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花山洞・渋谷越 (京都市山科区) Kazan-do(tunnel) |
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花山洞・渋谷越 | 花山洞・渋谷越 |
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![]() ![]() 「花山洞」の石額 ![]() 「方机適川/方軌通門」の石額 ![]() トンネル内 ![]() トンネル内 ![]() レンガ ![]() ![]() 旧渋谷越 ![]() 東山トンネル(国道1号線東行)、花山洞のすぐ南に並走している。 ![]() 渋谷街道(渋谷越)路傍の地蔵尊 ![]() 【参照】「渋谷街道(渋谷越)」の石標、国道1号線沿 |
現在の国道1号線(京都府道116号線)、東山トンネル(長さ259m)の北に並行して渋谷隧道(しぶたに-ずいどう)がある。渋谷トンネルとも呼ばれた。花山洞(かざんどう/はなやまどう)の呼称もあった。「火山洞」の表記もあったという。現在は歩行者・自転車専用道になっている。 この地にはかつて、渋谷越(しぶたにごえ、渋谷峠、渋谷街道)が通じていた。坂の難所であり、水捌けも悪いため、後に隧道(トンネル)が開削された。 ◆歴史年表 江戸時代、1811年、渋谷越で大規模な改修工事が行われている。資金は郷民の寄付により、道幅を広げ、下水堀も付けられた。 近代、1899年、2月18日、京都府会に渋谷街道の改修計画が提出された。1900年の予算化が可決される。 1902年、4月3日、渋谷隧道の開削工事が始まる。 1903年、4月28日、渋谷隧道(花山洞)が完成した。5月19日/5月22日、開通式が執り行われた。(「京都日出新聞」) 1923年、渋谷街道で大規模な改修工事が行われている。 現代、1967年、4月1日、五条バイパス(渋谷街道 - 東大路間)が開通し、花山洞は人道化された。 2000年、山科側の坑門補修が行われた。 ◆隧道 渋谷隧道(花山洞)工事は、京都府により、近代、1902年4月3日-1903年4月28日間で行われている。施工業者は、岡崎町の大西土木合資会社による。 それまでの渋谷峠から34尺(10.3m)掘り下げた。隧道にはレンガを積み、隧道内には漏水落下を防ぐために亜鉛の屋根を葺いた。 1967年4月1日に、花山洞の南に国道1号東山隧道(五条バイパス、渋谷街道-東大路間)が開通した。花山洞は自動車専用道路である東山隧道の歩道に転用された。 延長141.0m、幅員4.0m、高さ4.0m、東坑門は土木学会の近代土木遺産(形式は素掘?、Cランク、煉瓦ポータル)に指定している。 ◆扁額 隧道の東側に「花山洞」の石額、西側には「方机適川」が掲げられている。「方軌通門」ともいう。 ◆渋谷越・苦集滅路 「渋谷越(しぶたにごえ)」は、五条橋口(六条坊門末)より清閑寺山、阿弥陀ヶ峰の谷を通り山科、東海道に通じていた。現在の五条通(国道1号線)とほぼ同じ道になる。旧道は、急坂の難所だった。 渋谷は、「しるたに」とも呼ばれ、「滑谷」、「瀋谷」、「汁谷」とも記された。これらは、ぬかるんだ道を形容したという。滑谷については、清閑寺から清水寺奥の院に至る山道も意味したという。 古くは「苦集滅路(くずめじ)」と呼ばれた。これは、 初期仏教の根本的な教義「苦集滅道(くじゅうめつどう)」に因む。「久久目路(くくめじ)」とも記された。三井寺の教待和尚は、清水寺の行叡居士と親しく、大山崎の別業を訪ねる際に、木履が「苦集滅路」と響いたように聞こえたことから名付けたという。 また、東国に左遷される際に、「四諦の法(したいのほう)」を観じたことによるともいう。四つの真理の意であり、苦諦、集諦(じつたい)、滅諦、道諦の総称、苦集滅道をいう。 ◆小野寺 江戸時代、東山・渋谷街道(しぶたにかいどう、渋谷越、苦集滅道[くずめち] )に、小町寺という小野小町ゆかりの寺があった。平安時代からあったともいう。 江戸時代には、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第42番札所になり、札所本尊は玉章地蔵とされた。 近代、1875年、廃寺になり、本尊の玉章地蔵、烏石葛辰(うせき-かつしん)筆の扁額「小野寺」、小町像、井筒などが東福寺の退耕庵に遷されたという。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『山科事典』、『京都山科 東西南北』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、ウェブサイト「土木学会」、ウェブサイト「廃線隧道BLOG版」、ウェブサイト「レファレンス協同データベース」、『京都の歴史10 年表・事典』 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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