「下辺」といわれた下京66町の自治的な商工民によった。祇園社と商工民が結びついたのは、祇園社が材木座、釜座など七座を支配していたためであるとみられている。座は、神社に年貢を納めて祭りに奉仕することで、営業の特権を得ていた。
 1415年には、神幸祭が行なわれず山鉾巡行だけが行なわれることもあった。天文法華一揆(1533)の最中、祇園会が中止となった時にも、山鉾巡行は2ヶ月遅れで行なわれた。祇園社は、比叡山延暦寺の末寺・日吉大社の末社だったため、比叡山の僧兵の圧力に屈し、祇園祭は延期されたという。
 応仁・文明の乱(1467-1477)以前には、58基(前祭31基、後祭27基、全部で60基説も)の山鉾があった。(『祇園社記』)戦乱によって都は荒廃し、祇園祭も中断された。1500年、祭りの再興には戦乱後33年の歳月を必要とした。このとき、前祭26基の山鉾、後祭10の山が再興され、都の再建の原動力となった。
 近世、豊臣秀吉は、それまでの条坊制を短冊割りに改めた。このとき、祇園祭の氏子区域だけがそれに抵抗し、改変されなかった。その理由として、商工業者 が密集し、簡単に地割りが行えなかったことと、山鉾町の強固な自治があったからと考えられている。また、秀吉の築かせた御土居によって、中世の頃に車屋町夷川、烏丸高辻にあった御旅所は、1591年に現在地の寺町四条に移転させられた。さらに、御旅所へ向かう四条口が御土居によって塞がれたため、神幸祭・還幸祭は以後11年間、三条口に迂回するようになった。
 近世以降、現在の山鉾の構成とほぼ同じになっている。また、祭りは武具の携帯禁止など幕府による細部にわたる統制下に入った。江戸時代の天明の大火(1706)、天保の大火(1788)、禁門の変の「どんどん焼け」(1864)でも、山鉾の多くが焼失しその後復興されないままの「焼山」(やけやま)が生まれた。
◆装飾 山鉾は、さまざまな題材に因っている。たとえば、中国の故事(8基)、記紀神話、能楽狂言、神仏の信仰、武器などにより、からくり仕掛けもある。説話の人物には豪華な前掛、胴掛、見送、水引、タペストリーなどの装飾品がある。それらは中国、朝鮮、インド、トルコ、ペルシャ、ムガール、ベルギー、コーカサス、フランス、イギリス、ロシアなどからもたらされ、題材も中国の故事、記紀神話ばかりではなく、ギリシャ神話、ローマ史話、旧約聖書などに因るものもある。
 これらの素材は16~17世紀に、勘合貿易、朱印船貿易による海外交易で世界中から輸入された染織品(綴織、更紗、緞通、毛織物)、それに西陣織などとなっている。これらは堺の納屋衆、下京の豪商などによりもたらされた。
 たとえば鯉山のタペストリー(ベルギー・ブランバン・ブリュッセル作)は、伊達政宗が欧州に派遣した支倉常長の持ち帰ったもので、ホメロスの抒情詩イーリアスのトロイア戦争に題材がある。これは鶏鉾・見送、霰天神山・前掛垂、白楽天山の胴掛などにも使われている
◆神輿洗 神事初めの吉符(きっぷ)入り長刀鉾町御千度祭(7月1日)、巡行順を決めるくじ取式(7月2日)から一カ月に及ぶ祇園祭が始まる。
 鴨川と祇園祭の関連としては、山鉾巡行の際にも鉾は鴨川を渡らない。古来より、山鉾は鴨川で祇園社を遥拝して引き返した。
 神輿は鴨川を渡る。『洛中洛外図屏風』(1574)には、四条の仮橋を三基の神輿が渡る様子が描かれている。浮橋は、祭礼のたびに堀川材木神人(堀川神人)によって架けられていた。
 7月10日、鴨川に架かる四条大橋の上で、神輿洗い(さきの神輿洗い)が執り行われる。
 なお、八坂神社には四基の神輿がある。そのうち、中御座(古くは「大宮」、六角形、烏鳥<鳳凰>、主祭神・素戔嗚尊<スサノヲノミコト>、かつては牛頭天王、現在の運営は三若神輿会(さんわかしんよかい))、東御座(古くは「八王子」、 四角形、葱華<宝珠>、主祭神・櫛稲田姫命<クシイナダヒメノミコト>、かつては八王子、運営は四若神輿会)、西御座(古くは「少将井」、八角形、烏鳥<鳳凰>、主祭神・八柱の御子神<ヤハシラノミコガミ>、かつては頗梨采女(ハリサイニョ、婆梨采女、婆梨女)、運営は錦神輿会)の三基が御渡する。
 神輿洗いの神事は、中御座のみによって行なわれる。鴨川東岸の一部(四条大橋-松原橋)だけが「宮川」と呼ばれている。午前中に、仲源寺での神事の後、宮川から汲み上げられた水は、神事を経て、「神事用水」として、鴨川河畔と仲源寺(予備)に置かれる。
