霊鑑寺 (京都市左京区)
Reikan-ji Temple
霊鑑寺 霊鑑寺
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「後水尾天皇 谷の御所 霊鑑寺門跡」の石柱


表門、参道石段


表門


表門


大玄関


中門


書院


書院








庭園


庭園、石橋



枯滝、かつての鑓水跡


般若寺型の石灯籠






硯石、徳川11代将軍徳川家斉の尼宮?の献上という。


回廊



本堂











本堂前の苔庭



土蔵



土蔵



布袋の硯石



鎮守社の天満宮



天満宮





椿


ワビスケ



ワビスケ




サザンカ



日光(じっこう)



菱唐糸



ツバキ
 
 如意ヶ嶽の麓、哲学の道から急坂を東へ登ると、尼門跡寺院の霊鑑寺(れいかんじ)がある。霊鑑尼宮、谷の御所、鹿ヶ谷比丘尼御所(ししがたに-びくにごしょ)、椿寺ともいわれる。山号は円成山(円城山、えんじょうざん)という。
 臨済宗南禅寺派、本尊は如意輪観世音菩薩。
 石段下脇の妙見堂は、洛陽十二支妙見めぐりの第4番、卯(東)であり、「鹿ヶ谷の妙見さん」とも呼ばれている。境内は、京都御所の十二支の卯、東方角にあたる。特別拝観時には御朱印が授けられる。
◆歴史年表 江戸時代、1612年、持明院基子(孝子)は、妙法院の尭然法親王より鹿ヶ谷の地を贈られ、住居が建てられる。(寺伝)   
 1617年、第107代・後陽成天皇の没後、基子は出家し一宇を建て菩提を弔ったという。(寺伝)
 1644年、基子が亡くなり、その後、第108代・後水尾天皇皇后・東福門院(1607-1678)に譲られる。
 1654年、後水尾天皇より、「円成山霊鑑寺」を勅許された。
 1654年頃/1652年/1653年、基子の遺志により、後水尾天皇皇女・多利宮(月江宗澄)を開山として、現在地の南隣(不動山、円成寺跡地とも)に創建される。また、了性院(基子)が後水尾天皇中宮・東福門院に御寺とすることを託したともいう。東方山中の荒廃していた如意寺の本尊・如意輪観音、霊鏡も当寺に遷された。以後、「霊鑑寺」の寺号になったという。また、近くにあった円成寺に因み、「円成寺霊鑑寺」と称されたという。当初は天台宗で、後に臨済宗に改宗される。
 1668年、後水尾院が寺を訪れた。(『尭恕法親王日記』)
 貞享年間(1684-1688)、第111代・後西天皇皇女・2世・普賢院宮(光山宗栄)の時、現在地に移る。
 また、1678年、月江宗澄(多利宮)が亡くなり、2世・光山宗栄が継いで中興する。
 1686年/1685年/1687年、後西天皇(1638-1685)没後、普賢院宮の時、父・後西天皇の宮殿(院御所の御殿)を移して現在の表門、玄関、書院、居間などが建てられた。この時、境内は現在地に移されたともいう。その後、皇女、皇孫女の入寺が続き、尼門跡寺院になる。
 1795年/1803年、10代将軍・徳川家基13回忌に、第11代将軍・徳川家斉の金銀の寄進があり、現在の本堂が再建された。
 1818年頃、奥書院、書院上段の間が増築される。
 近代、1871年、門跡の称号が廃止される。
 1873年頃、南禅寺の管理下に置かれる。
 1885年、門跡は私称として許された。
 1890年、5世・歓喜王院宮法山宗淳尼大禅師(1816-1891、伏見宮貞敬親王息女)まで皇女の尼僧が住持を務めていた。 
