桂川(保津川・大堰川)・嵐山・渡月橋 (京都市右京区)
Katsuragawa River
桂川・嵐山・渡月橋 桂川・嵐山・渡月橋
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嵐山








渡月橋






亀山公園からの眺望


保津渓


ヤマザクラ






奥の山は愛宕山




霞たなびく愛宕山と桂川


渡月橋を巡行する松尾大社女神輿・やまぶき会(9月第一日曜日)


渡月橋の木の欄干には「大堰川」とある。「渡月橋」揮毫は、天龍寺管長による。


保津川


嵐山


渡月橋北詰東にある石標には、この地が三川(桂川、宇治川、保津川)合流点から18km上流地点であることを示している。合流後は淀川となり大阪湾に注ぐ。


葛野大堰と嵐山


渡月橋北詰東にある「琴きき橋跡」


渡月橋北詰から西へ、さらに北へ入ったところにある、謡曲「小督」の旧跡。


渡月橋北詰西にある車折神社嵐山頓宮


いまも地名に残る罧原堤(ふしはらつつみ)、松尾橋付近


北船着場付近にある「法輪寺道昌偉業大堰址」の碑


保津川下り、保津峡付近
 一級河川の桂川 (かつらがわ)は、左京区広河原を源とし、京北から園部、亀岡、嵐山を経て、鴨川を合流させ淀川に注ぐ。流域面積115㎢、流路延長114㎞ある。
 行政上の表記は、全河川が「桂川」に統一されている。ただ、慣例により川の流れる区間により名称が変わる。上流を「大堰川(上桂川、桂川)」、中流部を「保津川」、嵐山渡月橋付近では「大堰川」、それ以南は「桂川」とも使い分けられている。
◆歴史年表 古墳時代、5世紀後半(6世紀とも)、渡来系氏族秦氏により、川の開発が行われている。現在の渡月橋の上流に、「葛野大堰(かどのおおい)」という堰を造ったとみられている。川の水量を管理した大堰は、洪水対策と農業用水確保を兼ね、嵯峨野の開拓を成功させた。下嵯峨から松尾にかけた東岸には、「罧原(ふしはら)堤」が築かれた。以後、川は大堰川と呼ばれるようになったという。(『秦氏本系帳』)。秦氏が日本に渡来したのは5世紀後半、6世紀後半に深草から葛野に移住したとみられている。秦氏は土木灌漑技術を初めとして、さまざまな技術を保持していた。
 飛鳥時代、白鳳年間(645-710)、桂川での筏流しが始まったという。
 平安時代、794年、平安京造営時に、京北の木材を京都に運搬する際に、桂川が利用された。川筋には古代より、いくつかの津、渡しがあり、黒木、薪炭の集散地になった。木材の集散地の梅津では、木屋が建ち賑わった。
 800年、大規模な治水工事の記録がある。(『日本紀略』)。桂川では頻繁に水害が起こり、治水工事が行われた。防葛野川使も置かれ、実検が行われている。
 承和年間(834-848)、広隆寺の僧で秦氏の道昌(どうしょう)は勅願により、大堰川(桂川)の堤防を改修する。架橋(後の法輪寺橋、さらに後の渡月橋)し、船筏の便を開いた。桂、川岡、向日の荒地に水を引き、田畑を開拓した。「行基の再来」として人々に慕われたという。
 836年、道昌は法輪寺橋(法輪橋)を架橋する。橋は現在の渡月橋の上流100mの地点に架かり、「嵐橋」、「大橋」、「御幸橋」とも呼ばれた。
 907年、9月、宇多法皇(第59代)は、大井川に行幸している。
 926年、10月、宇多法皇は、大井川に行幸した。第60代・醍醐天皇も御幸した。皇子・雅明親王は、船上で万歳楽を舞う。
 986年、第66代・一条天皇が舟遊し、流域には別業(別荘)も営まれた。10月、円融法皇(第64代)も詩歌管弦の三船に分乗した舟遊びを催した。平安時代から鵜飼が行われ、『源氏物語』第18帖「松風」巻にも登場する。
 1076年、10月、第72代・白河天皇が嵯峨での鷹狩の帰りに行幸した。川畔に行幸頓宮、梅津には御在所が設けられた。
 1097年、第73代・堀河天皇の春日社行幸の際に、淀川、桂川に浮橋が架けられた。 
 鎌倉時代、後嵯峨上皇(第88代、1220 -1272)は、亀山殿を造営し、吉野の桜を移植した。以来、嵐山は桜の名所になった。
