六条天皇 清閑寺陵 (京都市東山区)  
Imperial mausoleum of Emperor Rokujo
六条天皇 清閑寺陵 六条天皇 清閑寺陵
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「六條天皇陵」「高倉天皇陵」の石標


清閑寺稜


清閑寺稜、紅葉
 清閑寺の北東に清閑寺陵(せいかんじ の みささぎ)がある。
 平安時代後期の第79代・六条天皇(ろくじょう てんのう)が葬られている。高倉天皇陵が背後に隣接してある。
◆歴史年表 平安時代後期、1176年、7月17日、六条天皇は藤原邦綱の東山邸(若松亭)で病死した。7月22日、小堂に葬られたという。
 1181年、1月14日条、高倉天皇陵を清閑寺小堂に合葬したという。(『山隗記』)
 室町時代以降、清閑寺が荒廃したため、陵の所在地も不明になる。
 江戸時代、元禄・享保年間(1688-1736)、陵墓は所在不明になる。この地には、高倉天皇陵だけが存在した。
 江戸時代末、上の山神(法華堂)の現在地を後清閑寺陵に治定した。
 1863年、陵は修復されている。
 近代、1895年、10月、勅使参向し、起工奉告祭を行う。修複する
 1896年、陵は竣工した。
◆六条天皇
 平安時代後期の第79代・六条天皇(ろくじょう てんのう、1164-1176)。順仁(のぶひと)。第78代・二条天皇の第2皇子、母は大蔵大輔伊岐致遠(いきの むねとお)の娘。祖父・後白河上皇(第77代)と父・二条天皇の政争があった。1165年、二条天皇が重病になり、急遽、親王宣下を受け、当日夜に2歳で即位した。後白河上皇が院政を敷き、平清盛が太政大臣になる。後白河上皇は、清盛没後の六条天皇派の策動を恐れ、1168年、5歳で自らの皇子(六条天皇の伯父)・憲仁(のりひと)親王(第80代・高倉天皇)を即位させた。六条天皇は太上(だいじょう)天皇になる。元服以前に称した初例になった。六条天皇は、わずか3年の在位だった。以後、六条上皇は、後白河上皇に養育されている。1176年、藤原邦綱の東山邸(若松亭)で病死する。13歳。
 父・二条天皇(親政派)、祖父・後白河上皇(院政派)の対立の中で、病弱だった六条天皇は歴代天皇の中で最も若く即位し、最も若く退位した。
 陵墓は清閑寺陵(東山区)になる。
◆陵墓 六条天皇陵は、高倉天皇陵のさらに上段の山の中腹にある。付近は旧清閑寺境内になる。2つの陵は一帯の兆域を形成する。円丘(直径7m、間口12m、奥行10m)であり、南南西面している。方形の土塀に囲まれ、南中央に唐門がある。門前には長く高い石段が付けられている。
 平安時代後期、1176年、7月17日、六条天皇は藤原邦綱の東山邸(若松亭)で病死した。7月22日、小堂に葬られたという。1181年、1月14日条、高倉天皇陵を清閑寺小堂に合葬したという。(『山隗記』)。以後、記録には高倉院法華堂の記述しかない。室町時代以降、清閑寺が荒廃したため、陵の所在地も不明になる。江戸時代、元禄・享保年間(1688-1736)も、陵は所在不明になる。この地には、高倉天皇陵だけが存在した。なお、高倉天皇陵と六条天皇陵について、両天皇は同じ法華堂に合葬されたともいう。
 江戸時代末、上の山神(法華堂)の現在地を後清閑寺陵に治定した。1863年、陵は修復されている。近代、1895年10月、勅使参向し、起工奉告祭を行う。修複され、1896年に陵は竣工した。


77 後白河天皇 (在位:1155-1158) →78 二条天皇 (在位:1158-1165) →79 六条天皇 (在位:1165-1168)→ 80 高倉天皇 (在位:1168-1180)

*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都市の地名』『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」

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map 六条天皇 清閑寺陵 〒605-0861 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
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