 夕刻、八坂神社本殿前で点火された疾走する大松明により、まず四条通を祓い清める「道しらべ」が行われる。続いて、神輿蔵から出された中御座神輿が、「東御座」の氏子「四若」により担がれ、四条大橋まで繰り出す。四条大橋では神事ののち、「御神用水」に榊が浸され、神輿に降り注がれ、清められる。この水しぶきは、厄よけの効用があるといわれ、人々が群がる。
 この日、清められた神輿は、再び八坂神社に戻り、舞殿でほかの二基とともに、神幸祭(17日)当日を待つ。なお、7月28日にもう一度、同じように神輿洗い(あとの神輿洗い)が行われる。
 神輿洗いはかつて四条河原で執り行われていた。この神事について、原初的な御霊会の疫神還却の意味があるとする指摘がある。祭りに先立ち鴨川より神を迎え、荒魂により再生させる御阿礼(みあれ)の意味と解釈する。
◆山鉾巡行 鉾建・山建から宵山までは、山鉾の会所では厄除けのちまきが売られる。また、山鉾のご神体や町内の宝物が披露される「会所飾り」、旧家では家蔵の屏風、染織品、鉾雛形、鎧、活花などが披露される「屏風祭り」「会所飾り」も行われている。
 17日の山鉾巡行で、一カ月にわたる祇園祭は最高潮となる。お稚児さん(生稚児、神の使い)の唯一乗る長刀鉾を先頭とする。長刀鉾は平安時代以来のいわれがあるとされ、先頭を進むのは応仁・文明の乱(1467-1477)以前と変わらない慣例となっている。長刀鉾稚児は四条通麩屋町の斎竹(いみたけ)に張られた注連縄を太刀で切り、巡行は始まりを告げる。
 32基(曳き鉾7基、曳き山3基、笠鉾2基、舁(か)き山20基)の山鉾巡行が行われる。鉾は高さ24m、12トンの重量があり、曳き子30人ほどで動かす。鉾の屋根の上には屋根方4人が乗り、電線などを捌く。屋台には40人前後の囃方が乗り、祇園囃子が奏じられる。巡行の見せ場は、辻回しと呼ばれる鉾の方向転換のときで、3mほどの巨大な車輪に、渡し木を差し入れて調整する。
 山は、重量1.5トンで、20人ほどの昇方が曳く。山には、屋台の上に神の依代の松が立てられ、それぞれの題材に由来するご神体が安置されている。  また、この夜、八坂神社から四条京極のお旅所まで、3基の神輿が巡行する神幸祭(前祭)が行われる。西御殿には中御座と東御座が、東御殿には西御座が還座する。24日、花傘巡行とお旅所から八坂神社に神輿が戻る還幸祭(後祭)も行われる。巡行の後、山鉾はすぐに解体、収蔵される。 
◆近代以降 祇園祭は、明治までは祇園御霊会、祇園会といわれ、神幸祭(旧暦6月7日七日山鉾、中世には神輿迎)、還幸祭(6月14日、十四日山々、中世には祇園会、祇園御霊会)の日程で行なわれていた。明治期以後は、それぞれ新暦の7月14日と7月24日に変更された。
 コレラの流行により1879年、1886年には、山鉾巡行が11月に延びた。1887年には5月に繰り上げられた。
 第二次世界大戦中、「祈皇軍武運長久」の幕を掛けた鉾も現れた。1943年、資金と物資不足などから山鉾巡行は中止され、神輿御渡のみ実施された。しか し、翌年にはこれも中止された。復興されたのは戦後の1947年になってからで、長刀鉾、月鉾の2基のみが建ち、長刀鉾だけが巡行した。
 山鉾巡行は、1966年以前は前後二日に分かれ、巡行路も異なって行われていた。以後は、「さきのまつり」(17日)、「あとのまつり」(24日)が一つになった。「あと山」の山鉾巡行は取りやめとなり、現在の花笠巡行となった。
 山鉾の復活、道路の狭さと観客の安全面により巡行路の変更(1956、1961)、新しい祭りの創設など、祇園祭は時代とともに常に変化を遂げている部分もある。
 1996年、男の祭りである祇園祭への参加を目指して、女性だけの囃子方「平成女鉾清音会(さやねかい)」が結成された。ただ、室町時代末から江戸時代初期までは、女性も山鉾に乗っていた。「女神子」は、神輿に付き添っていたという。平成女鉾清音会は鉾町を持たず、鉾は白木のままで装飾品もない。
◆近年 2007年、祇園祭山鉾連合会は、祇園祭の山鉾行事を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界無形文化遺産」として、登録へ向けた取り組みを進めている。国内ではすでに、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。
 2008年、「宵山」などで山鉾に飾る駒形提灯に使われる白熱電球が、消費電力の少ない電球型蛍光灯に交換されている。32基の山鉾に付けられた提灯の白熱電球は計約2200個、消費電力は1個当たり20ワットから10ワットに半減。延べ30時間の点灯により、期間中の二酸化炭素排出量は約1100キロの削減となるという。

