聖護院・聖護院の森 (京都市左京区)
Shogo-in Temple
聖護院  聖護院
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十六弁の菊の紋








玄関








宸殿、寝殿造


寝殿前庭、市松模様の砂紋。行事の際には護摩が焚かれる。


本堂


書院、江戸時代中期、入母屋造、狩野正栄筆の襖絵




山伏の使う法螺貝、吹くのには大変な修行がいるという。山伏の合図、獣除けにもなる。


【参照】室町時代後期の「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた聖護院、鴨川二条大橋の説明板より


役行者山、役行者


役行者山、葛城神(かつらぎのかみ)


役行者山、一言主神


祇園祭、役行者山、護摩焚き
 聖護院(しょうごいん)門前には、「聖護院門跡」「聖護院旧仮皇居」の石標が立つ。境内は国指定史跡(1936)になっており、5000坪(16000㎡)を有する。古く一帯には、「聖護院の森」が広がっていた。 
 正式には「聖護院門跡」という。皇室とゆかりが深い。もと天台宗寺門派の大本山で、寺門派(三井寺)三門跡(ほかに圓満院、実相院)の一つに数えられる。修験道との関わりもある。本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられ、 当山派(三宝院)とともに修験道を二分した。最盛期には全国に2万余の末寺があった。
 本山修験宗(ほんざん-しゅげんしゅう)の総本山、本尊は不動明王。
 近畿三十六不動尊第188番霊場、神仏霊場会第112番、京都第32番。
 役行者は空を飛んだとされ、航空安全の信仰もある。
◆歴史年表 平安時代、天台宗寺門派の祖・円珍(814-891)は、愛宕(おたぎ)郡岩倉長谷(ながたに、左京区)に「常光寺(常光院)」を建立した。円珍没後、5代(増命、勢祐、智静、最円、静覚)に渡りその法脈が継がれた。当初は天台宗だった。
 1090年/寛治年間(1087-1094)、白河上皇(第72代)は熊野三社を参拝した。園城寺の増誉(ぞうよ)が先達を務めたという。その功に対し、増誉は、修験道を統括する初代・熊野三山検校職に任じられた。修験道統括、法務のために、勅願により増誉を開基として白河院が創建された。当初は「白川房むという庵が結ばれたともいう。(『諸門跡譜』)。当院の直接の起こりになる。また、円珍の建立した常光寺を下賜されたともいう。
 平安時代後期、3世・覚忠(かくちゅう、1118-1177)の時、「聖体護持(聖を守った寺、聖体である上皇の守護)」より、二文字を採り、院名は「聖護院」とした。(『坊目誌』)
 鎌倉時代、1202年、第77代・後白河天皇皇子・4世・静恵(じょうえ)法親王が入寺した。その後は門跡寺院になる。法親王以後、熊野三山検校職は門跡が受け継ぐことになる。(『聖護院記録』)。園城寺長吏を兼ねた。
 1313年、覚助法親王が大峰に登拝した。
 鎌倉時代末-室町時代、聖護院に本山派山伏、醍醐寺・三宝院に当山派山伏が組織される。
 南北朝時代、門跡・良瑜(りょうゆ、1330-1397)が入寺する。
 室町時代、1412年、足利義持が訪れた。
 門跡・道興(1430-1527)の時、諸国の天台系修験教団の組織を確立した。
 1468年、8月、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。(『碧山日録』)。その後、旧地の岩倉・長谷(左京区)の覚忠の開いた宿坊へ移る。失火によるともいう。
 1481年、10月、日野富子と不和になった8代将軍・足利義政が出家し岩倉・長谷の聖護院に入寺した。堂宇が整えられる。(『大乗院寺社雑記』『親長卿記』)
 1487年、4月、義政の堂舎は、盗賊の放火により焼失した。門主・准皇后は、東国巡礼で不在のために難を逃れた。(『大乗院寺社雑記』)
