平等寺 (因幡薬師) (京都市下京区) 
Byodo-ji Temple
平等寺 平等寺
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南門


本堂


本堂


本堂


本堂












賓頭盧(びんづる)尊者



鬼瓦、菊の周りを橘が巻く寺紋



鬼瓦、130年前のものという。経の巻き。



観音堂、弘法大師、毘沙門天、如意輪観音、十一面観音、神変大菩薩(役行者)、不動明王を祀る。



観音堂



歓喜天、大聖歓喜天(聖天)を祀る。 



歓喜天
 平等寺(びょうどうじ)は、因幡薬師(いなばやくし)、因幡堂ともいわれている。山号は福聚山という。「がん封じの寺」としても知られている。 
 真言宗智山派。本尊の薬師如来は「三国伝来の日本三如来」(ほかに嵯峨・釈迦堂の釈迦如来、信濃・善光寺の阿弥陀如来)の一つに数えられる。
 観音堂の十一面観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第27番札所。因幡薬師は、京都十二薬師霊場第1番札所。薬師如来(七七日)は、京都十三仏霊場めぐりの第7番札所。大黒天(因幡大黒天)は、京都六大黒天霊場(京の大黒さんめぐり)の5番。
 病気平癒、がん封じ、縁結び、子授けなどの信仰がある。子授け地蔵は、美しい子供授かりの信仰がある。勝運成就大黒天は勝運祈願の信仰がある。
歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、997年、因幡国司・橘行平が因幡賀留津の海中より薬師仏を引き上げ、仮堂に安置したのが始まりという。
 1003年、橘行平は、私邸(高辻烏丸南東方一町)の一部を改修し、薬師仏を安置し仏寺とした。行平の孫・光朝(橘則光の子)が初代の寺務になったという。(『因幡堂縁起』『山城名勝志』)
 第66代・一条天皇(在位986-1011)は、8支院を建立し勅願所とした。以後、歴代天皇は即位ごとに「薬師詣」を行い、勅使による御月参も行われた。
 1097年、焼失した。(『中右記』)
 1103年、焼失している。(『本朝世紀』)
 1108年、焼失する。(『中右記』)
 1143年、焼失している。(『百錬抄』)
 1153年、焼失した。(『百錬抄』)
 1159年、焼失した。(『百錬抄』)
 1161年、後白河上皇(第77代)の行幸がある。
 1171年、第80代・高倉天皇の勅命により平等寺と命名された。歴代の天皇も厄年には勅使を派遣し、祈祷を受けたという。(『因幡堂縁起』『山城名勝志』)
 1177年、焼失している。(『山槐記』)
 鎌倉時代、1246年、焼失している。
 1249年、焼失している。(『百錬抄』)
 1284年頃、時宗開祖・一遍(1239-1289)も住したという。
 南北朝時代、1391年、焼失している。(『南方伝記』)
 室町時代、足利将軍家の参籠が相次いだという。
 応永年間(1394-1428)、天台宗に属した。 
 1418年以前、天台宗寺門派総本山(三井寺)末寺から、寺門派大本山聖護院の末寺になったという。
 1418年、園城寺(三井寺)僧兵襲撃に備え、住民、侍所の軍が因幡堂を警護する。(『康富記』)
 1424年、室町幕府5代将軍・足利義量が参籠する。(『満済准后日記』)
 1434年、焼失している。(『看聞日記』)
 応仁・文明の乱(1467-1477)後、自治組織、町堂のひとつとして機能した。
 1527年、公卿・歌人の鷲尾隆康が参詣する。(『二水記』)
 江戸時代、広大な境内を有し、周辺4町にまたがっていたという。
 江戸時代中期頃まで、天台宗と真言宗が兼学となっていたとみられている。
 1864年、蛤御門の変で焼失した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃した。
 1886年、現在の建物が再建された。 
 現代、2012年、平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活する。
