花の御所(室町第・室町殿) (京都市上京区)
Hana no Gosho(Flower Palace)
花の御所(室町第 花の御所(室町第)
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【参照】「従是東北 足利将軍室町第跡」の碑、上京区室町通今出川東北角


【参照】「御所八幡宮」の石標(上御霊神社境内)。
 花の御所には鎮守社として源氏の氏神である八幡神が勧請された。かつて御所八幡町(烏丸通上立売下ル)付近にあったとみられている。

 室町通今出川東北角に石標「従是東北足利将軍室町第趾(これよりきた あしかがしようぐん むろまちてい あと)」が立てられている。室町時代に、この地には足利将軍家の邸宅「花の御所」があった。邸内の庭園には、四季折々の花が咲き乱れ名前の由来になった。
 「室町第(むろまちてい)」、「室町殿(むろまちどの)」、「室町御所(御所)」とも呼ばれた。この「室町」は、室町幕府、室町時代の呼称由来にもなる。なお、平安京には室町小路という通名があった。
◆歴史年表 南北朝時代、北小路室町のこの地には、公家・室町(四辻)季顕(1353-?)の邸宅があった。
 室町幕府第2代将軍・足利義詮(1330-1367)が別荘「上山荘(かみさんそう)」を建てる。
 1367年以降、義詮没後、北朝第3代・崇光上皇(すこう じょうこう、1334-1398)に寄進され、御所が建てられた。
 1377年、御所は焼失した。3代・義満は、焼失した菊亭(今出川)公直を追い出し、屋敷地と合わせて、跡地に菊亭(きくてい)家の邸(今出川殿)を建てる。義満が移った。
 1378年-1431年、義満が造営した。4代・義持は御所を三条御所にする。5代・義量の時も含まれるともいう。(範囲は北は上立売通・西は室町通・東は烏丸通・南は今出川通? 、東西1町・南北2町・5町? )〔第1期〕
 1378年、義満は室町頭(むろまちがしら)界隈(北は寺之内通 、西は室町通、東は烏丸通、南は今出川通)に新邸宅の室町第を造営した。3月10日、義満が移る。室町幕府は三条御所(三条坊門殿、三条坊門万里小路[中京区] )より移る。
 1379年、義満は、この地の「北の花亭」と呼ばれた邸宅に移る。今出川殿と合わせて「花の御所」と呼ばれた。
 1381年、落慶法要が営まれた。北朝第5代・後円融天皇が行幸し、6日間の遊興が行われる。
 室町時代、1395年、北朝第6代・第100代・後小松天皇が行幸した。
 1398年、義満は御所を北山殿(鹿苑寺)に移し、室町殿(上御所)は子・義持に譲る。
 1406年、幕府は山城国中に上納金を課し、室町第の修理費用に充てた。
 1409年、義満没後、義持は御所を三条坊門殿(下御所)に移した。父子の確執によるとされる。
 1429年、6代・義教が花の御所御会所と御会所泉殿を増築し、青蓮院の石を花の御所に運ぶ。
 1431年-1443年、義教が再築した。範囲は第1期と同じとみられる。(上立売通・室町通・烏丸通・今出川通? 、東西1町・南北2町.5町? →東西1町・南北2町以下? )〔第2期〕
 1431年、義教は、父・義満を慕っていたことから、室町殿(上御所)に再び戻した。
 1437年、第102代・後花園天皇が行幸した。
 1443年、南朝残存勢力による京都御所の焼打ちで、後花園天皇は一時、避難する。
 1449年、8代・義政は、周囲に慰留され室町殿(上御所)に留まる。御所は一応機能していた。その後、荒廃する。
 1459年-1476年、義政は、北小路新第(室町殿、室町新邸)に移る。(上立売通・室町通・烏丸通・今出川通の一筋北の通? 、東西1町・南北2町以下? )〔第3期〕
 1459年、北小路新第に移る。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により、西軍が室町第を攻撃した。
 1474年、義政は室町第を9代・義尚に譲り、今出川の小川御所に移る。
 1476年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。近くの土倉・酒屋が放火され、室町第も全焼した。近接する禁裏、公家、武家、門跡寺院の多くも罹災した。
 1479年-1481年、焼失後の再建が計画される。その後、焼失を挟み中止された。(上立売通・室町通・烏丸通・今出川通の一筋北の通り? 、東西1町・南北1.5町)→(上立売通・室町通・烏丸通・五辻通、東西1町・南北1町)〔第4期〕
 1479年、再建される。管領を惣奉行とし、諸国に上納金を課して造営費とし、寝殿を建てた。
 1480年、再び類焼失した。
 1481年、周囲に築地を築く。
 1485年、8月、上京の土一揆1000人が花御所跡に集結した。(『蔭涼軒日録』)
 1488年、焼跡が夜盗の集会する処となる。数年後に、付近に庶民の家も建てられた。