 1531年、京勢は、聖護院、在家を焼く。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉により大聖寺移転跡(上京区御所八幡町、烏丸今出川上ル)に移る。(「寛永年間平安城東西南北町並之図」)。岩倉・長谷には山荘が建てられた。(『隔蓑記』)
 江戸時代、1609年、幕府は聖護院に対して修験道法度を下した。天台修験道本山派の本山になり、山伏を直管した。(゜御当家令状」)
 1613年、5月、幕府は修験道本山・当山の修験法令を発し、本山派山伏は当山派山伏に対して断りなく役儀を行うことを停禁したという。
 1615年、御所八幡町に移ったともいう。
 1620年、2月、上京大火により焼失している。(『泰重卿記』)
 1675年、11月、延宝の大火で焼失した。(『基煕公記』)  
 1676年、第108代・後水尾天皇皇子・道寛法親王の時、現在地(左京区)に移され再興される。この地にはかつて、聖護院親王の宅地があった。(『京城勝覧』)。現存する本堂、宸殿、表門、書院、玄門など多くが建てられた。院家(いんげ)の積善院、住心院、伽耶院、若王子、花台院、智光院があった。(『京都御役所向大概覚書』)
 1733年、庫裡が建てられた。
 1770年以降、北白川・照高院(白川御殿)を聖護院が兼帯した。
 1788年、1月、天明の大火により御所が焼失し、第119代・光格天皇の仮御所として3年間使われる。(「鴨脚家文書」「小久保家文書」)
 1854年、4月、御所の大火の際に、第121代・孝明天皇、皇子祐宮(後の第122代・明治天皇)の仮御所になった。(『三代和気平吉日記』)。孝明天皇妹・和宮が仮住まいする。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、他寺の不動明王像が遷される。維新後、山階(やましな)宮の在所になる。
 1869年、和宮は江戸より聖護院に入り、参内して明治天皇と対面する。明年の仁孝天皇25回忌までは京都に逗留することが徳川家に布告され、聖護院の屋敷が栄御殿と改称される。
 1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)の門跡号が廃止になる。寺領が上知される。その後、596石1斗が下賜された。
 1872年、修験道廃止令により、本山派法頭の地位を失い、天台寺門宗に属した。
 1875年、「旧修験寺院之内廃止之儀」が出され、修験道寺末寺30寺が廃されている。
 1876年、1208円50銭3厘が下賜された。
 1879年、総本山園城寺住職は必らず管長になり、聖護院、円満院、実相院の三室住職は輪次兼帯した。三室住職は末寺の意見により、園城寺により評決することになる。
 1885年、門跡号は復活した。
 1927年、修験道事務局を大本山聖護院門跡に開設する。 
 1935年、聖護院旧仮皇居(史跡名勝天然記念物)に指定された。
 現代、1946年、天台寺門宗より末寺とともに独立し、修験宗を設立する。
 1962年、末寺とともに修験宗より独立し、本山修験宗に改めた。
 2000年、役行者一千三百年御遠忌を記念した修理が完成した。
◆役行者 飛鳥時代の山岳呪術者・役行者(えん-の-ぎょうじゃ、634?-?)。役小角(えん-の-おづぬ/しょうかく)、役の優婆塞(えん-の-うばそく)、役君(えのきみ)。大和国に生まれた。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山を開く。32歳の時、葛城山で孔雀明王の像を岩窟に安置し、持呪観法したという。699年、弟子・韓国広足(からくに-の-ひろたり)は、役行者が妖言を吐いたと密告し、伊豆国に流罪にされる。701年、赦された。数多くの呪術的な伝承が残された。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。神仏調和を唱え、真言密教の呪法を使う仏道修行者、呪術に優れた神仙、道教の医術方術に習熟した行者とさる。修験道の開祖になる。
 平安時代初期-中期以降、山岳信仰、密教と結びつき伝説が生まれた。江戸時代、1799年、朝廷より神変大菩薩の勅諡号が贈られた。