神輿
中世の古称 神輿の形 主祭神 駕輿丁(担ぎ手) かつての御旅所
中御座 大宮 六角形、烏鳥<鳳凰> 主祭神・素戔嗚尊<スサノヲノミコト>、かつては牛頭天王 三若神輿会、かつては摂津国・今宮神人(近代以前の500年間) 大政所御旅所
東御座 八王子 四角形、葱華<宝珠> *櫛稲田姫命<クシイナダヒメノミコト>、かつては八王子 四若神輿会、かつては10町の町人 大政所御旅所
西御座 少将井 八角形、烏鳥<鳳凰> *八柱の御子神<ヤハシラノミコガミ>、かつては頗梨采女(ハリサイニョ、婆梨采女、婆梨女) 錦神輿会、かつては10町の町人 小将井御旅所
*明治期の混乱により、八王子と少将井の主祭神が入れ替わったといわれている.。

◆祇園祭の主な日程 日時変更の場合があります。

6月4日 午後、長刀鉾の稚児と禿2人が決まる(長刀鉾保存会町会所)
6月15日 午後4時、久世駒形稚児2人が決まる、奉告の神事(綾戸国中(あやとくになか)神社)
6月22日 結納の儀。八坂神社の神職が稚児家を訪れ、祭礼期間中の長刀鉾町と稚児の養子縁組を取り交わす。
6月28日 大船鉾囃子方、奉納演奏 (八坂神社)
7月1日 10時 月次祭、長刀鉾町御千度祭(八坂神社)
7月1日~5日  神事始めのとなる「吉符入り」吉符(きっぷ)入り(各山鉾町)
7月2日 10時  鬮取り式(京都市議会議場)、11時半、山鉾連合会社参
7月3日 船鉾町神面改め(非公開) 10時、船鉾町会所。ご神体の神功皇后像につける神面、室町時代作と伝わる「本面」と、江戸時代の「写し面」を、吉符入りを兼ね面の無事を確かめる。
7月4日 祇園囃子練習 (八坂神社)
7月5日 15時 長刀鉾町吉符入り・長刀鉾稚児舞披露(長刀鉾町)
7月7日 14時半 綾傘鉾稚児八坂神社社参、大船鉾二階囃子
7月初旬 10時 みやび会お千度 (八坂神社)
7月10日 10時 宮本講社、神用水清祓式(仲源寺、四条大橋)、11時 高橋町社参(八坂神社)、 13時 神話古事記語り奉納(八坂神社)、16時半 お迎え提灯(石段下→)、20時 神輿洗式(八坂神社→四条大橋→八坂神社) 各山鉾町で清祓い
7月10日~14日 10時 幣切 長刀鉾町、鉾建・山建(各山鉾町)
7月11日 11時 長刀鉾町の真木立て、菊水鉾、鉾立て
7月12日 13時 松取り式、北・南観音山、鉾曳き初め(13時半 函谷鉾、14時 鶏鉾、14時半 月鉾、15時 長刀鉾)
7月12日~13日  鉾曳き初め(各山鉾町) 12日、長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾・鶏鉾・月鉾(昼以降)、9時半 長刀鉾車輪入れ  13日、放下鉾・岩戸山・船鉾・北観音山・南観音山
7月13日 11時 長刀鉾稚児八坂神社社参、14時 久世稚児八坂神社社参、山かつぎ初め 稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭、綾戸国中神社)