 現代、1985年、本堂、書院、玄関、表門が京都市の指定文化財指定になる。
 2007年、奥書院は、ニューヨークのワールド・モニュメント財団、フリーマン財団、中世日本研究所の支援により修復される。
◆持明院基子 江戸時代前期の女官・持明院基子(じみょういん-もとこ、? -1644)。持明院孝子。持明院基孝の娘。第107代・後陽成天皇の典侍になる。1599年、勾当内侍(こうとうのないし)、1602年、尭然法親王を産む。1609年、天皇の怒りにふれ、後に赦される。宰相典侍、大納言典侍とも呼ばれた。法親王は、妙法院住持になり、尭然法親王と称した。1612年、基子は妙法院の一画に屋敷を建て住した。
◆多利宮 江戸時代前期の皇女・多利宮(たりのみや、1639-1678)。幼称は谷宮(たにのみや)、宗澄女王。第108代・後水尾天皇の第12皇女。持明院基子に養育される。1654年、得度した。法号は浄法身院宮月江宗澄尼大禅師という。霊鑑寺の開山になる。39歳。
◆普賢院宮 江戸時代前期-中期の皇女・普賢院宮(1658-1721)。光山宗栄。第111代・後西天皇皇女で、月江宗澄の姪に当たる。霊鑑寺2世で中興の祖の一人になる。63歳。
◆宗恭女王 江戸時代前期-後期の皇女・宗恭女王(そうきょう-じょおう、1770-1821)。幼称は孝宮、 寿山宗泰、観山宗恭。典仁(すけひと)親王の第2王女。第119代・光格天皇の姉。10代将軍・徳川家基と婚約した。1779年、家基が狩の事故により亡くなり、1789年、霊鑑寺に入り得度した。霊鑑寺4世になる。53歳。
◆宗諄女王 江戸時代後期-近代の皇女・宗諄女王(そうじゅん-じょおう、1817-1890)。幼称は万志宮、道号は法山。 伏見宮貞敬(さだよし)親王の第9王女。1819年、光格上皇(第119代)の養女になる。1823年、霊鑑寺に入り出家し、5世・門跡になる。最後の皇女の住持になる。1873年、還俗し伏見宮に復帰した。1880年、尼に戻る。新政府の大教宣布運動に協力し、中教正、権大教正を務めた。霊鑑寺には戻ることはできなかった。75歳。
◆仏像 ◈本堂に安置の本尊「如意輪観音像」は、平安時代の智証大師(円珍、814-891)が創建したという如意寺より遷されたという。後水尾上皇(1596-1680)の霊夢により旧本尊を遷したともいう。観音像は恵心僧都(源信、942-1017)作という。像高7寸(21.2㎝)、磐座、舟後光、霊鑑(鏡)を手に持つ。
 黒塗りの厨子(2尺8寸=84.8㎝)内に納められている。その内側は金箔貼りになっている。
 ◈傍らの「不動明王像」は、平安時代の智証大師(円珍、814-891)作という。
 ◈「地蔵尊」は、平安時代の恵心僧都(源信、942-1017)作という。木造彩色、台座に立ち、像高1尺6寸5分(50㎝)。
 ◈厨子内の「弁財天」は、2世・普賢院宮(光山宗栄尼、1658-1721)が夢に見た仏を、厳島の大鳥居の朽木により仏師に刻ませたという。
 ◈江戸時代の光格天皇妃・新清和院(1779-1846)の念持仏、「普賢菩薩」、江戸時代の第117代・後桜町天皇(1740-1813)の念持仏「釈迦如来」、江戸時代の11代将軍・徳川家斉の御台所(妻)・広大院(こうだいいん、寧姫、篤姫、1773-1844)自作という「阿弥陀如来」、平安時代-鎌倉時代の源頼朝(1147-1199)が兜の中に所持したという念持仏などが安置されている。
 ◈妙見堂には「妙見菩薩」、「石不動尊」が祀られている。妙見菩薩は洛陽十二支妙見巡拝の一つ、卯の霊鑑寺にあたる。