◆円珍  平安時代前期の僧・円珍(えんちん、814-891)。俗姓は和気氏、字は遠塵。諡号は智証大師。讃岐国(香川県)に生まれた。母は空海の姪に当たる。15歳で比叡山に上り、義真に師事し『法華経』『金光明経』を学ぶ。19歳で天台宗年分度者になる。833年、比叡山戒壇院で菩薩戒を受け、12年間籠山行に入り学頭、内供奉に任じられる。大峰山、熊野三山に入り、三井修験道を行う。853年、唐に渡り、福州・開元寺で印度那蘭陀寺の般若多羅三蔵により悉曇(梵字)を学ぶ。温州の同寺で『法華経』などを授けられた。また、天台山国清寺で最澄の遺跡を訪ね、最澄が建立した禅林寺(日本国大徳僧院)を再興した。円珍は各寺で止観(禅)、天台、密教などを学ぶ。
 858年、経典類4000巻を携え帰国する。四国金倉寺、比叡山の山王院に住し、868年、第5世座主になる。天台別院・園城寺(三井寺)を再興し、伝法灌頂の道場とした。後に山門派との対立により、園城寺は寺門派の拠点になる。
 天台寺門宗の宗祖天台宗寺門派の祖。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。聖護院中興の祖とされている。 本山派修験道の密教教学の祖とされている。大峰、葛城、熊野に修行し、役行者の法脈を受け継ぎ、修験道に天台密教の思想を取り入れた。78歳。
◆増誉 平安時代後期の天台宗の僧・増誉(ぞうよ、1032-1116)。通称は一乗寺僧正。権大納言・藤原経輔の子。6歳の時、園城寺の乗延に師事、行円の下で得度で出家した。大峰山、 葛城山で修業を積む。1074年、権少僧都、第72代・白河天皇の護持僧、 第73代・堀河天皇の護持僧、1090年、白河上皇の熊野詣の先達を勤め、熊野三山検校になる。四天王寺の別当職、1096年、権僧正、広隆寺の別当職、園城寺の長吏、1102年、正僧正、法成寺執印に補任されている。1105年、天台座主になるものの、山門派の反対で翌日辞退した。1105年、大僧正、尊勝寺などの13寺の別当も兼ねた。85歳。
 聖護院開基の増誉は、修験道を開いた役行者の法灯を継いだとされている。
◆覚忠 平安時代後期の天台宗の僧・覚忠(かくちゅう、1118-1177)。京都の生まれ。藤原忠通の子。園城寺の増智に師事した。後白河上皇の出家に際し戒師をつとめた。1162年、天台座主、1164年、大僧正に任じられた。後に園城寺長吏。歌人としても知られ『千載和歌集』などに入集。60歳。
◆静恵法親王 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・静恵法親王(じょうえ-ほっしんのう、1164-1203)。通称は千光院宮、青竜院宮。第77代・後白河上皇の第8皇子。聖護院3世・覚忠に学び、1191年、親王になる。1192年、浄妙寺別当、1196年、園城寺の長吏になる。1202年、聖護院に入寺する。熊野三山検校。40歳。
◆覚助法親王 鎌倉時代中期-南北朝時代の天台宗の僧・覚助法親王(かくじょ-ほうしんのう、1250-1336)。第88代・後嵯峨天皇の第10皇子。5歳で聖護院に入り、13歳で出家した。後に潅頂を受ける。園城寺長吏、16世・聖護院門跡になる。1313年、宮門跡として初の大峰入峰を果たし、伝法潅頂大阿闍梨になった。一品に除せられ、天王寺別当、熊野検校などを歴任した。
 二条派歌壇の後援者で、「覚助法親王家五十首」を主催した。『続拾遺集』以下の勅撰集に入首。覚助以後、歴代門主は、一代一度は峰入りすることが慣例になった。90歳。
◆良瑜 鎌倉時代後期-室町時代前期の天台宗の僧・良瑜(りょうゆ、1330-1397)。法名は静助、通称は法輪院准后。二条兼基(かねもと)の子。増仁(ぞうじん)より灌頂を受け、園城寺常住院門主になる。後に増仁より南滝宮門跡を譲られる。聖護院門跡、園城寺長吏、熊野三山検校、四天王寺別当を歴任した。大峰修行を5度勤め、山中で深仙灌頂を開壇した。大僧正。68歳。