7月14日 14時 松原仲之町神祠の祭り(一里塚松飾式)・長刀鉾稚児参拝、屏風祭(14日-16日)、宵々々山
7月14日~16日(宵々々山、宵々山、宵山) 長刀鉾稚児八坂神社夕に参拝・各山鉾町巡拝、社参飾り席、屏風祭(各山鉾町)
7月15日 5時半 斎竹(いみたけ)建(高橋町)、7時15分 御手洗井開き、10時 生間流包丁奉納式、15時 祇園祭伝統芸能退会(能舞台)、20時 宵宮祭(神霊を神輿に移す) 宵々山
7月16日 9時 献茶祭(八坂神社)、9時 豊園社御真榊建て(洛央小)、長刀鉾稚児手洗井・大政所御旅所参拝(宗近作真刀の一般拝観)、18時10分 宵宮神振奉納行事(石段下)、19時 無形文化財・石見神楽、20時 日和神楽(四条御旅所)、23時 あばれ観音(南観音山)、14時 役行者山の護摩焚き 宵山
7月17日 9時 注連縄切りの儀、山鉾巡行、山鉾解体、14時 長刀鉾稚児お位返し、 16時  神幸祭、18時 神輿御渡出発式(石段下→四条御旅所)、久世駒形稚児供奉(京都大神宮社→) 山鉾解体、 13時半 稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭、綾戸国中神社)
7月18日 山鉾解体
7月20日 15時 花傘巡行宣状授与式
7月23日 9時 煎茶献茶祭、14時 オハケ神事、斎竹建(三条・御供社)、15時 琵琶奉納
7月24日  10時 花傘巡行(石段下→)、16時半-23時 還幸祭(四条御旅所→三条・御供社→八坂神社 
14時半、稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭、綾戸国中神社)
7月25日 13時 狂言奉納
7月26日 15時 平成女鉾清音会祇園囃子奉納
7月28日 10時 神用水清祓式(仲源寺、四条大橋)、20時 神輿洗式、八坂神社→四条大橋→八坂神社)、
7月29日 16時 神事済奉告祭、
7月31日 10時 疫神社夏越祭(八坂神社)
 

御旅所の変更 中世以前 大政所御旅所(佐方御旅所、高辻東洞院)、小将井御旅所(右方御旅所、冷泉院東洞院)の二カ所
1591年~ 秀吉により二つは統合され、現在地の御旅所(寺町四条)へ移転

山鉾巡行の道筋のおもな変更
中世~1956年 四条烏丸→四条通東進→寺町通南進→松原通西進→仲之町神祠=下八坂社→東洞院

1956年~1960年 四条烏丸→四条通東進→寺町通北進→御池通西進
1961年~ 四条烏丸→四条通東進→河原町通北進→御池通西進

後祭(1966年以前) 北観音山、南観音山など9基 三条通東進→寺町通南進→四条通西進

山鉾巡行の日程の変更
明治以前  旧暦6月7日 神幸祭・山鉾巡行、旧暦6月14日 還幸祭・山鉾巡行 
1966年以前 7月17日 前祭(さきのまつり)神幸祭・山鉾巡行、7月24日 後祭(あとのまつり)還幸祭・山鉾巡行 
1966年以後
 7月17日 神幸祭・山鉾巡行7月24日 還幸祭・花笠巡行

