西寺跡 (京都市南区)
The ruins of Sai-ji Temple
西寺跡 西寺跡
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かつての講堂跡に建てられている「史蹟西寺址」の碑


土塁の下には西寺の講堂があったとみられている。土盛りは戦前に松尾神社の御旅所として築造された。


出土した金堂の礎石3つが土塁上に置かれている。


【参照】西寺復元図、南の中央より南大門、中門、金堂、講堂、網所、食堂院などが直線上に建てられている。京都アスニー



【参照】西寺復元模型、京都アスニー



【参照】西寺公園の北西に浄土宗西山禅林寺派の西寺がある。脇に「西寺旧跡」の小さな石碑が立つ。

【参照】西寺、南区唐橋平垣町45-1
 唐橋西寺公園は、平安時代に建立された官寺(かんじ)の西寺跡(さいじあと)(国史跡)といわれている。境内は、平安京の右京九条一坊九町-十六町の8町に及んだ。 
 かつての西寺講堂跡には、後世に築造された土塁(コンド山)がある。いまはその上に「史蹟西寺址」の碑、礎石が残されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、796年、東寺、西寺の造寺長官に藤原伊勢人が任命される。(「帝王編年紀」)
 796年頃、西寺の造営が始まったとみられる。第50代・桓武天皇の勅願により、平安京内で最初に建造が許された官寺だった。
 797年、従五位上、笠朝臣江人(かさのあそんえひと)が造西寺次官に任命された。(「類聚国史」)
 812年、東西両寺で最初の夏安居(げあんご)を行うことを定める。
 823年、第52代・嵯峨天皇より、空海に東寺、守敏に西寺が与えられる。
 826年、金堂で桓武天皇の仏事が第53代・淳和天皇の主催により執り行われた。
 832年、講堂の新造仏供養が行われた。
 858年、第55代・文徳天皇の国忌が営まれる。
 882年以降、五重塔が建てられたとみられる。
 10世紀(901-1000)半まで、国家鎮護の寺として栄えた。
 990年、塔を除き、多くの伽藍を焼失している。
 1136年、焼失した。
 13世紀(1201-1300)初頭まで、官寺として機能した。
 鎌倉時代、1233年、五重塔が焼失した。その後、復興されることはなく廃寺になる。
 近代、1921年、伽藍中心部は、国の史跡指定された。
 戦前、松尾大社の御旅所として、講堂跡に神輿を練り上げるための土塁(コンド山、3m)が築造される。
 現代、1959年-1962年、跡地での発掘調査が行われる。講堂、小子坊、食堂、食堂回廊、東僧坊、食堂院、金堂跡などが発見される。
 1960年、基礎が発見された。
 1976年、十町での発掘調査により賤院跡とみられる遺構が発見される。
 1988年、発掘調査により、政所院とみられる建物群跡が見つかる。
 2016年、八条中学校北側での発掘調査により、付属施設の大衆院跡とみられる建物跡2つが見つかった。なお、それ以前の弥生時代の墓、土器などは、唐橋遺跡との関係もあるとみられている。
◆守敏  平安時代前期の真言宗の僧・守敏(しゅびん、生没年不詳)。大和・石淵寺の勤操(ごんぞう)らに三論、法相をまなび、密教にも通じた。823年、第52代・嵯峨天皇より西寺が与えられる。空海と対立し、824年、神泉苑での祈雨で空海と法力を競い敗れたという。
◆西寺 西寺(さいじ)は、平安時代、794年の平安京造営の際に、羅城門(幅36m、高さ21m)の西に創建されている。同じく羅城門の東には、現存する東寺が創建された。平安京(東西4.5㎞、南北5.3㎞)の入り口に、広大な境内を与えられた両寺は、左大寺、右大寺とも呼ばれた。二寺は左右対称をなし、2つの五重塔は巨大な門柱のように聳え建っていた。
 西寺の寺域は広大であり、右京九条一坊九町-十六町の8町分、東西250m、南北510mあり、東寺とほぼ同規模だった。北半4町に花園院、大衆院、倉垣院、政所院が建てられ、南半町に主要伽藍が建てられていた。現在の唐橋児童公園、唐橋小学校付近になる。境内には、南より南大門、中門、金堂(公園、小学校付近)、講堂、僧房、食堂(公園北側付近)、僧綱が一直線に建ち並んだ。伽藍の間は回廊で繋がれていた。境内南西に五重塔、南東に御霊堂も建っていたとみられている。食堂近く北東15mで、平安京最大の井戸(2.2m四方)が見つかっている。
 平安京に、この二寺以外の寺院建立が認められなかったのは、平城京に見られた増大した寺院勢力の台頭を排除するための政治的意図によるともいう。当初、西寺は東寺より格上とされた。東寺は民間に下賜され真言宗の寺院になる。西寺は最後まで官寺としての役割を有した。
 西寺は平安京の右京を守り、西国を守るという国家鎮護の役割を担う。国家管理のもとに国忌(こっき/こき)を行った。これは、先帝の没した日に、国の行事として追善供養の仏事を行った。役所である僧綱(そうごう)所が、奈良薬師寺より移され置かれた。僧綱所は、全国の寺院や僧尼を統括する施設になる。平安時代末、律令制の崩壊とともに、国家に依存してきた西寺は次第に衰退する。鎌倉時代、伽藍は荒廃し、以後、再建されることはなかった。
 近年の発掘調査では、22m四方の市内最大規模の井戸跡なども見つかっている。
◆地蔵菩薩 西寺にかつて安置されていたという「地蔵菩薩立像」(重文)は、現在、東寺の宝物殿に遷されている。平安時代初期の作、木像。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都歩きの愉しみ』『京都府の歴史散歩 中』『平安の都』『京都大事典』『古代を考える 平安の都』『京都市文化財ブックス28集 平安京』



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 西寺跡(西寺児童公園) 〒601-8466 京都市南区唐橋西寺町57
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