◆道興 室町時代中期-後期の僧・道興(どうこう、1430-1527)。道興准后。関白・近衛房嗣の子。幼少で出家、聖護院門跡。園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた。大僧正、1465年、准三宮宣下を受ける。1486年より、東国の熊野系山伏を巡り、若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、下総国、上総国、安房国、相模国、1487年、武蔵国、甲斐国、奥州に赴き、後に紀行文『廻国雑記』を著した。天台系修験教団本山派を組織した。97歳。
◆道寛法親王 江戸時代前期の親王・道寛法親王(どうかん-ほうしんのう、1647-1676)。護院宮道寛法親王。第108代・後水尾天皇の第13皇子、母は逢春門院藤原隆子。聖護院門跡35世。聖護院宮道晃親王について得度、園城寺灌頂を受ける。親王宣下を受け、1665年、二品、のち一身阿闍梨、天皇護持僧、園城寺長吏。30歳。
狩野永納  江戸時代前期の画家・狩野永納(かのう-えいのう、1631-1697)。名は吉信、字は伯受、別号は一陽斎など。京都生まれ。狩野山雪の長男。父に学び、狩野安信にも師事したという。寛文-延宝年間(1661-1681)造営の御所障壁画制作に参加した。1693年、父の草稿に基づき、黒川道祐の援助を得て日本初の絵画史『本朝画史(『本朝画史』)』5巻を刊行した。墓は泉涌寺にある。67歳。
◆狩野益信 江戸時代前期の画家・狩野益信(かのう-ますのぶ、?-1694)。通称は采女、号は洞雲など。彫金家・後藤立乗の子。書を松花堂昭乗に学ぶ。狩野探幽の養子になる。後に別家を興こす。徳川家光に好まれ法眼に叙せられる。駿河台狩野家の祖。
◆和宮親子内親王 江戸時代後期-近代、の皇女・和宮親子内親王(かずのみや-ちかこ-ないしんのう、1846-1877)。名は親子、和宮、静寛院宮。京都御所の東、橋本邸で生まれる。第120代・仁孝天皇の第8皇女、母は権大納言・橋本実久の娘・経子。第121代・孝明天皇の妹。1848年、3歳で宮中で歳替の儀を行う。孝明天皇の思し召しにより、1851年、6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみや-たるひと)親王(17歳)と婚約した。1858年、長野主膳は、和宮の降嫁を献策する。1860年、桜田門外の変後、婚約破棄になり、朝幕関係融和のため、公武合体政策により政略結婚として降嫁の話が出る。孝明天皇は当初、反対した。桂宮邸に移る。1861年、内親王宣下、桂宮邸より江戸に出発し、14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁した。以後、政局の進展は見られなかった。1862年、婚儀、1866年、家茂没後、落飾して静寛院と称した。この頃、母、夫、兄を相次いで失う。1867年、大政奉還以降、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。1868年、戊辰戦争で熾仁親王は東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城中止を懇願する。1869年、和宮は京都に戻り聖護院を仮殿にした。その後、旧中川宮朝彦親王邸に移り栄御殿と称し、1874年まで過ごした。東京に戻る。1877年、療養地の箱根で亡くなる。墓は芝・増上寺に夫ともに葬られた。32歳。
◆嘉言親王 江戸時代後期の嘉言親王(よしこと-しんのう、1821-1868)。幼称は巍宮(多嘉宮)、雄仁法親王。伏見宮邦家親王の第2王子。祖父・貞敬親王の嗣子。聖護院宮盈仁親王の附弟、光格天皇の養子になった。親王宣下を受け名を嘉言とし、聖護院に入寺得度して法諱を雄仁とした。聖護院門跡43世。三井寺長吏・一身阿闍梨に補された。維新後還俗した。内国事務総督・海軍総督等を務めた。48歳。
◆仏像・木像 ◈本尊「不動明王立像」(重文)(115.7㎝)は、本堂の耐火式空殿に安置されている。平安時代後期、智証大師(814-891)作と伝えられる。小頭、巻髪、左目を眇(すが)める。岩座に立ち、火焔光背を背負う。木造、彩色。
