清閑寺・渋谷越 (京都市東山区) 
Seikan-ji Temple
清閑寺 清閑寺
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左の山道が清水寺から続く「歌の中山」


「歌の中山 清閑寺」碑


歌の中山














本堂












鐘楼


梵鐘


境内から望む京都市内、この谷間に国道一号線が走っている。


小督桜


「大西郷月照王政復古謀議旧跡」の碑 


茶室・郭公亭の跡地




茶室・郭公亭、説明板より


要石、ここより市内を望むことができる。V字谷の奥に市内の景色があり、手前の石は開いた扇の要(かなめ、軸の部分)に見立てられている。 


要石


黒田清輝の「昔がたり」の下絵、説明板より




「清閑寺窯発祥の地」の立て札


小督局、説明板より


小督の供養塔(宝筐印塔)という。






【参照】「六條天皇陵」「高倉天皇陵」の石標


【参照】高倉天皇の後清閑寺陵、歌の中山の途中、清閑寺参道にある。


後清閑寺陵


【参照】後清閑寺陵、覚明水 
 清閑寺(せいかんじ)は、「歌の中山寺」とも呼ばれる。歌の中山とは、清水寺から清閑寺にいたる小径を意味する。近くに渋谷越(しぶたにごえ)も通じている。山号は歌中山という。 
 境内は、谷間に京都市街地を望む。清水音羽山の中腹に位置し、第79代・六条天皇の清閑寺稜、第80代・高倉天皇の後清閑寺陵のすぐ南にあたる。
 新義真言宗智積院の末寺。本尊は千手観音立像。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、802年、比叡山の紹継(しょうけい)法師が開創したともいう。第50代・桓武天皇(在位:781-806)が創建したともいう。(寺伝、『伊呂波字類抄』『山州名跡子』)
 かつて、天台宗延暦寺の寺であり、因幡堂平等寺(下京区)が兼帯していた。その後、荒廃した。
 第66代・一条天皇の時(在位:986-1011)、伊予守・佐伯公行(さえき きみゆき)が鎮護国家のために再興したという。法華三昧堂、法堂などが建てられた。(『伊呂波字類抄』)
 996年、法華三昧を修する寺として、一条天皇の勅願寺になる。(『伊呂波字類抄』『拾芥抄』)
 1000年、勅願寺になる。
 平安時代末、1129年、初めての火災により焼失した。(『百錬抄』)。その後、再建されている。
 小督局(こごう の つぼね、1157-1205以降?)が当寺で出家したという。
 1176年、第79代・六条天皇が寺内の小堂に葬られる。
 1181年、第80代・高倉天皇没後、遺骸はその日のうちに清閑寺に移され葬られた。法華三昧堂が建てられ、堂下に埋葬される。(『高倉院昇霞記』)。以後、皇室ゆかりの寺になる。
 鎌倉時代、山門(比叡山延暦寺)に属した。法華堂、宝塔などが存在した。
 1213年、清水寺の法師が領内に無断で堂宇を建てたことから、比叡山延暦寺と清水寺の本寺・奈良興福寺の間で抗争が起きた。
 室町時代、真言宗に属した子院があった。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で焼亡している。その後、荒廃した。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1614)、紀州・根来(ねごろ)寺の僧・性盛(しょうせい)が復興し、新義真言宗に改宗した。
 江戸時代、平等寺供僧(ぐそう)西之坊の兼帯寺になる。
 1858年、境内にかつてあった茶室「郭公亭(かっこうてい)」で、清水寺成就院住持で尊皇攘夷派の月照(げっしょう)と政治家・軍人・西郷隆盛が密会した。
 1863年、高倉天皇陵、六条天皇陵の修復が行われる。
 現代、1991年、茶室「郭公亭(かっこうてい)」が解体されている。
◆紹継 平安時代の僧・紹継(しょうけい、 ?-?)。詳細不明。802年、清閑寺を開創したともいう。
