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西寺跡 (京都市南区) Site of Sai-ji Temple |
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西寺跡 | 西寺跡 |
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![]() かつての講堂跡に建てられている「史蹟西寺址」の碑 ![]() 土塁の下には西寺の講堂があったとみられている。 ![]() 礎石3つが土塁上に置かれている。 ![]() 【参照】西寺復元図、南の中央より南大門、中門、金堂、講堂、網所、食堂院などが直線上に建てられている。(京都市平安京創生館)、説明板より ![]() 【参照】西寺復元模型(京都市平安京創生館)、展示模型より ![]() 【参照】墨書「西寺」の須恵器杯、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)の展示より ![]() 【参照】西寺跡出土の平瓦、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)の展示より ![]() 【参照】西寺跡出土の軒丸瓦(左)、「西寺」銘の軒丸瓦、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)の展示より ![]() 【参照】西寺跡から出土した三彩陶器 盤(京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所蔵) ![]() 【参照】出土した軒丸瓦 複弁蓮華文、9世紀(京都大学総合博物館) ![]() 【参照】宝物館、地蔵菩薩立像(重文)、東寺案内板より ![]() 【参照】西寺公園の北西に浄土宗西山禅林寺派の西寺がある。脇に「西寺旧跡」の小さな石碑が立つ。 ![]() 【参照】「西寺町」の町名 ![]() 【参照】「堂ノ前町」 ![]() 【参照】「史跡西寺大炊殿跡」の石碑 |
唐橋西寺公園は、平安時代に建立された官寺(かんじ)の西寺跡(さい-じ-あと)(国史跡)といわれている。平安京では東寺とともに政治的な意図を持って建立された。東寺とは朱雀大路を挟み対称点にあり、「右寺」、「右大寺」とも呼ばれた。境内は、平安京の右京九条一坊九町-十六町の8町に及んだ。 西寺講堂跡には、後世に築造された土塁(コンド山)がある。いまはその上に「史蹟西寺址」の碑、礎石が残されている。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、796年、東寺、西寺の造寺長官に藤原伊勢人が任命される。(『帝王編年紀』) 796年頃、西寺の造営が始まったとみられる。第50代・桓武天皇の勅願により、平安京内で最初に建造が許された官寺だった。 797年、従五位上、笠朝臣江人(かさのあそんえひと)が造西寺次官に任命された。(『類聚国史』) 812年、東西両寺で最初の夏安居(げあんご)を行うことを定める。 823年、第52代・嵯峨天皇より、空海に東寺、守敏に西寺が与えられる。 826年、金堂で桓武天皇の仏事が第53代・淳和天皇の主催により執り行われた。 832年、講堂の新造仏供養が行われた。 858年、第55代・文徳天皇の国忌が営まれる。 882年以降、五重塔が建てられたとみられる。 10世紀(901-1000)半まで、国家鎮護の寺として栄えた。 958年、都で疫病による死者があり、当寺御霊堂を含む平安京内外の社寺で仁王般若経の輪読が行われた。(『類聚符宣抄』) 990年、旧2月、塔を除き、多くの伽藍を焼失している。(『日本紀略』) 1136年、焼失した。 鎌倉時代、13世紀(1201-1300)初頭まで、官寺として機能した。 1233年、旧12月、五重塔が焼失した。その後、復興されることはなく廃寺になる。 江戸時代、1791年、旧10月、礎石、若干出土する。(『慶弘紀聞』) 近代、1919年、西寺金堂跡として発掘調査が行われた。 1921年、伽藍中心部(土壇周辺地)は、「西寺跡」として国の史跡指定された。 