 内内陣に脇仏は矜羯羅童子(こんがらどうし)、制咤迦童子(せいたかどうし)を従える。
 ◈「不動明王立像」(114㎝)は、本堂空殿の厨子内に安置されている。平安時代後期の作になる。方形の材を組み合わせた瑟瑟座(しつしつざ)に立つ。
 木造、彩色、截金。非公開。
 ◈「智証大師(円珍)坐像」(84㎝/86.1㎝)(重文)は、平安時代後期、1143年に園城寺の僧・覚忠が、仏師・良成に命じて造立したという。宇治・三室戸寺で造られ、園城寺唐院安置の大師像の写しという。その胎内文書「円珍入唐求法目録」(重文)に記されていた。大師自筆経巻、唐の経典、願文なども納められていた。
 ◈本堂の「役行者」は木造、彩色。
 「前鬼後鬼」、「大峰八大童子」。
 ◈宸殿仏間(宗祖殿)に「役行者神変大菩薩(役行者倚像)」が安置されている。江戸時代、1695年作による。寄木造。
 ◈宸殿「役行者」は、出羽守政常作、鋼造。 
 宸殿壇上の「不動明王」は鎌倉時代作、左の「不動明王」は江戸時代、右の「不動明王」は室町時代になる。「孔雀明王像」がある。「蔵王権現像」は松久朋琳(1901 -1987)作、仏を母胎として権(かり)に現じた神の姿といわれる。「三宝荒神像」、仏間に「逆手阿弥陀如来像」。
◆建築 高い築地塀内に、表門、西門、大玄関、寺務所、長屋門、宸殿、書院、小書院、庫裡、北殿、御学問所、御茶庫、御殿荘、本堂、収蔵庫などが建つ。
 ◈「山門(表門)」は、江戸時代、1676年に再建された。2000年に修理された。
 ◈「長屋門」は、門と居住が一体化している。土間、納戸として使用されていた。
 ◈「玄門」は、江戸時代、1676年に建てられた。
 ◈「本堂」は、江戸時代中期、延宝年間(1673-1681)/1676年に創建された。1968年に建替えられた。江戸時代の本堂と外観はほぼ同様である。本尊、脇仏は耐火式空殿と内内陣に祀られ、南北両面に収蔵庫を持つ形になっている。加行道場としての一面を持っている。
 ◈「大玄関」は、宸殿への入口になる。
 ◈「宸殿」は、江戸時代中期、1676年に建立された。江戸時代、1788年の天明の大火の時には、第119代・光格天皇の仮御所として使用された。法親王が居住する門跡寺院の正殿である。大玄関、孔雀、太公望、波の間など15部屋以上あり、玉座の間がある。光格天皇遺品の小屏風、狩野永納、益信ら狩野派による襖絵が150面以上ある。2000年、修理が行われた。主な法要は宸殿で行われている書院作りの影響を強く受けている。寝殿造りの形式を残し、宮殿風に造られている。
 ◈「書院」(重文)は、江戸時代初期、延宝年間(1673-1681)/1661年-1750年/1676年、第108代・後水尾天皇側室の書院を御所より移築している。数寄屋風書院造で、江戸時代初期の御所風の書院例になる。
 主室(床、棚、付書院)(8畳)、次の間(二之間、床、棚付)(12畳)、背面の間(8畳・6畳・4畳)、玄関、玄関次の間(床付)、2面土庇・縁からなる。梅の間に続く奥の間は、天皇自ら意匠を凝らしたという。次の間に大床があるのは門跡寺院には多く、御所には稀という。異なる素材で造られた欄間、透し彫りの違棚、天袋の絵、明かりを入れるために明治ガラスを埋め込んだ花頭窓などが見られる。
 単層、入母屋造、一部葺き下し、桟瓦葺、庇は杮葺。
 ◈「小書院(中御殿)」は江戸時代末期に建立された。
 ◈「北御殿(北殿)」は、江戸時代中期に建立された。江戸時代、1788年の内裏炎上の際に、第119代・光格天皇の行在所(あんざいしょ)になり、2年間使用された。1854年の内裏火災の際にも第121代・孝明天皇、裕宮(第122代・明治天皇)とともに避難し、仮皇居になる。
 ◈「御学問所」は、北御殿にある。江戸時代、1788年、第119代・光格天皇の学問所を移築している。一夜にして建てられたといわれ、「一夜造りの御学問所」と呼ばれる。
◆庭園 ◈書院東に、東山を借景とした庭園がある。
 ◈宸殿前に砂紋で描かれた市松模様の庭がある。近年までは、白砂敷きの庭だったという。
◆文化財 ◈「智証大師像造立願文1通」(重文)。