 1542年-1548年、12代・義晴は今出川御所を旧地(北小路室町)に再建した。13代・義輝も利用した。(上立売通・室町通・烏丸通・五辻通、東西1町・南北1町)〔第5期〕 
 現代、2002年、同志社大学の大学会館敷地内(上京区上立売通烏丸角)から16世紀(1501-1600)前半の室町殿とみられる遺構(北東角の鬼門を守る祠の基礎)が発掘された。
◆足利義満 南北朝時代-室町時代の室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ、1358-1408)。2代将軍・義詮の子。 母・紀良子は石清水八幡宮検校善法寺通信の娘、順徳天皇の玄孫に当たる。1366年、後光厳院より義満の名を賜り改名した。従五位下に叙する。1367年、10歳で将軍職を継ぎ、朝廷内で権力を振い、天皇祭祀の形骸化を謀る。地方の有力守護大名を弾圧し権力を掌握、公武権力共に手にする。1377年より、「花の御所」の築造を始める。夫人・日野素子が女児を産む。その後、亡くす。1378年、室町の「花の御所」に幕府を移す。権大納言に任ず。従二位。1380年、従五位。1381年、内大臣。1382年、左大臣、相国寺を建てた。1383年、源氏長者になる。奨学院、淳和院別当。准三后の宣下を受けた。1384年、右大臣を辞す。1390年、土岐康行の乱により土岐を滅ぼす。1391年、明徳の乱で幕府への反乱を撃破する。1392年、勢力の衰えた南朝を吸収し南北朝を合一、全国統一した。相国寺を建立している。1394年、義持に将軍職を譲り隠居する。実際には太政大臣として政治上の実権を握り続ける。義教誕生。1395年、出家して東大寺で受戒。道義と号した。1398年、北山第を立柱、1399年、大内義弘の謀反を鎮圧した。1401年、北山文化が盛んになり、明の倭寇取締。1402年、明の使僧を北山第に引見する。1404年より、明との勘合貿易を再開した。明帝より「日本国王源道義」の詔書を受け取る。 北山に大塔建立を計画する。1405年、日野業子が亡くなる。1407年、日野康子を北朝第6代・第100代・後小松天皇の准母となす。1408年、北山第に後小松天皇を迎え、子・義嗣を親王とした。自らの上皇位を目前に急死した。病死とも、暗殺ともされる。
 自らの上皇位を目前に急死した。臨川院の位牌には「鹿苑院太上法皇」、相国寺過去帳には「鹿苑院太上天皇」と記されている。義満の、君主の地位を奪取する皇位簒奪(こういさんだつ)とする見方もある。没後、朝廷は「太上天皇」の称号を贈る。だが、幕臣会議で辞退となり一日太上天皇に終わる。
◆足利義教 室町時代の室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり、1441-1394)。父は室町幕府3代将軍・義満、母は三宝院坊官安芸法眼の娘・慶子。義持の同母弟。1403年、青蓮院に入室した。1408年、得度して義円と称した。1411年、受戒、大僧正に上り准后の宣下を受ける。1419年-1421年、天台座主になる。1428年、義持が嗣子なく急死し、遺言による後継指名で義持が拒否したため、石清水八幡宮の宝前で、くじにより義円が後嗣と決定した。還俗して義宣と名乗った。従五位下左馬頭に叙任した。1428年、北畠満雅の蜂起を鎮圧し、第101代・称光天皇没後、伏見宮貞成の子を迎えて、第102代・後花園天皇に擁立するなど幕権の威を示した。1429年、元服し、将軍宣下を受けた。1432年、左大臣、淳和・奨学両院別当を兼ね、源氏長者に補された。1435年、山門を弾圧した。1438年、関東公方足利持氏の挙兵(永享の乱)に際して鎮圧した。守護家の家督にも積極的に介入する。専制は「万人恐怖」と恐れられた。1440年、一色義貫、土岐持頼を暗殺、1441年、畠山持国を追放。赤松満祐により自邸に招かれ、宴席中に斬殺された。(嘉吉の変)。
 以後、将軍の権力は失墜し、細川、山名氏ら守護台頭の契機になる。
◆足利義政 室町時代の室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ、1436-1490)。父は義教、母は裏松重光の娘・重子。1441年、父の暗殺後、兄・義勝の早世により、9歳で家督を継ぎ、1449年、14歳で8代将軍に就いた。1453年、従一位権大納言になり義政と改めた。1455年、正室となった日野富子との間に嫡子はなく、1464年、弟・義視(よしみ、義尋)を後継者とする。1465年、実子・義尚の誕生により、将軍職を巡る抗争になった。義政側の山名宗全と、義視側についた細川勝元、さらに管領家の斯波、畠山氏、諸大名を巻き込んだ応仁・文明の乱(1467-1477)になった。1473年、義政は実権を8歳の子・義尚に譲り隠棲 した。1482年以来、東山に山荘(銀閣寺)を造営した。1485年、出家し喜山道慶と名乗る。1489年、後継者の義尚は24歳で早逝する。翌年、義政も急逝した。学問、芸術、和歌などに優れた。