◆橘行平 平安時代中期の官人・橘行平(たちばな の ゆきひら、生没年不詳)。大納言・橘好古(たちばな の よしふる)の孫、橘敏政の子、第30代・敏達天皇の子孫という。従四位中納言。1005年、因幡国守、因幡守となる。1005年、因幡国の不動穀(律令制下、令制国の不動倉に保管された稲穀)について、前国司・藤原惟憲と争いを起こした。1007年、国衙官人、農民により苛政を訴えられる。豪族・因幡千里(因幡千兼とも)殺害に関与し、因幡守を解任されたともいわれている。
◆高倉天皇 平安時代末期の第80代・高倉天皇(たかくら てんのう、1161-1181)。父は第77代・後白河天皇、母は建春門院滋子。母の姉は平清盛の妻・時子で、清盛の娘で関白基実の妻・盛子の猶子となる。1168年、即位し、1172年、清盛の娘・徳子(建礼門院)を中宮に迎えた。清盛と後白河法皇との対立により、1179年、清盛は法皇を幽閉し軍事政権に移行した。高倉天皇は1180年、譲位し、翌年に亡くなった。
 詩歌管絃に優れ、笛に秀でた。因幡堂南の東五条院に住んだ。なお、因幡堂南の通りを「不明門(あけず)通」というのも、御所に配慮して南門を開けなかったためともいう。天皇は、平等寺と命名し、勅額を贈っている。寺には、天皇が寵愛したという小督局の遺品が伝えられている。
◆小督局 平安時代末期の女官・小督局(こごう の つぼね、1157-1205以降?)。小督。桜町中納言・藤原成範の娘。美貌と琴の名手として知られた。第80代・高倉天皇中宮・建礼門院徳子(平清盛娘)の侍女となる。平清盛娘婿・冷泉隆房の愛妾で、後に高倉天皇の寵愛を受けた。隆房は自死する。中宮の父・平清盛は怒り、宮中より小督を追放する。呼び戻された小督は、隠し部屋に潜み、1177年、天皇との間に範子内親王を産む。清盛により再び追放され、嵯峨野に隠棲した。清盛は天皇を退位させる。1181年、天皇没後、御陵のある清閑寺に移り、菩提を弔ったという。また、清盛により清閑寺に追放されたともいう。御陵の傍らに墓という宝筐印塔が立つ。
 悲哀は『平家物語』巻六、『たまきはる』、能「小督」にも取り上げられている。小督は嵯峨野に隠れ住む。天皇の命を受け探していた北面の武士・源仲国は、琴の音を頼りに居所を尋ねた。小督は天皇のもとへ戻るが、中宮より先に子を宿したとして清盛は清閑寺に送り出家させられる。天皇は憔悴し早世する。
◆仏像 本尊「薬師如来立像(因幡薬師)」(162㎝)(重文)は、平安時代の仏師・康尚作という。インド伝来の伝承もあり、「三国伝来の日本三如来」(ほかに、嵯峨・清凉寺の釈迦如来、信濃・前光寺の阿弥陀如来)のひとつとされている。厨子内にあり、左手に薬壺を持つ。頭部には頭巾が被せてある。頭巾で厨子上部と仏像の頭の間を固定し保護している。戦乱などで仏像を避難する際には、厨子を閉じて後面へ倒す。厨子の背面には4つの滑車があり、これを牽いて移動した。寺伝では、宋で模刻させ持ち帰ったという。赤色栴檀に刻まれ、祇園精舎49院の療病院の本尊だったという。かつて、因幡の豪族・因幡氏氏寺の薬師寺に安置されていたものともいう。度重なる火災も免れている。室町時代には七仏薬師、江戸時代には名薬師に数えられた。長徳-長保年間(995-1004)の様式がある。木造、一木造、漆箔。収蔵庫に安置、非公開。
 「釈迦如来立像」(76.7㎝)(重文)は、鎌倉時代、1213年作になる。清凉寺の釈迦如来立像を摸刻した清凉寺式になる。足臍に像造年の銘が残る。木造、彩色、粉溜、玉眼。収蔵庫に安置、非公開。
 「如意輪観音坐像」(81.2㎝)(重文)は鎌倉時代作になる。木造、古色、玉眼。収蔵庫に安置、非公開。
 インドから百済を経て渡来したという「善光寺阿弥陀如来」がある。
 本堂外陣潜り右脇に「弘法大師」、「地蔵菩薩」、外陣潜り左脇に「弁財天」、「毘沙門天」。
 「大黒天坐像」(27㎝)は江戸時代作。正式には「忿怒形三面六臂(ふんぬけい さんめんろっぴ)大黒天」という。忿怒形相の顔を3つ持ち、眉間の間にも縦に眼があり3つの眼がある。口には2本の牙が生え、腕は6本ある。象の皮を背負う。軍神の様を残し、勝運成就の信仰を集めた。日本にはほかに、1例しか現存していないという。京都六大黒天霊場(京の大黒さんめぐり)の5番。木造、彩色。