 ◈「神変大菩薩号勅書」(重文)は、江戸時代、1799年作で、第119代・光格天皇宸翰になる。
 ◈「後陽成院(ごようぜいいん)宸翰御消息」(重文)は、江戸時代作。
 ◈絹本著色「熊野本地曼荼羅図」(104.5cm×51.3cm)(重文)は、鎌倉時代作になる。中央に本地仏、背後の山に蔵王権現、役行社、八大童子、愛染明王、大威徳明王、岩地に稲葉根王子ら、右端に高僧・円珍の姿も見える。
 ◈「山城国富家殿(ふけどの)山絵図」(重文)、修験諸法具など。
 ◈狩野探幽の真筆「釈迦三尊像」は、水墨による。萬福寺の彩色「釈迦三尊像」と類似している。
 ◈宸殿玉座に、第119代・光格天皇遺品「屏風」。
 ◈書院襖絵、壁貼付けの絵は、狩野松栄による。袋戸棚の扉絵は円山応挙、呉春による。
◆障壁画 ◈宸殿に、狩野永納、狩野派による襖絵が176面ある。
 二の間(花鳥の間)に益信筆「吐綬鷄」がある。
 孔雀之間に、狩野永納筆の「孔雀図」がある。古来、孔雀は害虫や毒虫などを食べる喩えから、身の回りの災いを駆逐し、心の迷いを食べ尽くすともいう。西の4面に、雄、雌、子どもの孔雀が描かれている。北、東の面に痛みが見られる。
 太公望之間(太公望之間)に、狩野永納筆の西面に宗代の詩人「林和靖」、北面に東晋・宗の詩人「陶淵明」、彼の好む柳、菊を門前に描き、家人が出迎えられている場面。東面には「太公望」が描かれている。
 波之間に、狩野永納筆の「波濤図」がある。永観堂禅林寺の長谷川等伯筆「波濤図」を取り入れた。反目していた狩野派と長谷川派にも交流が有ったとみられている。
 ◈大玄関の内部に、狩野永納・益信筆「老松」がある。中の1面に筆による落書きが残る。
◆門跡寺院 鎌倉時代、第77代・後白河天皇皇子・聖護院10世の静恵法親王(1164-1203)が宮門跡として入寺後、聖護院宮、門跡寺院になる。
 以後、親王が相次いで入室した。近代までに、37世門主のうち皇室より25代、摂家より12代が門跡に就いている。
 1779年に聖護院門跡だった祐宮(さちのみや)は、第119代・光格天皇(1771-1840)として即位した。
◆修験道・山伏 聖護院は、修験道本山派の大本山であり、役行者(634-701)を祖とする修験道との関わりが深い。修験道は、日本古来の山の神を崇敬する山岳信仰に、仏教の天台・真言、神道、儒教、道教、陰陽道なども融合した神仏習合、権現信仰(神は仏の化現とする)になる。
 平安時代、円珍(814-891)は、 熊野那智の滝に一千日篭居を行い、熊野より大峰修行を行った。引き継いだ増誉(1032-1116)も大峰修行を行い、修験僧として名を馳せた。1090年、第72代・白河上皇の熊野三社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の熊野参詣の際に、増誉が先達を務めた。その功に対して、修験道を統括する熊野三山検校職(けんぎょうしょく)を任じられた。この後、上皇の熊野御幸の案内は代々にわたり聖護院先達が勤めた。当時の参詣は盛んであり、 「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれた。
 後白河天皇皇子・4世の静恵法親王(1164-1203)が入寺後、静恵法親王の所領が熊野にあったことから、熊野三山検校職は門跡が受け継ぐ慣わしになる。聖護院は、本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられ、最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団になった。
 南北朝時代、良瑜(1330-1397)は、大峰修行を5度も行い、山中に深仙灌頂を開壇した。鎌倉時代-室町時代、聖護院の本山派山伏に対し、醍醐寺三宝院の当山派が形成され、時には対立した。室町時代、道興(1430-1527)は、東国の熊野系山伏を巡り、本山派を確立する。京都では院家の若王子、積善院、住心院を中心とし、地方の彦山、求菩提山、児島五流なども統括した。