御輿の変遷
中世 大宮(六角形)→大政所御旅所 八王子(四角形)→大政所御旅所 少将井(八角形)→小将井御旅所
現在 大宮(六角形) 少将井(四角形) 八王子(八角形)

*参考文献 『祇園祭』『祇園祭と戦国京都』『祇園祭 都市人類学ことはじめ』『ドキュメント祇園祭 都市と祭と民衆と』『中世京都と祇園祭 疫信と都市の生活』『祇園信仰 神道信仰の多様性』『京都の夏祭りと民俗信仰』『まち祇園祭すまい 都市祭礼の現代』『祇園祭』『祇園祭と戦国京都』『京都の三大祭』
 


 八坂神社      冠者殿社     御手洗井      御供社      八坂神社大政所御旅所      三条台若中会所       弓矢町の祇園祭          

7月13日 鉾曳き初め、人形、見送りなどの飾りつけて囃子方も乗って、鉾町各所で試し曳きが行われる

7月13日、八坂神社。久世稚児八坂神社社参、綾戸国中神社(南区久世)の氏子から選ばれた稚児は、それぞれ神幸祭と還幸祭に馬に乗って神輿巡行を先導する。

7月13日 長刀鉾稚児八坂神社社参、巡行の際に先頭を行く長刀鉾の稚児、禿が町会所を出発、八坂神社に社参し、祭りの無事を祈る。当日稚児は、「正五位少将」の位をもらい、神木の杉の葉でくるんだ「杉守り」を授かり、この日から神の使い(神の子)となる。その後、金の立烏帽子の稚児は強力の肩に担がれて南楼門を出る。


長刀鉾の粽

鶏鉾の装飾

7月14日 松原仲之町神祠に長刀鉾稚児参拝、かつて松原通は山鉾の巡行路に当たっており、この地が休憩所となっていた。その名残で、いまも稚児、禿が神祠に参詣する慣わしとなっている。

芦刈山、宵山

保昌山、宵山

~宵山。先端の鉾は神の依代であり、
龍神、蛇身を象徴している。

~宵山、囃し方による祇園囃子、月鉾。コンチキチンの囃子は、各鉾とも40曲以上ある。


2008年より駒方提灯は、消費電力の少ない電球型蛍光灯に交換された。

~宵山、町家が開放され、屏風などの美術工芸品が披露される屏風祭り、江戸中期にはすでに行われていた。
最盛期は、明治後期の染織産業の活況期だったという。船鉾


藤井絞

北観音山

南観音山

芦刈山

7月15日 早朝に行われる斎竹(いみたけ)建(高橋町)

斎竹の縄結び、

7月15日 御手洗井開、早朝に、町内関係者による神事が行われる。
 

7月15日 注連縄切りの練習 長刀鉾町

7月15日 稚児八坂社参後、四条通を提灯行列

7月16日 豊園榊奉賛会による豊園社御真榊建て。榊の木を束ねて作られている。疫病消除の意から真榊台を建て、かつては三基の神輿にそれぞれ供奉されてきたという。現在では、泉正寺町御真榊台のみが残され、神幸祭、還幸祭では神輿を先導している。

7月16日 役行者山の護摩焚き


7月16日 鷺舞奉納 八坂神社


7月16日 宵宮祭、八坂神社本殿、本殿より舞殿の三基の神輿に、境内の明かりがすべて消された中で、9人の神職により、神輿へ祭神を遷す「御霊遷(みたまうつし)」の神事が行われる。