 室町時代、1461年、「寛正の大飢饉(山城大飢饉)」の際に、飢饉、疫病、戦乱により8万2000人もの餓死者が出ている。(『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』)。天龍寺の僧は渡月橋で施餓鬼を行う。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により、渡月橋は焼失した。
 1479年、渡月橋が修復される。
 江戸時代、1606年、角倉了以により川の開削が行われ、6カ月で完成させる。了以は、保津峡入口の保津の浜に番所を設け、高瀬舟から通行料を独占的に徴収し、莫大な利益を上げた。開削により以後、丹波町与木村から淀、大坂までの水運が通じた。園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄え、丹波材や農産物の物流が盛んになる。了以は、自ら石割斧を振るったといわれ、その木像は、川を見下ろす大悲閣にいまも安置されている。この時、渡月橋は100mほど下流の現在地に移され架橋された。
 享保年間(1716-1736)より、嵐山に花見客が訪れるようになったという。
 儒者・皆川淇園(1734-1807)が三船を浮かべて舟遊びをした。
 近代、1889年、京都鉄道会社による京都-園部間の鉄路が開通し、桂川の船便は急速に衰退する。
 1907年、鉄道は国鉄の管轄下に入る。
 明治期(1868-1912)末、1895年とも、観光船が運航する。
 1912年、山陰本線の京都駅-出雲今市(出雲市駅)までが全通した。
 1928年、車折神社の例祭「三船祭」が始まる。
 1932年、渡月橋は洪水により橋の半分が流出した。
 1934年、5月、現在の渡月橋に架け替えられる。
 現代、1948年頃まで、丹波-京都間の水運が確立されていた。
 1951年、世木ダム(南丹市日吉町)の建設により、京北よりの筏流しは途絶する。
 1950年代後半、保津渓内での筏流しは途絶する。
 1989年、旧山陰線は廃止になる。
 1991年、トロッコ列車が運行を始める。
 1994年-2001年、渡月橋の改修工事が行われた。
 2013年、9月、台風18号により、嵐山一帯も大規模な浸水被害になる。
 2015年、渡月橋付近で、桂川の災害復旧工事が行われた。
 2018年、9月、台風21号で渡月橋の東側欄干が倒壊する。
◆道昌 平安時代の僧・道昌(どうしょう、798-875)。讃岐国の生まれ。渡来系氏族秦氏の出身。 828年、空海より両部の潅頂を受ける。836年、広隆寺、隆城寺別当。宮中の仏名会の導師、檀林寺導師。空海の示教に従い、大虚空蔵求聞持(こくうぞう ぐもんじ)法・百日間参篭修行(山中などに篭もり、虚空像菩薩の御真言<まんとら>を百万遍唱えるという行)の満願の日に、自ら虚空蔵尊像を彫り、神護寺での弘法大師供養の後、法輪寺に安置したという。虚空蔵とは大空(宇宙)を意味する。承和年間(834-848)、勅願により大堰川(桂川) の堤防を改修、架橋(後の法輪寺橋、さらに後の渡月橋)し、船筏の便を開いた。桂、川岡、向日の荒地に水を引き、田畑を開拓した。そのため「行基の再来」と人々に慕われたという。
◆小督  平安時代末期の女性・小督(こごう、1157 -?)。小督局。桜町中納言・藤原成範の娘。美貌と琴の名手として知られた。冷泉隆房の愛人で、後に第80代・高倉天皇の寵愛を受けた。小督は、その後も隆房と密通を重ねていたともいう。中宮・建礼門院徳子の父・平清盛により疎んじられ、坊門院範子内親王を産んだ後、出家されられた。隆房の妻も、高倉天皇皇后の建礼門院もまた清盛の娘だった。小督は高倉天皇とも別れなければならなくなる。
 悲哀は『平家物語』巻六、『たまきはる』、能「小督」にも取り上げられている。伝承では、小督は嵯峨野に隠れ住んだ。天皇の命を受け探していた源仲国は、琴の音を頼りに居所を尋ねる。小督は天皇の下に戻るが、逢瀬が知れ出家させられる。
◆角倉了以