 安土・桃山時代-江戸時代、聖護院は、本山派修験の本寺になる。江戸時代、1609年、幕府は聖護院に修験道法度を下し、以後当院が修験道の統括をすることになる。
 近代、1872年、修験道廃止令により、本山派法頭の地位を失い、天台寺門宗に属した。戦後の1946年、修験宗を設立し独立、さらに1962年、本山修験宗を設立した。
 聖護院から先達の辞令を頂き、聖護院の山伏になる。先達の階位は7段階に分かれ、経験、技量、年数により上がる。山伏は、かつては「山臥」と書いた。装束は、頭に頭襟(ときん)を被り、鈴懸(すずかけ)という白い法衣を身に着け、手甲・脚半、肩に結袈裟(ゆいげさ)、腰に螺緒(かいのお)を下げ、尻に引敷(ひっしき)、手に錫杖(しゃくじょう)、法螺貝(ほらがい)を持つ。本山派では、熊野より大峰に峰入りし、「順の峰入り」といわれる。
 江戸時代、葛城修行は1か月、大峰修行は55日間行われていた。現在は、それぞれ3日と6日に短縮されている。現在、大峰奥駈修行では、1日に20-25kmの行程を、12-15時間かけて廻る。行場としては、西の覗きで知られる山上ヶ岳、岩山の両童子岩、連峰の雄峰である仏生岳、役行者が冬籠りしたという笙の窟、水垢離が行われる吉野川などがある。
塔頭 境内東隣に積善院(しゃくぜんいん)がある。
◆役行者山 祇園祭の「役行者山」(役行者町)は、聖護院との関わりが深い。役行者と一言主神(ひとことぬしのかみ)、葛城神(かつらぎのかみ)の三体を御神体として祀る。これは、修験道開祖の役行者・小角(おづぬ)が、一言主神を使い葛城と大峰の間に石橋を架けたという伝説に由来する。
 役行者信仰の篤い町では、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)以前にすでに「役行者山」が存在した。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈以前は、祇園社は感神院といい、聖護院も別当を置いていた。祇園祭では、7月15日未明、聖護院より数十人の山伏が町を訪れ、ご神体の社殿に参詣、護摩焚きをして祭の無事を祈る。
◆聖護院蕪・千枚漬・聖護院大根 「聖護院蕪(しょうごいん-かぶら)」は、江戸時代、享保年間(1716-1735)、聖護院で農家・伊勢屋利八が、近江より蕪の種を持ち帰り栽培したことに始まる。天保年間(1830-1844)、千枚漬に使用された。近代以降、平安神宮造営に伴い栽培地が減少する。現在は、「京の伝統野菜」として種子保存されている。
 江戸時代末、第121代・孝明天皇の宮中大膳寮の大藤藤三郎(1845-1921)は、天皇の嗜好に合う漬物を探した。その時、縄手三条下ルの漬物屋が作っていた尾花川漬(おばながわづけ)に着想を得る。
 藤三郎は聖護院蕪を見出し、工夫を重ねた。これを薄く削ぎ、壬生菜、昆布を添えて盛った。白い蕪は御所の白砂、緑の壬生菜は庭の松、黒い昆布は庭石として瑞兆(ずいちょう、吉兆)を表した。後に、藤三郎は屋号「大藤」という店を開いて大評判を得た。
 「京都三大漬物」の一つ千枚漬は、聖護院蕪を塩漬けし、その後、昆布による本漬を行う。乳酸発酵はさせない。千枚漬の名の由来は、薄く切られた聖護院蕪を樽に漬ける際に、千枚を目安とした。一つの蕪を千枚に薄く切り分けたともいう。
 近代、明治期(1868-1912)初期、聖護院村では聖護院大根が栽培されていた。江戸時代の尾張の宮重大根より丸い形に改良されたという。その後、栽培地は移る。現在、「京の伝統野菜」として種子保存されている。
◆聖護院の森 かつては、聖護院の広大な森が広がっていた。森は、現在の熊野神社、京大病院付近まで含み、平安時代創建の熊野神社は、聖護院の森の鎮守として祀られていた。室町時代、1467年に応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。江戸時代、1666年に聖護院道寛法親王(1647-1676)によって再興された。 
 聖護院は、「森の御所」「森御殿」「御殿」とも呼ばれた。森の紅葉で知られ、錦の織物の様に美しいことから「錦林(きんりん)」と呼ばれ、 いまも左京区内に地名として残されている。