◆佐伯公行 平安時代の伊予守・佐伯公行( ?-?)。詳細不明。清閑寺を再興したという。
◆六条天皇
 平安時代後期の第79代・六条天皇(ろくじょう てんのう、1164-1176)。順仁(のぶひと)。第78代・二条天皇の第2皇子、母は大蔵大輔伊岐致遠(いきの むねとお)の娘。祖父・後白河上皇(第77代)と父・二条天皇の政争があった。1165年、二条天皇が重病になり、急遽、親王宣下を受け、当日夜に2歳で即位した。後白河上皇が院政を敷き、平清盛が太政大臣になる。後白河上皇は、清盛没後の六条天皇派の策動を恐れ、1168年、5歳で自らの皇子(六条天皇の伯父)・憲仁(のりひと)親王(第80代・高倉天皇)を即位させた。六条天皇は太上(だいじょう)天皇になる。元服以前に称した初例になった。六条天皇は、わずか3年の在位だった。以後、六条上皇は、後白河上皇に養育されている。1176年、藤原邦綱の東山邸(若松亭)で病死する。13歳。
 父・二条天皇(親政派)、祖父・後白河上皇(院政派)の対立の中で、病弱だった六条天皇は歴代天皇の中で最も若く即位し、最も若く退位した。
 陵墓は清閑寺陵(東山区)になる。1863年に陵は修復された。
◆高倉天皇 平安時代後期の第80代・高倉天皇(たかくら てんのう、1161-1181)。憲仁(のりひと)。第77代・後白河天皇の第7皇子、母は平時信(ときのぶ)の娘・尊称皇太后・建春門院滋子(しげこ)。滋子の姉は平清盛の妻・時子。3歳で清盛の娘で関白基実の妻・盛子の猶子になる。1166年、第79代・六条天皇の皇太子になる。1168年、六条天皇の譲位を受けて8歳で即位した。1172年、最盛期の清盛の娘・徳子(建礼門院)を中宮にする。院政を敷く父・後白河法皇と清盛の対立が起こる。1177年、鹿ヶ谷事件が起こる。1178年、徳子が産んだ生後間もない皇子・言仁(ときひと)親王(第81代・安徳天皇)を皇太子にした。1179年、清盛は後白河法皇の院政を止め、法皇を鳥羽殿に幽閉した。(治承三年の政変)。1180年、3歳の第81代・安徳天皇に譲位した。清盛の請により、安芸・厳島神社に上皇初の御幸をする。京都近辺の寺院勢力は反平氏に動き、以仁王、源頼政の挙兵、福原遷都と相次ぐ。平氏政権が揺らぎ始める。1181年、六波羅第の平頼盛邸で亡くなる。詩歌管絃、笛に優れた。
 陵墓は後清閑寺陵(東山区)になる。遺骸は、清閑寺の法華三昧堂の堂下に埋葬される。1863年に修復された。
◆小督局 平安時代末期の女官・小督局(こごう の つぼね、1157-1205∼?)。小督。桜町中納言・藤原成範の娘。美貌と琴の名手として知られた。第80代・高倉天皇中宮・建礼門院徳子(平清盛娘)の侍女になる。平清盛娘婿・冷泉隆房の愛妾で、後に高倉天皇の寵愛を受けた。隆房は自死する。中宮の父・平清盛は怒り、宮中より小督を追放する。呼び戻された小督は、隠し部屋に潜み、1177年、天皇との間に範子内親王を産む。清盛により再び追放され、嵯峨野に隠棲した。清盛は天皇を退位させる。1181年、天皇没後、御陵のある清閑寺に移り、菩提を弔ったという。また、清盛により清閑寺に追放されたともいう。御陵の傍らに墓という宝筐印塔が立つ。
 生涯について真偽は不明。悲哀は『平家物語』巻六、『たまきはる』、能「小督」にも取り上げられている。小督は嵯峨野に隠れ住む。天皇の命を受け探していた北面の武士・源仲国は、琴の音を頼りに居所を尋ねた。小督は天皇のもとへ戻るが、中宮より先に子を宿したとして清盛は清閑寺に送り出家させられる。天皇は憔悴し早世する。
 小督は、清盛に追われ、清閑寺で出家させられたという。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで当寺で亡くなったという。清閑寺の山門を入ったところに小督の供養塔(宝筐印塔)が立つ。謡曲では、高倉天皇は自らの墓を、小督の棲んだ当寺に葬るように遺言したという。現在、高倉天皇陵傍らにも小督局墓と伝えられている墓がある。