 室町時代-江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくら の りょうい、1554-1614)。京都に生まれた。父の吉田宗桂は、家業の医者であり、勘合貿易により薬も扱っていた。了以も家業を行う。1603-1613年、御朱印船(角倉船、800t)貿易によるアジア諸国との交易で巨万の富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削工事により保津峡に船を渡し、亀岡-京都間の木材輸送を拓く。川を通行する舟より通舟料を得て、莫大な利益を得る。幕府の命により、1608年、富士川の疏通を完成させる。同年、天竜川開疏は失敗した。1614年、高瀬川の開疏を完成させている。
 墓は二尊院にある。
◆嵐山 嵐山(382m)は、大堰川右岸をいう。戸無瀬山ともいわれた。また、大堰川(桂川)の渡月橋両岸一帯の地名も指している。
 嵐山の地名由来について、第23代・顕宗天皇の紀(450-487)の「歌荒樔田(うたあらすだ、宇太の樔田の田)」(『日本書紀』)より、「荒樔(あらす)」が「嵐」に転訛し、「荒樔山」が「嵐山」なったともいう。
 また、「荒樔」とは、大井川の急流部の「荒瀬」にあり、大井川が「荒樔川」と呼ばれたことに因むともいう。大井川に流入する有栖川(ありすがわ)の「有栖」も、この「荒樔」に因むともいう。荒樔は「荒子(あらし)」ともされた。
 ほかに、花、紅葉を吹き散らす山の意味ともいう。嵐には崖地の意味があるともいう。藤原公任に「朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき」(『拾遺集』二一〇)がある。以来、嵐山の呼称が生まれたともいう。異説もある。
桂川 桂川(かつらがわ)とは、桂(西京区)の地名に由来しているという。多くの呼称がある。古代には葛野郡を流れていたため「葛野川(河)(かどのがわ)」と呼ばれた。葛野を葛野(かつらの)と読み、「葛(かつら)河」とも書かれた。
 古くは「荒樔(あらす)川」と呼ばれた。嵐山は「荒樔山」とも呼んだ。この荒樔とは、禊の行われる川を意味した。
 嵐山上流を「大堰川(おおいがわ)」、「大井川」と呼んだのは、5世紀後半に、秦氏による葛野大堰が築かれた以降になる。「西河」などとも呼ばれた。
 亀岡市保津町-嵐山の間の「保津川(ほづがわ)」とは、美穂津姫命(みほつひめのみこと)が、丹波に川を開いたという伝承に因むともいう。川は、掘削が繰り返されたことから「堀津川」と呼ばれ、後に保津川になったともいう。亀岡では、千年山(ちとせやま)麓を流れた次期があり「千年川」とも呼ばれた。
 下流を桂川、葛河、梅津付近では「梅津川」とも呼ばれた。
 王朝時代には、川では、斎内親王により畔で禊が行われた。川鮎は天皇に献上され、禁河になっていた。歴代天皇は、度々行幸し、春秋には舟遊びを行っていた。
◆渡月橋  史跡名勝嵐山にある「渡月橋(とげつきょう)」は、大堰川(桂川)に架かる。
 平安時代、承和年間(834-848)に、僧・道昌(798-875)が架橋した。当時は、朱塗りだったという。
 周辺は、鎌倉時代、1255年に第88代・後嵯峨上皇が造営した亀山殿(嵯峨殿)に取り込まれていた。渡月橋もその庭に架かる橋で、現在地よりも上流に架けられていたとみられる。
 渡月橋は、かつては法輪寺橋(法輪橋)と呼ばれたという。川の南にある法輪寺参拝のために設けられた橋だったという。鎌倉時代に、第90代・亀山天皇(1274-1287)が、「くまなき月の渡るに似たり」として、渡月橋と命名したという。
 江戸時代、1606年、角倉了以の保津川開削にともない、100mほど下流の現在地に移されている。
 現在の橋は、1932年に洪水により橋の半分が流出したため、1934年に架けられた。橋脚、橋床は鉄筋コンクリート製、腰板付になる。1994年-2001年の改修工事では、欄干などの木造部分を新調し、鉄筋コンクリートの橋脚に鋼板を巻いて補強した。全長155m、幅員11m。
