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大歓喜寺 (京都市上京区) Daikanki-ji Temple |
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大歓喜寺 | 大歓喜寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 中世日本研究所女性仏教文化史研究センターのプレート ![]() ![]() ![]() 【参照】歓喜寺前町の地名板(上京区) ![]() |
相国寺の東、寺町通に面し、住宅地に挟まれるようにして大歓喜寺(だいかんき-じ)はある。 臨在系単立の尼寺。 ◆歴史年表 創建の詳細は不明。 もとは歓喜寺町(現在の上京区の般舟院の北隣付近、千本五辻の西北)にあったという。夢嵩の派(夢嵩良真?)・金潭(広照禅師)(金潭素城?)の開基という。 鎌倉時代、臨済宗の夢窓疎石(1275-1351)の法脈を受けたという。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。 天文年間(1532-1555)、浄福寺(上京区、寺之内上ル)の東に移る。 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、現在地に移る。 近世、天龍寺(臨済宗天龍寺派)に属した。住僧は、代々、大聖寺住尼の戒師を務めた。住持無住の時、大聖寺より留守の老尼を置く。以後、尼寺となる。 ◆天巌 永皎 江戸時代中期-後期の尼僧・天巌 永皎(てんがん-えいこう、1733-1808)。女性。永皎女王。父・第114代・中御門天皇の第7皇女。1733年、3歳で大聖寺の付弟。1740年、大聖寺入寺。1742年/1746年、剃髪して永杲、後に永皎(永晃)と改めた。1769年、紫衣を許される。御寺御所の号を賜る。大聖寺を中興した。1770年、円照寺門跡を兼務。 詩歌の詠み手として知られ、茶の湯をよくし、売茶翁と交流し大聖寺「煎茶道永皎流」となる。勝妙楽院天厳と諡され、没後、大歓喜寺に葬られる。77歳。 ◆式子 内親王 鎌倉時代前期の皇女・式子 内親王(しょくし/しきし、?-1201)。女性。父・第77代・後白河天皇、母・成子(高倉三位)(藤原季成の娘)の第3皇女。1159年、賀茂斎院の卜定を受け11年間仕えた。1169年、病気を理由に退下、三条高倉殿に移る。藤原定家が何度か訪れたという。1185年、准三宮宣下を受ける。1192年、法皇没後、戒師・法然により出家した。藤原俊成に和歌を学び、俊成の『古来風体抄』(1197)は内親王の求めに応じて執筆された。家集に『式子内親王集』。代表作の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」(「小倉百人一首」)の相手とは、法然であったともいわれている。 ◆大聖歓喜寺 千本北辺には大聖歓喜寺というもう一つの寺があり、開基は平安時代の弘法大師空海(774-835)といい、江西和尚?が再興し、禅寺、後に真言宗になる。その後、廃絶し、大聖歓喜天堂の一宇のみが残されたという。 ◆時雨亭 現在の般舟院付近には、当初、鎌倉時代の公家・歌人・藤原定家(1162-1241)の別荘があったとされ、時雨亭跡の一つともいう。定家塔が建てられていたともいう。また、門前南の通りを定家辻子と称したという。 また、塚とされる現存の石仏は、第77代・後白河天皇第3皇女で賀茂斎院の式子内親王(1149-1201)の塚ともいう。(『雍州府志』)。詳細は不明。 ◆中世日本研究所 現代、2001年以来、庫裏内にセンター設立準備室を含め中世日本研究所女性仏教文化史研究センターが置かれている。 東アジア地域における女性と仏教の歴史に特化したデータベースの作成、京都・奈良における尼門跡調査修復プロジェクトなどが行われている。 ◆年間行事 皇女尼僧の命日には、宮内庁により追悼式が行われているという。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事 典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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