◆性盛 室町時代の真言宗の僧・性盛(しょうせい/しょうじょう、1537-1609)。尾張の生まれ。信濃・万徳寺で灌頂をうけ、紀伊・根来寺で玄誉(げんよ)に師事した。東大寺、興福寺、園城寺に学ぶ、慶長年間(1596-1614)に清閑寺を復興した。蓮台寺も復した。1604年、徳川家康の命で長谷寺2世に就く。
◆宗伯 安土・桃山時代-江戸時代の陶工・宗伯(そうはく、?-?)。詳細不明。武蔵川越の生まれという。京都、尾張・瀬戸、備前を往来し、茶入、茶碗などを作った。織田信長の選んだ瀬戸六作のひとり。京焼陶工・野々村仁清の師。清閑寺に窯跡がある。
◆並河天民 江戸時代中期の儒学者・並河天民(なみかわ てんみん、1679-1718)。京都の生まれ。儒学を伊藤仁斎に学び、講学所堀木舎(ほりきのや、中京区)に塾を開いた。医学は名古屋玄医に学ぶ。師・仁斎の学問を批判的に継承し、経世済民の志をもつ。『天民遺言』を著す。墓は清閑寺にある。
◆月照
 江戸時代末期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。俗名は玉井忍向。大坂生まれ。町医・玉井鼎斎の長男。1827年、叔父の清水寺・成就院の蔵海に学ぶ。得度し、1835年、15歳で成就院第24世になり、忍介(忍鎧)と名乗る。清水寺に真言密教子島流を再興した。寺の改革、復興のための資金回収が成功せず、北越へ出奔する。寺の改革が成功せず、1853年、北越へ出奔する。1854年、境外隠居の処分の身になる。和歌で師事した左大臣・近衛忠煕の影響により攘夷に近づく。寺務を弟・信海に譲り、尊攘運動に加わる。1858年、梅田雲浜、頼三樹三郎らと水戸藩に密勅を下すために尽力した。薩摩藩の西郷隆盛、海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。1858-1859年、安政の大獄で幕府に追われ、京都から鹿児島へ逃れた。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、2人を東目(日向)へ追放する。後ろ盾だった斉彬も失い、前途悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。著『落葉塵芬集』など。
 青蓮院宮、近衛忠煕らと交流した。忠煕には和歌を学ぶ。清水寺は近衛家祈願寺であり、近衛家と島津家とは姻戚関係のため薩摩藩士と交流した。さらに尊攘派の朝彦親王(法名・尊融法親王)との関係が深まった。
 清閑寺境内にかつてあった茶室「郭公亭(かっこうてい)」で、政治家・軍人の隆盛と密会していたという。墓は清水寺(東山区)にある。
◆与謝野礼厳 江戸時代末-近代の僧・歌人・与謝野礼厳(よさの れいごん、1823-1898)。丹後国与謝郡生まれ。庄屋格農家・儀右衛門の二男。与謝野寛の父。13歳で加悦の浄福寺に入る。住職礼道の養子となる。1845年、西本願寺学林に入る。国学者・八木立礼と出会い、国学、和歌を学ぶ。若狭高浜・専能寺を経て、1857年、岡崎・本願寺掛所・願成寺に入る。この年、山崎はつ枝と結婚。志士、薩摩藩とも関わる。小学校、療病院設立など社会福祉事業に関わる。1878年、願成寺が順照寺と合併し廃寺になり、1880年、鹿児島へ役僧として赴く。1884年、京都に戻り、一乗寺・北山別院・養源寺に留守居として入る。1894年、高野村に移る。大田垣蓮月、天田愚庵らと交友した。歌集に鉄幹編『礼厳法師歌集』がある。墓は西大谷(東山区)にある。
 礼厳は、1896年、9月、妻を亡くした冬に上高野より清閑寺に移り隠棲している。「年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな」と詠んだ。当寺に歌碑も立つ。