7月16日 石見神楽「大蛇」奉納 八坂神社

7月16日 日和神楽、巡行の好天を願って、長刀鉾の囃し方が、ハ坂神社に社参し、囃子を奉納する。

7月16日 山鉾巡行、注連縄切り

7月16日 山鉾巡行、四条御旅所


7月17日、左は南観音山、右は鶏鉾

蟷螂山
 

7月17日、長刀鉾の稚児は「強力」の肩に乗り、鉾を下りる。

7月17日 久世駒形稚児供奉、八坂神社、騎乗し舞殿を右回りに3周する。

7月17日 神幸祭、輿丁(よちょう)に担がれる神輿「中御座」、八坂神社

7月17日、神幸祭、八坂神社南楼門、稚児は神の依代であり、この久世稚児(駒形稚児)は、南区上久世町の綾戸国中(あやとくなか)神社のご神体の駒形を胸に携えている。綾戸国中神社の祭神も素戔嗚尊で、八坂神社の「和御魂(にぎみたま)」に対し、「荒御霊(あらみたま)」と呼ばれている。久世稚児は八坂神社の祭神・素鳴戔尊の荒魂を具現しており、下馬せずに境内に入ることが許されており、長刀鉾の生稚児との違いがある。由来については不詳だが、応仁・文明の乱(1467-1477)以後の芸能集団「少将井駒形座中」との説もある。久世稚児は、神幸祭と還幸祭で馬に乗り、中御座の神輿を先導する。
 

7月17日、神幸祭、西御座、八坂神社南楼門


7月17日、神幸祭、八坂神社石段下、

7月17日、神幸祭東御座の差し上げ、四条御旅所、祭神を奉じた3基の神輿は、ハ坂神社から氏子地域を練り歩き、四条御旅所に到着、以後24日までここに鎮座する。
 

7月17日 北観音山

7月17日 山鉾解体、長刀鉾

7月17日 山鉾解体

7月17日 山鉾解体

7月17日-7月24日 四条センター八坂神社四条御旅所。御旅所は、神輿3基が渡御し、7月17日から7月24日の還幸祭まで滞在する。御旅所は、「仮の宮」「離宮」ともいわれ、本宮を出た神輿を迎えて仮に祀る場所となる。この7夜、「無言詣り」の風習がいまも続いている。道中誰とも会わず、言葉も交わさずに御旅所に詣でれば、その願いがかなうとされ、かつては祇園の芸舞妓が通った。川端康成の『古都』でも千恵子が無言詣りをし、生き別れた双子の姉妹は再会する。

四条御旅所

四条御旅所

四条御旅所

18日-23日、各山鉾町による祇園ばやしが奏じられる。この日は月鉾町、四条御旅所

7月23日、煎茶献茶祭、八坂神社

7月24日、三条・御供社。 神泉苑と関わりある神事がいまも行なわれている。祇園祭還幸祭の前日、7月23日、オハケ神事、斎竹建(いみたけたて)が行われる。オハケ立ての神事ともいう。3基の神輿を迎えるための祭場オハケが設けられる。社の南側に芝生(縦70cm×横2.2m)が敷かれ、四隅に斎竹を立て、芝生に御幣が3本立てられる。芝生は、神泉苑の水辺を、御幣は三基の神輿を表すとされている。

7月24日、花傘巡行、八坂神社を発した花傘娘、金獅子、銀獅子、武者、子ども神輿などの行列は、四条通などを練り歩き、再び神社に戻る。


7月24日、舞奉納、八坂神社舞殿

7月24日、祇園祭還幸祭供奉祈願祭、久世駒形稚児、綾戸国中神社氏社参し、この後、還幸祭で神輿を先導する。かつては、当社から馬で八坂神社へ向っていたという。

7月24日、還幸祭、宮本組の剣鉾、四条通

7月24日、還幸祭、中御座、大政所

7月24日、還幸祭、中御座、神泉苑での差し上げて差し回し

7月24日、還幸祭、中御座、御供社(三条又旅所)

7月24日、還幸祭、久世稚児が神輿を先導し、舞殿を騎乗のまま三周し、強力に担がれ本殿に入る、八坂神社

7月24日、還幸祭、西御座、八坂神社、3基の神輿は、夕刻に四条御旅所を発し、それぞれ氏子地域を練り歩き、途中、三条又旅社(中京区)で神事を行い、八坂神社へ戻る。境内では、神輿が次々に舞殿を周回し、差し上げが行われる。その後、舞殿へ神輿は上げられ、夜半、境内の明かりがすべて消され、神輿から本殿へ祭神を再び戻す「御霊遷(みたまうつし)」の神事が行われる。