 また、橋の上流の川底にコンクリート製、橋脚様の「流木止め」という杭7本が設けられている。2013年の台風18号の洪水の際に、周辺の一部冠水はあったが橋が流されることはなかった。これは、上流よりの流木が橋脚間を塞ぎ、橋がダムとなって橋自体を破壊、流出することを防いだとみられている。
◆罧原堤 嵐山-松尾橋に至る桂川の東岸の堤防は、「罧原堤(ふしはら つつみ)」と呼ばれている。名の由来は不明という。堤の上には罧原通があり、周辺に嵯峨罧原町、梅津罧原町の地名も残る。
 5-6世紀、秦氏は桂川の治水と灌漑用水の確保のために、「井堰(小規模のダム)」を築造した。水を堰き止め、水位を高めた上で、一部を「樋口」より「溝」に流し、周辺の農業用水として利用した。
 堤は古く船橋氏の所領であり、その庶流・伏原(ふしはら)氏の姓の由来にもなったという。
◆琴きき橋跡 渡月橋北詰東に「琴きき橋跡」の石標が立つ。
 琴の名手だったという小督(こごう)の弾く調べを、探していた仲国が聞いた橋跡という。仲秋の夜、嵯峨野で、仲国が笛を吹くと、「想夫恋」の美しい調べがかすかに聞こえてくる。音のする処に進むと、粗末な小屋が建っており、小督が隠れ住んでいたという。
 側面に書かれている歌「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の袖」。
◆車折神社嵐山頓宮 
渡月橋北詰西に車折神社嵐山頓宮がある。近代、1934年に建立された。三船際のために使用されている。
 架かる石橋は、「琴聴橋」、「駒留橋」といわれ、仲国が小督の調べを聴くために馬の足を止めた場所ともいう。当初は木橋が架かっていた。その後、三条通の拡張工事に伴い橋が移された。
 長さ、幅ともに3m。橋は「明治十三年(1880)改築」と刻まれている。
◆桜楓 嵐山公園は、1500本の桜の名所、300m続く桜並木として知られる。もとは離宮の庭だった嵐山に、第96代・後醍醐天皇没後、後嵯峨上皇により吉野から移植された桜が始まりだったという。
 江戸時代、享保年間(1716-1736)の頃より、嵐山を花見客が訪れるようになったという。
 また、平安時代より貴人は、嵐山の紅葉を愛でた。
◆筏流し 桂川の筏流しは、飛鳥時代、白鳳年間(645-710)に始まるという。平安時代、794年の平安京造営に際しては、山国庄が御料地になり材木が運ばれた。中世、筏士がおり、大坂城、伏見城築城に関わる。豊臣秀吉は、筏士(宇津、世木、田原、保津、山本)に朱印状を付与した。江戸時代、山方、筏問屋、筏士の分業化が見られる。
 近代以降、大正期(1912-1926)末には、年間3000乗、90万本の材木が運ばれた。1899年、山陰本線(京都-園部)の開通以来、筏流しは次第に衰微する。1951年、世木ダム(南丹市日吉町)の建設により、京北よりの筏流しは途絶した。1950年代後半、保津渓内での筏流しは途絶する。
◆保津川下り 亀岡-嵐山までの川下り(下船)は、400年の歴史がある。16㎞、約1時間半の行程になる。船頭は3人で、「棹さし」、「櫂」、「舵」の役割を順番に担う。
◆鵜飼橋 トロッコ列車の嵯峨観光鉄道の保津峡駅には、京都市が管理する唯一のつり橋「鵜飼橋」が保津川に架かる。1956年に架橋、長さ52m、幅2.2m。
◆貸雪隠 江戸時代、嵐山に観光客相手の「貸雪隠(かしせっちん)」があった。農民が1回3文を取って便所を提供し、大儲けしたという。(『鳩翁道話』)。この話を題材にした落語に「貸雪隠」がある。
 なお、室町時代にはすでに、京都の木戸口に共同の「辻便所」が置かれていた。入洛した宣教師のルイス・フロイスも驚嘆した。
◆源氏物語 『源氏物語』第18帖「松風」巻では、明石上は光源氏との間に姫をもうける。明石入道は、大堰川畔に屋敷を用意し、母子が住めるようにした。やがて姫は、源氏により二条の院に引き取とらせ、紫の上に養育させた。
◆文学 1907年、与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万理ら5人の明星派の詩人は、九州旅行の帰りに京都に立ち寄った。三本木、嵐山に遊ぶ。渡月橋について「いつ見ても嵐山の眺めは此橋の上に限ると思う。」と記している。(『五足の靴』)
 