黒田清輝 近代の洋画家・黒田清輝(くろだ せいき、1866-1924)。鹿児島生まれ。鹿児島(薩摩)藩士・黒田清兼の子。1871年、伯父・黒田清綱の養嗣子、1872年より、東京平河町の清綱邸で育つ。築地英学校、外国語学校フランス語科に学び、高橋由一門下の細田季治に鉛筆画を学ぶ。1884年、法律研究を目的にパリに私費留学、山本芳翠を知る。1885年、藤雅三の通訳として外光派の画家ラファエル・コランに接し、1886年、コランに入門、1893年、帰国、1894年、久米と画塾「天真道場」を開設、1896年、美術団体「白馬会」を結成、東京美術学校(東京芸大)西洋画科の初代教授に就任した。1913年、「国民美術協会」創立し会頭、1917年、子爵、1920年、貴族院議員に当選、1922年、帝国美術院長となる。パリのサロンに入選した1890-1891年、「読書」、1895年、「朝妝(ちょうしょう)」(焼失)などの作品がある。
 清閑寺に立ち寄った際に、寺の僧の語った小督の悲哀に触発されて「昔がたり」(1898)を描いたという。その後、絵は焼失し、いまは下絵が寺に残る。
◆請願寺 当寺は、天皇家とのゆかりも深く、1176年に六条天皇、1181年に高倉天皇を寺内に葬った。境内にいまも残る「要(かなめ)石」は、六条院の小堂跡ともいう。
 寺の北の山腹に、六条天皇陵・清閑寺稜、高倉天皇陵・後清閑寺稜がある。
◆仏像 本尊は本堂に、「千手観音立像」が安置されている。平安時代の菅原道真(845-903)が梅木で造ったともいう。
◆建築 かつて境内に建ち並んでいた法華三昧堂、宝塔などはいまはなく、本堂と鐘楼堂のみが残されている。
◆郭公亭 境内にかつてあった茶室「郭公亭(かっこうてい)」は、幕末の1858年、清水寺成就院住持で尊皇攘夷派の月照(げっしょう、1813-1858)が、政治家・軍人の西郷隆盛(1828-1877)と密会した場所として知られていた。近衛家老女・村岡局が居たともいう。
 当時、月照は安政の大獄(1858)で追われ、住房の成就院が危険になったため、ここで都落ちの計画がたてられたという。二人は京都を脱出する。月照は、薩摩の錦江湾に入水、西郷は城山で自害した。
 茶室は1991年に解体されている。
◆文化財 小督愛用とされる「琴」「硯箱」がある。
◆清閑寺焼 清閑寺山ノ内付近に古清水の一つ「清閑寺焼」があったという。伝承として、奈良時代、天平年間(729-749)、行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668-749)による土器製造を起源にするともいう。
 実質的には、江戸時代、当寺の僧・宗伯が開いた窯跡という。宗伯は京焼陶工・野々村仁清の師とされる。江戸時代、寛永年間(1624-1644)以降、この地で色絵陶器が製造された。後に五条坂に移転を命じられた。このため、境内は、清閑寺窯発祥の地、清水・五条坂窯業の発祥地とされる。
◆歌の中山 清水寺より清閑寺へ向かう旧道の小径の途中に、「歌の中山 清閑寺」の石標が立つ。「歌の中山」はこの道の呼称であり、清閑寺の通称にもなっている。「歌の中山」と清閑寺は対で呼ばれていた。
 小径付近は古くより詩歌の諷詠地であり、 平安時代後期の官吏・漢詩人・藤原周光(1079頃-?)に「清閑寺二遊ブ」(『本朝無題詩』巻九)の詩がある。南北朝時代には、春に連歌が興行され、一日千句、二千句が詠まれた。
 謡曲「融」に、「語りも尽くさじ言の葉の、歌の中山清閑寺、今熊野とはあれぞかし」とある。
 かつて清閑寺の住僧・真燕僧都は、夕暮れに門前を通る美しい女人に声を掛けた。「清水寺への道は」と尋ねると、女人は「見るにだに まよふ心のはかなくて まことの道を いかでしるべき」と返歌し、去ったという。(『都名所図会』3) 。僧に、色恋に迷うようでは、仏門精進の道は進めないと諭した。この女人は、観音菩薩の化人だったともいう。
 与謝野礼厳は、妻を亡くした冬に清閑寺に移り住み、次の年の春に詠んだ。「ものいわぬ仏と住めばものいわぬ花もたふとし歌の中山」「年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな」(「礼厳法師歌集」)