◆足利義教 室町時代の室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり、1441-1394)。父は室町幕府3代将軍・義満、母は三宝院坊官安芸法眼の娘・慶子。義持の同母弟。1403年、青蓮院に入室した。1408年、得度して義円と称した。1411年、受戒、大僧正に上り准后の宣下を受ける。1419年-1421年、天台座主になる。1428年、義持が嗣子なく急死し、遺言による後継指名で義持が拒否したため、石清水八幡宮の宝前で、くじにより義円が後嗣と決定した。還俗して義宣と名乗った。従五位下左馬頭に叙任した。1428年、北畠満雅の蜂起を鎮圧し、第101代・称光天皇没後、伏見宮貞成の子を迎えて、第102代・後花園天皇に擁立するなど幕権の威を示した。1429年、元服し、将軍宣下を受けた。1432年、左大臣、淳和・奨学両院別当を兼ね、源氏長者に補された。1435年、山門を弾圧した。1438年、関東公方足利持氏の挙兵(永享の乱)に際して鎮圧した。守護家の家督にも積極的に介入する。専制は「万人恐怖」と恐れられた。1440年、一色義貫、土岐持頼を暗殺、1441年、畠山持国を追放。赤松満祐により自邸に招かれ、宴席中に斬殺された。(嘉吉の変)。
 以後、将軍の権力は失墜し、細川、山名氏ら守護台頭の契機になる。
◆花の御所 初代・足利尊氏は、二条高倉(中京区)の邸宅に住んだ。尊氏により京都に室町幕府が開かれたのは、南朝への牽制、幕府の主力武士は畿内にあったためという。2代・義詮は、三条坊門(中京区)に邸宅があり、3代・義満も一時住んだ。義満は、1377年より新たに北小路室町(上京区)で邸宅(花の御所)を新造し始めた。
 花の御所は、「室町殿(将軍)」、「室町亭、室町第(居所)」とも呼ばれた。場所は、北は毘沙門堂大路(上立売通)、南は北小路(今出川通)、東は烏丸小路(烏丸通)、西は室町小路(室町通)に囲まれた南北2町(220m)と、東西1町(110m)の一帯だったという。現在の今出川町、築山南半町、築山北半町、岡松町、御所八幡町、裏築地町、上立売東町にあたる。花の御所の北には、裏築地館(方1町)があった。範囲については、変遷がある。
 花の御所は、江戸時代より呼ばれる。それ以前の南北朝時代、崇光上皇の御所(仙洞御所、上山荘)が「花亭」、「花御所」と呼ばれていたことに因む。その南には、光明上皇(北朝2代)の御所、「菊亭(菊の御所)」もあった。室町第はこの2つの御所跡に建てられた。
 庭園には鴨川の水を引き、池があり、花、樹木が植えられていた。1437年、第102代・後花園天皇の行幸記には、花の御所について記されている。室町小路室町通に面して四足門が開き、奥に中門があった。寝殿、台盤所、御湯殿、常御所、夜御殿などが建ち並び、将軍邸としては初めての会所も建てられた。
 「花営三代」という言葉も生まれた。これは、南北朝時代-室町時代の日記『花営三代記(かえいさんだいき)』3巻に因んでいる。『武家日記』ともいう。前半は1367-1381年、後半は1421-1432年にわたる。
◆遺跡 室町頭北小路(現在の同志社今出川キャンパス東方一帯)周辺より、庭の池跡、景石、集石遺構、15世紀(1401-1500)中期-末までの堀(薬研堀、幅2.7m、深さ1.5m)、元、明の磁器、釉裏紅の大盤などが出土している。
◆地名 室町殿に由来する地名として、石標の北、室町通沿いに、「築山北半町」「築山南半町」がある。これらは、室町殿南よりにあった室町殿庭園の築山に由来しているともいう。
 「裏築地町」も裏築地館に関連があるとみられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 ウェブサイト「都市史12 花の御所 - 京都市」『意外と知らない京都』『京都大事典』『京都事典』『京都歴史案内』『京都府の歴史散歩 上』『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』『足利義満と京都』 『昭和京都名所図会 5 洛中』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の地名検証 2』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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map 花の御所(足利将軍室町第跡) 〒602-0034  京都市上京区築山南半町
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