 「十一面観音菩薩」は、観音堂に安置されている。かつて北野天満宮にあり、東寺の観智院を経て観音堂本尊として遷された。2体あるという。洛陽三十三観音巡礼第27番札所の札所本尊。
 「十二神将」は、鎌倉時代、室町時代作。
◆伝承 本尊の薬師如来立像(因幡薬師)にまつわる伝承がある。
 平安時代、997年(951年とも、959年とも)、因幡国司・橘行平はその任を終え帰国の途中、病になる。また、959年、第62代・村上天皇の勅命により一宮に参詣し、病になったともいう。
 神仏に祈願すると、異形の僧(老僧)の夢告があった。因幡の賀留津(かるつ、鳥取市賀露・鳥取港付近、賀留浦<かるほ>とも)に浮き木があり、衆生済度のため、仏の国(天竺祇園精舎の療病院)から来たという。この浮き木を集めて供養すれば病が治り、あらゆる願が成就するという。その地に行くと、安太夫(やすだゆう)という老翁がおり、海中に夜、霊光があり40数年を経た。人々(諸魚)は恐れて住まず、荒村になったという。
 大網で海底を探ると、浮き木と見えたのは五尺余り(165㎝)の阿弥陀如来像であり、これを引き揚げた。行平は浦に草堂を建て仏像を安置すると、その病は完治したという。
 行平は京都に帰った。人々は堂に、豆葉が茂っていたため豆葉寺と呼んだ。後に薬師如来が京都に飛び去り、光台座のみが残された。その後、座光寺(座光院、因州高島郡大字菖蒲浦)と改めたという。
 1003年、行平の夢告に再び異形の僧が現れ、西の天より、東の国の人々の救済に来たという。また、行平が因幡を去ってすでに40数年を経ており、薬師如来を迎えるとして今日に至ったものという。
 夜明けに夢から覚めると、西門に尋ねる人がある。因州よりの僧という。門を開けると薬師如来が立っている。また、薬師如来は行平邸に飛来したともいう。薬師如来は台座を残して飛来したため、行平は、代用として尊像を碁盤の上に載せて祀ったという。屋敷を改造し堂を建て、因幡堂と呼んだという。
 また、薬師如来はかつて、因幡の豪族・因幡氏氏寺の薬師寺に祀られており、行平が因幡千里(因幡千兼とも)殺害後、京都へ持ち去ったものともいう。
 薬師如来像は清凉寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来とともに三国伝来の三如来といわれた。
 (『阿婆縛抄』『因幡堂縁起』(『山城名勝志』中の『因幡堂縁起』、『山州名籍志』など)。
◆建築 本堂は、1864年、蛤御門の変で焼失した。その後、平等寺西之坊を仮本堂とした。1882年より再建が始まり、1886年に、現在の本堂、そのほかの堂宇も完成した。
◆町堂 中世、因幡堂は「市のお堂」と呼ばれ、市が催され賑わった。町の人々の生活文化の拠点、自治活動の場としての町堂とし機能していた。京都の町堂としてはほかに、頂法寺(六角堂) 、行願寺(革堂)がある。
 室町時代の1418年以前、天台宗寺門派総本山(三井寺)末寺から、寺門派大本山聖護院の末寺に改宗したという。この時、園城寺宗徒による因幡堂襲撃に備え、周辺の町人による昼夜の警護が続いたという。
 幕末、新選組の隊士が壬生屯所より訪れ、境内の見世物小屋見物をしたという。新選組初代筆頭局長・芹沢鴨(1827? -1863)は、獅子に吠えられ、志士より怖いと洒落たという。
◆狂言 因幡堂では、室町時代より町堂として機能し、能、猿楽などの芸能が演じられてきた。足利3代将軍・足利義満(1358-1408)臨席で、世阿弥(1363-1443)も演じたともみられている。
 大蔵流狂言と関わりが深かったという。大蔵流は、猿楽の本流・大和猿楽系の狂言を伝え、室町時代後期の金春座を勤めた大蔵弥右衛門家が創流した。京都には茂山千五郎家がある。