◆要石 境内より市内を望むことができる。V字谷の奥に見える市内の景色を開いた扇とし、境内に要石(かなめいし)が置かれている。これは、扇の要に見立てられている。
 小督も宮中の生活を懐かしんでは眺めていたという。
◆清閑寺石 清水山の南に清閑寺山があったという。山は特定はされていない。この付近で盆石に用いられた「清閑寺石」を産出していた。 
昔がたり 近代の洋画家・黒田清輝(1866-1924)は、1893年に清閑寺に立ち寄った。その際に、寺の僧が語った小督の悲哀に触発され、「昔がたり」(1898)を描いたという。
 絵は、『平家物語』中の高倉天皇と小督の悲哀物語を、僧が舞妓、仲居、娘らに語る構図だった。絵「昔がたり」は完成後に焼失した。下絵は寺に残されている。
 なお、黒田は「清閑寺」「清閑寺」などの作品も描いた。
◆渋谷通・苦集滅路 渋谷越(しぶたにごえ)は、五条橋口(六条坊門末)より清閑寺山、阿弥陀ヶ峰の谷を通り山科、東海道に通じていた。現在の五条通(国道1号線)とほぼ同じ道に重なる。旧道は、急坂の難所だった。渋谷は、「しるたに」とも呼ばれ、「滑谷」、「瀋谷」、「汁谷」とも記された。これらは、ぬかるんだ道を形容したという。滑谷については、清閑寺から清水寺奥の院に至る山道も意味したという。
 古くは「苦集滅路(くずめじ)」と呼ばれた。これは、 初期仏教の根本的な教義「苦集滅道(くじゅうめつどう)」に因む。「久久目路(くくめじ)」とも記された。三井寺の教待和尚は、清水寺の行叡居士と親しく、大山崎の別業を訪ねる際に、木履が「苦集滅路」と響いたように聞こえたことから名付けたという。また、東国に左遷される際に、「四諦の法(したいのほう)」を観じたことによるともいう。四つの真理の意であり、苦諦、集諦(じつたい)、滅諦、道諦の総称、苦集滅道をいう。
◆桜楓 桜、紅葉の名所。
◆墓・御陵 境内の東の墓地に、江戸時代の儒医・並河天民(1679-1718)、父・倹斎、一族の墓がある。
 江戸時代の神田如水、北尾芳安、儒者・西依成斎(1702-1797)などの墓もある。
 境内の北近くに高倉天皇陵・小督局の宝篋印塔、六条天皇陵がある。


77 後白河天皇 (在位:1155-1158) →78 二条天皇 (在位:1158-1165) →79 六条天皇 (在位:1165-1168)→ 80 高倉天皇 (在位:1168-1181)→81 安徳天皇(在位:1180-1185)


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都の明治文学』『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』『山科の歴史を歩く』 『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『古都歩きの愉しみ』 『京都の寺社505を歩く 上』 『山科事典』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺清水寺    関連・周辺 六条天皇 清閑寺陵    関連・周辺高倉天皇 後清閑寺陵     関連・周辺花山洞・渋谷越     関連・周辺山王神社      関連・周辺成就院     周辺       関連桂川・嵐山     関連小督(こごう)塚     関連平等寺(因幡堂)     関連法輪寺      関連本願寺北山別院           

【参照】清閑寺稜

【参照】清閑寺稜

【参照】「渋谷街道(渋谷越)」の石標
【参照】渋谷街道(渋谷越)の旧道
平安京オーバレイマップ
清閑寺 〒605-0922 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3  075-561-7292
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