 江戸時代、1734年、森では呉服商の井筒屋伝兵衛(23歳)と、先斗町近江屋の遊女・お俊(20歳)の心中事件が起きた。浄瑠璃で作者不詳の「近頃河原達引」(1782年、江戸外記座初演)の題材になる。毎年12月15日には供養が行われている。
 聖護院村は、境内に西に近代まで市にがあり、聖護院大根、八つ橋が作られていた。
◆樹木 御殿荘にオガタマノキがある。
◆祭礼  ◈「寒中托鉢修行・托鉢修行」(1月8日-14日)では、信者が修験道山伏姿になり、法螺貝を吹き鳴らし托鉢、祈祷する。市内6000軒の信徒の、1年間の家内安全、息災長久を祈願する。京都の冬の風物詩になっている。
 ◈「諡号記念法要・年賀式法要」(1月25日)は、1799年、宗祖役行者に第119代・光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を贈られたを記念した法要が行われている。
 年賀式では、末寺・信徒・講社先達が集い、門主以下一山の僧侶と新年の挨拶を行う。
 ◈「節分会・採燈大護摩供」(2月2日-3日)で、2日は堂内で柱源護摩が厳修され、採燈大護摩の御札は厄除け・学業成就の信仰がある。3日は甘酒の接待、年男福女の除災招福の豆まき、採燈大護摩供が行われる。
 ◈「葛城修行抖擻(とそう)修行・護摩修行」(4月中旬)は、2泊3日で大阪・奈良・和歌山の葛城山脈に伝わる役行者法華経埋納地を巡拝する。加太・友ヶ島の行場修行、粉河町中津川行者堂での護摩修行、28の経塚のうち数カ所の参拝修行をしている。
 ◈「神変大菩薩報恩大会(高祖会)・採燈大護摩供」(6月7日)は、701年に役行者が箕面天井ヶ岳で亡くなったとされ、宗門の聖日と定め法要を行う。
 茶道速水流宗派匠による献茶式、法華経三味供、採橙大護摩供など行われる。祈祷された御札は学業成就、身体健勝、家内安全、諸願成就などにご利益があるという。
 ◈「大峰奥駈修行抖擻修行・大護摩修行」(9月初旬)は、5泊6日で大峰山脈の、吉野より前鬼までを縦走する。毎日約20-25kmを約12時間かけて歩く。
  ◈「智証大師の命日」(正当は10月29日)に法要を営む。奠供作法(てんぐ、供物を手から手へ伝えわたして仏前に供える)が声明とともに行われる。大師好物の品を添えた大師膳が申込者に出される。午後からは世界平和、除災招福を祈念し、大般若波羅蜜多経600巻転読法要が行われ、加持を受ける事が出来る。
◆年間行事  寒中托鉢修行・托鉢修行(1月8日-14日)、諡号記念法要・年賀式法要(1月25日)、節分会・採燈大護摩供(2月2日-3日)、初祖増誉大僧正御正忌法要(2月第2日曜)、葛城修行抖擻修行・護摩修行(2泊3日)(4月中旬)、大峰戸開(5月3日)、神変大菩薩報恩大会(高祖会)・採燈大護摩供(6月7日)、祇園祭役行者山護摩(7月16日)、大峰奥駈修行抖擻修行・大護摩修行(9月初旬)、大峰戸開(9月23日)、特別拝観(11月22日-11月27日)、智證大師講法要・大根焚き(11月29日)。
 修験講習会(毎月1日・21日)、数年に一度は国峰修行。

 
*建物内は撮影禁止。普段は非公開。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『続・京都史跡事典』、『京都の仏像』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都はじまり物語』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都のご利益手帖』、『極楽の本』、『京の伝統野菜』、『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』 、ウェブサイト「聖護院」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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