戦前、松尾大社の御旅所として、講堂跡に神輿を練り上げるための土塁(コンド山、3m)が築造される。 1933年、土壇南側が第2尋常小学校(後の唐橋小学校)用地になる。 現代、1959年-1962年、跡地での発掘調査が行われる。講堂、小子坊、食堂、食堂回廊、東僧坊、食堂院、金堂跡などが発見される。 1960年、基礎が発見された。 1966年、史跡範囲が拡大された。 1976年、十町での発掘調査により、賤院跡とみられる遺構が発見される。 1988年、発掘調査により、政所院とみられる建物群跡が見つかる。 2016年、八条中学校北側での発掘調査により、付属施設の大衆院跡とみられる建物跡2つが見つかった。なお、それ以前の弥生時代の墓、土器などは、唐橋遺跡との関係もあるとみられている。 2018年、発掘調査により、講堂の正面階段「延石」跡が見つかった。東寺の講堂と左右対称に配置されていたことが確定される。西側の「犬走」が見つかり、寺域西端が確定された。 2019年、発掘調査により、講堂跡の基壇、五重塔とみられる建物跡が見つかった。 2020年、10月、西寺講堂は、東寺より小規模だったことが判明した。 ◆藤原 伊勢人 奈良時代後期-平安時代前期の廷臣・藤原 伊勢人(ふじわら-の-いせんど、759-827)。男性。伊勢戸。父・参議・藤原巨勢麻呂(藤原南家)の第7子。796年、鞍馬寺の起源になる堂宇を建立した。第50代・桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したという。阿波守。803年、従五位下。806年、安芸守、809年、斎宮頭、従五位上に昇叙、812年、右中弁。813年、因幡守、820年、正五位下、822年、散位従四位下。治部大輔。69歳。 ◆守敏 平安時代前期の真言宗の僧・守敏(しゅびん、?-?)。詳細不明。男性。大和・石淵寺の勤操(ごんぞう)らに三論、法相を学び、密教にも通じた。823年、第52代・嵯峨天皇より西寺が与えられる。空海と対立し、824年、神泉苑での祈雨で空海と法力を競い敗れたという。 ◆西寺 西寺(さいじ)は、平安時代前期、794年の平安京造営の際に、羅城門(幅36m、高さ21m)の西に創建されている。同じく羅城門の東には、現存する東寺が創建された。平安京(東西4.5㎞、南北5.3㎞)の入り口に、広大な境内を与えられた両寺は、新京で政治的意図を持ち、左大寺、右大寺とも呼ばれた。以前は、2寺は左右対称をなし、一体で造営されたと考えられていた。近年の発掘調査により、西寺の規模は東寺より小さかったことが分かっている。2つの五重塔は巨大な門柱のように聳え建っていた。 西寺の寺域は広大であり、右京九条一坊九町-十六町の8町分、東西250m、南北510mあり、東寺とほぼ同規模だった。北半4町に花園院、大衆院、倉垣院、政所院が建てられ、南半町に主要伽藍が建てられていた。現在の唐橋児童公園、唐橋小学校付近になる。境内には、南より南大門、中門、金堂(公園、小学校付近)、講堂、僧房、食堂(公園北側付近)、僧綱が一直線に建ち並んだ。伽藍の間は回廊で繋がれていた。境内南西に五重塔、南東に御霊堂も建っていたとみられている。食堂近く北東15mで、平安京最大の井戸(2.2m四方)が見つかっている。 平安京に、この2寺以外の寺院建立が認められなかったのは、平城京に見られた増大した寺院勢力の台頭を排除するための政治的意図によるともいう。当初、西寺は東寺より格上とされた。西寺の別当、三綱(さんごう)は東寺よりも上位にあった。東寺は民間に下賜され真言宗の寺院になる。西寺は最後まで官寺としての役割を有した。 西寺は平安京の右京を守り、西国を守るという国家鎮護の役割を担う。国家管理のもとに国忌(こっき/こき)を行った。これは、先帝の没した日に、国の行事として追善供養の仏事を行った。役所である僧綱(そうごう)所が、奈良薬師寺より移され置かれた。僧綱所は、全国の寺院や僧尼を統括する施設になる。平安時代末、律令制の崩壊とともに、国家に依存してきた西寺は次第に衰退する。鎌倉時代には、伽藍は荒廃し、以後、再建されることはなかった。 ◆御霊会 平安時代に御霊会が営まれたのは、平安京の条坊に近い洛外・条坊端の場所が多かった。出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・天安寺・東寺・西寺・城南寺・白川・祇園八坂・神泉苑などの地だった。 