7月24日、還幸祭、西御座、神輿は再び舞殿に還る。八坂神社舞殿

7月24日、夜半、闇の中で行なわれる還幸祭最後の神事「御霊遷(みたまうつし)」、神霊は9人の神職により、神輿から本殿に戻される。八坂神社舞殿

7月27日頃、平成女鉾清音会、祇園囃子奉納、八坂神社能舞台。40人の女性だけの囃子方による祇園囃子。
 

7月28日、四条大橋での神輿洗の松明

7月28日、神輿洗の神事

7月29日、神事済奉告祭、宮本講社、八坂神社。神事が滞りなく終了したことを祭神に報告する神事が行われる。


7月31日、八坂神社境内にある摂社疫神社の夏越祭、茅の輪をくぐり厄除けを祈願する。この日、長刀鉾の稚児も社参する。祇園祭はこれをもってすべての日程を終了する。

冠者殿社(右端)と御旅所、四条センター西隣

四条御旅所、四条センター東隣

八坂神社の境外摂社である御旅所は、中世の頃には車屋町夷川、烏丸高辻にあった。
その後、豊臣秀吉によって寺町四条に移転させられた。 西御殿に中御座と東御座、東御殿に西御座、子供神輿東若御座が置かれる。この期間を「まつりのあい」という。

八坂神社大政所 (おおまんどころ)御旅所、下京区烏丸通仏光寺下ル東、大政所町、
かつてここに八坂神社の御旅所が置かれ、牛頭天王が祀られ、神輿の渡御も行われていた。平安時代974年、東洞院高辻の秦助正の夢枕に、神人が現れて宣託があったという。さらに、庭の塚から祇園社まで蜘蛛の糸が続いていたという。円融天皇も同じ夢を見たとされ、以後秦助正の自宅が御旅所となった。江戸時代、神輿は八坂神社から四条通を経て神泉苑に向かっていた。1536年に一度焼失している。1591年に豊臣秀吉により、現在の四条京極に移転させられた。その後、ここには小祠が建てられ、7月16日に例祭が行われている。

かつて御旅所だった御手洗井(みてあらいい)、織田信長の命により祇園祭の期間のみ井戸が開かれるようになったという。(手洗水町)
 15日早朝に行われる「遥拝式」(井戸開き)と呼ばれるの神事がある。竹2本を建て注連縄を張り直す。粽やトビウオ、ウリ、お神酒を供え、手を清めた参列者が井戸に向かって拝む。井戸は24日の還幸祭まで開け放たれる。
 井戸開きには、長刀鉾稚児が参拝する習わしがあった。1970年代に、長刀鉾稚児の儀式が簡素化された際に途絶えたという。
 井戸は地下水脈で八坂神社とつながっていると信じられてきた。「だから、夏にこの水を飲んだら、疫病にかからないと言われてきた。1997年に京都市営地下鉄東西線が開通し、一帯の井戸が次々に涸(か)れたのだ。
 御手洗井は、今ではポンプで水を汲(く)み上げている。


御供(おんとも)町にある八坂神社末社の三条・御供社(ごくうしゃ、又旅所)。この地はかつて神泉苑の東南端に当たっていたという。ここに「オハケ」が設けられ、3基の神輿を迎えるための祭場となる。
 「オハケ立ての神事」(オハケ清祓式)は、祇園祭の還幸祭を前に、社南側に芝生(縦70センチ、横2・2メートル)を敷き、斎竹(いみたけ)が四隅に建てられ、御幣が3本が立てられる。芝生は、神泉苑の水辺を表すとされている。オハケは、神様の依代であり、神輿で訪れた神が休憩する場となる。


松原仲之町神祠。かつて松原通は山鉾の巡行路に当たっており、この地が休憩所となっていた。その名残で、祇園祭に際して長刀鉾稚児が参拝する。

「御婦人並に忌中の方はこれより先は御遠慮願います。」
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