 狂言「因幡堂」の舞台になっている。寺名が題名になるのは極めて珍しいという。夫は、大酒飲みの妻と別れて、新妻を迎えることを薬師如来に願かける。それを知った妻は、仏のお告げであるかのように装い、寝入った夫に、因幡堂西門に立った女を妻にするようにと告げ、頬かむりして自らが立つ。三々九度の盃を交わす段になり、嫁は幾度も好きな酒を飲む。夫が不審に思い嫁の被り物を取ると、別れたはずの妻が現れ、逃げる夫を追い回す。
 狂言「鬼瓦」では、訴訟がかなった地方大名と太郎冠者が、帰郷に際して因幡薬師に参詣する。大名は、屋根の鬼瓦を見て故郷の妻の顔を思い出す。実物を見ないで見事に作ってあると泣き出すが、太郎冠者がすぐに逢えるというと二人で大笑いになる。
 謡曲の「鬼瓦」「仏師」「六地蔵」「金津(かなづ)(金津地蔵)」などの題材になっている。
◆新撰組 1863年頃の一カ月、境内で虎の見世物が出されたという。
 新撰組の芹沢鴨ら数人が、人が入った縫い包みか本物の虎かどうかを確かめに来た。芹沢が脇差を抜くと吼えたため本物と認めたという。
 また、新撰組の美男剣士・佐々木愛次郎とあぐりが出遭った場所ともいう。真偽は不明。
◆京都十二薬師霊場会 平安時代より薬師詣りが盛んになる。12寺の薬師仏に参詣した。江戸時代の『薬師霊場記』にも記されている。
 霊場の呼び名、札所は時々で変化した。江戸時代、天明年間(1781-1788)、現在の12寺になったという。薬師十二所参り、都十二薬師、洛陽十二薬師などと呼ばれていた。
 その後、廃絶する。2012年、京都十二薬師霊場会として復活した。一日で巡れる霊場の一つになる。
◆京都十三仏霊場めぐり 薬師如来(七七日)は、京都十三仏霊場めぐりの第7番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦(あしゅく)如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆向こうの見える石 祈願の際に、「向こうの見える石」という石に穴を開けたものを用いる。これに住所氏名などを書いて奉納し願掛けをする。目の見えない人は見えるように、耳の聴こえない人は聴こえるようになるとされる。
◆文化財 平安時代の小督局(こごうのつぼね、1157-?)愛用という琴、硯箱、毛髪織込み「光明真言(不空大灌頂光真言)」が伝えられている。因幡堂の住職が、清閑寺の住職も兼務した際に移されたものともいう。
 本堂の「因幡堂」の扁額は、三条実美(さんじょう さねとみ、1837-1891)筆になる。
 本堂の須弥檀裏壁画に日本画家・鈴木松年(すずき しょうねん、1848-1918)筆の「仁王像」が描かれている。1886年に描かれた。
◆年間行事 星供養(厄除け、病難除けのお守り、瓢箪の身代り御守の授与がある。)(2月節分)、本尊開帳(8月8日)。
 縁日(毎月8日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 「因幡堂縁起」『京都・山城寺院神社大事典』『新選組大事典』『京都の仏像』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『女たちの京都』『京都大事典』『京都 歴史案内』『京都の寺社505を歩く 上』『平成28年第52回 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『京都の地名 検証2』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京の寺 不思議見聞録』『京都のご利益めぐり』『京都のご利益手帖』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京の福神めぐり』
 
 
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地蔵堂、地蔵菩薩を祀る。

地蔵菩薩
平等寺(因幡堂) 〒600-8415 京都市下京区因幡堂町728,松原烏丸東入る北側  075-351-7724  6:00-17:00
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