それ以前の平城京では、「道饗祭(みちあえ-の-まつり、四境祭)」があり、6月・12月の晦日に、都の四境(東北・東南・西北・西南)の路上で、疫神に供物を饗応していた。同日に大内裏四隅では、「鎮火祭(ひしずめ-まつり)」が行われており、合わせて「四角四境祭」と呼ばれていた。 ◆発掘調査 現代、1959年、1962年に発掘調査が行われた。東僧房は3間(3.4、4.2、3.4m)4間、金堂は基壇北東隅、北西隅、東西38m、南北26mだった。食堂は5間4面、南門(八脚門)が見つかった。ほか、南大門根石、東回廊東西縁、西回廊基壇痕跡、南回廊北縁、中門西縁・南西角、大炊殿根石などが見つかった。 ◈現代、2019年に、京都市文化財保護課による発掘調査で、平安時代前期に建てられた講堂跡の基壇、五重塔とみられる建物跡も初めて見つかった。 講堂跡基壇は高さ1.5mで、「版築」(沈泥のシルト、砂礫を交互に積み上げた)で造成していた。上面の削平はなく、後に礎石を抜いた穴(直径1.5m前後)4つ、礎石周りの石材「唐居敷(からいじき)」、柱の間をつなぐ石材「地覆座(じふくざ)」も見つかった。地覆座には木の焼痕があり、平安時代中期、990年の焼亡に関連するとみられる。 ほかに、平安時代に再建のために据えたとみられる礎石(1.2m)1つ、軒廊(こんろう)跡の盛り土も見つかった。 現代、2019年-2020年の調査により、西寺の講堂は、東寺の1km西に真横に並んでいたことが分かった。柱間数は西寺7間(東西両端3.9m、ほか4.5m)、東寺9間(柱間3.9m)になる。西寺の東西30m、南北17m、基壇は東西39m、南北25mだった。東寺は東西35m、南北16m、基壇は東西42m、南北23mであり、西寺の方が小さい。西寺の須弥壇は東西17m、南北6mであり、東西幅は東寺より7.5m小さかった。従来指摘されていた西寺と東寺は同規模ではなく、西寺講堂の規模は一回り小さいことが確認された。礎石抜き取り跡(直径1.5m)3基も見つかり、空海が途中で設計変更した可能性も出ている。また、礎石と礎石抜き取り跡間には、凝灰岩を2列に並べた地覆座(幅82㎝)、礎石周囲から唐居敷の座(東西1.6m、南北1.2m)も見つかっている。 講堂跡から南西150m(唐橋小学校の西側)では、五重塔などの重い建物を築く際に地盤改良した「地業(じぎょう)」跡12カ所があった。楕円形の穴(直径2m)が見つかっている。 ◈平安時代の官営瓦窯である栗栖野瓦窯(くるすの-がよう)で造られた瓦が、西寺でも使用されている。 ◆地蔵菩薩 西寺にかつて安置されていたという「地蔵菩薩立像」(重文)は、現在は、東寺の宝物殿に遷されている。平安時代初期の作。 ◆コンド山 西寺講堂跡には、土塁(コンド山、3m)が築造されている。山には出土した金堂の礎石3つが土塁上に置かれている。 これらは講堂関連の基壇ではなく、戦前に、松尾大社の御旅所として神輿を練り上げるために盛土された。 ◆松尾祭 松尾大社の祭礼・松尾祭の還幸祭(5月)では、神輿が西寺跡の旭の杜に集合する。粽(ちまき)、赤飯の神饌を供える。これらは、粽講、赤飯座の当屋(とうや)が奉仕する。松尾大橋を渡り、松尾大社に帰幸(還幸祭、おかえりまつり)する。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京都歩きの愉しみ』、『京都府の歴史散歩 中』、『平安の都』『京都大事典』、『古代を考える 平安の都』、『京都市文化財ブックス28集 平安京』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』 、『掘り出された京都』、『京 no.55』、『京都の歴史10 年表・事典』、『京都』、京都市平安京創生館、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、京都大学総合博物館、ウェブサイト「京都新聞2019年10月24日」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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