渡月橋について、夏目漱石(1867-1916)『虞美人草』に「天龍寺の門前を左へ折れれば釈迦堂で右へ曲がれば渡月橋である。京は所の名さへ美しい」とある。
 谷崎潤一郎(1886-1965)『細雪』に、花時の人の出盛りの渡月橋水辺が描かれている。
 立命館大学生・高野悦子(たかの えつこ、1949-1969)は、1968年 4月12日、嵐山の渡月橋のあたりを散策した。(『二十歳の原点序章』)
◆映画 映画「白菊物語」(監督・帰山教正、1920年、映画芸術協会)では嵐山、現代劇映画「美しさと哀しみと」(監督・篠田正浩、1965年、松竹大船)では嵐山、渡月橋での撮影が行われた。
 渡月橋は、現代劇映画「悪名」(監督・田中徳三、1961年、大映京都)では、朝吉(勝新太郎)と琴糸(水谷良重)の別れの場面になる。現代劇映画「レッツゴー!若大将」(監督・岩内克己、1967年、東宝)では、橋で香港の女優・陳曼玲が着物姿になる。現代劇映画「愉快な極道」(監督・山下耕作、1976年、東映京都)では、元極道のタクシー運転手(若山富三郎)が橋を渡る。現代劇映画「華の乱」(監督・深作欣二、1988年、東映)では、与謝野鉄幹(緒方拳)が橋の袂で選挙活動をする。
 保津川下りは現代劇映画「この胸のときめきを」(監督・和泉聖次、1988年、東映)、保津峡駅は現代劇映画「姉妹坂」(監督・大林宣彦、1985年、東映)、現代劇映画「蒲田行進曲」(監督・深作欣二、1982年、松竹、角川春樹事務所)の舞台になる。ヤス(平田満)と小夏(松坂慶子)は九州の小駅に里帰りする設定になった。落合では、時代劇映画「柳生武芸伝帳 片目の忍者」(監督・松村昌治、1963年、東映)の撮影が行われた。
 嵯峨嵐山駅は、現代劇映画「悪名一代」(監督・安田公義、1967年、大映京都)で山陰の駅として登場する。現代劇映画「雁の寺」(監督・川島雄三、1962年、大映京都)には嵐山駅が使われた。
◆年間行事 三船祭(5月第3日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京都大事典』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』『洛西探訪』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『昭和京都名所図会 4 洛西』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『シネマの京都をたどる』『日本映画と京都』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都はじまり物語』『歴史とロマンの川編 保津川・桂川』、サイト「高野悦子『二十歳の原点』案内」『京都を歩く 50 嵐山2』


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渡月橋北詰 京都市右京区嵯峨天龍寺造路町周辺
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