◆建築 本堂、書院、玄関、表門、鎮守社が京都指定の有形文化財になっている。
 ◈「表門」は、江戸時代、1687年に建てられた。
 ◈「書院」、「居間」、「玄関」は、江戸時代、1687年の後西天皇没後、旧御所御殿の御休憩所、御番所が移されて建立された。建物は江戸時代、1675年に造営されている。18世紀(1701-1800)に増築された。
 書院は、上段の間、中段の間、下段の間がある。二の間、三の間、四の間、五の間ともいう。上段の間後方に居間と従者のための次の間がある。
 書院の北に続く奥書院には上段の間、二の間がある。
 ◈「本堂」は、江戸時代、1803年、11代将軍・徳川家斉の寄進によりが建立された。宝形造。
◆障壁画 書院、居間に狩野永徳(1543-1590)、元信(1476?-1559)筆という「四季花鳥図」がある。円山応挙(1733-1795)も描いている。書院の上段の間、二の間に描かれている「官女唐戸遊図」は尼門跡に多く見られる。
 書院に四条派・岡本豊彦(1773-1845)筆の障壁画「滝水図」「梅雀図」「四季耕作図」が飾られている。
◆文化財 ◈第105代・後奈良天皇(1496-1557)、第106代・正親町天皇(1517-1593)、第108代・後水尾天皇(1596-1680)、第111代・後西天皇(1638-1685 )の宸翰(しんかん、天皇直筆の手紙)がある。
 ◈江戸時代の『日次記(ひなみき)』は、宮廷の女房奉書の裏を用いている。当時の尼門跡寺院、宮廷内の事情を読み解く史料になっている。
 ◈18歳で亡くなった10代将軍・徳川家基( 1762-1779 )の遺品「唐子牙彫象嵌蒔絵絵具箱」「松梅文蒔絵十種香箱」。江戸時代の「菊文蒔絵箱」「源氏紅葉賀文蒔絵重箱」「落瀧津文様御服」などがある。
 ◈200点(300点とも)の御所人形の「這児」、「三折人形」、「内裏雛」、毛植人形の「犬」「猫」などの小動物、「参内稚児」、小御所人形「つくね」などがある。
 人形は、幼い頃に入寺した皇女が得度するまで、毎年、皇室から節供になると贈られた品々という。遺愛の人形もあり、供養のために亡き人の顔を似せて納められたものもある。
 加茂人形、市松人形、第108代・後水尾天皇中宮・東福門院の十二単(京都国立博物館寄託)、江戸時代の第120代・仁孝天皇(1800-1846)の「本双六盤」、貝桶、貝合せ、花鳥絵カルタなど皇室ゆかりの品々が数多い。
◆庭園 書院を中心にして、江戸時代に作庭の「南庭」、「東庭」、「本堂前庭」の3つがある。
 ◈「南庭」は、書院南面の前庭になる。石組に特徴のある江戸時代中期の作庭手法を用いた池泉観賞式庭園になる。東に東山連峰の一つ、大文字山の西の稜線を借景として取り入れる。かつて、池には東より山水が引かれていた。現在は涸れている。
 庭は西から東へ上る急な傾斜地、崖地段差を利用し、自然の山肌も築山としている。背後の塀も庭に呼応するように曲線を描いて上る。池は東西に細く深く掘られ、護岸石が組まれている。大振りの立石が多く使われ、中央の立石は一際高い。石組みの特徴として立石の間に横石を並べる。東南隅の滝石組、水分石、鯉魚石、中央出島付近の蓬莱石組、板石の石橋、刈込、赤松、楓、古木の椿、アセビなどの植栽が混じる。庭面全体には苔が覆う。対岸奥に妙法院宮ゆかりの般若寺型の石灯籠が立つ。二層の灯籠塔がある。池の手前書院との間に白砂が敷かれ、地紋が描かれている。
 ◈「東庭」は、書院東にある。本堂に向かう崖地にあり、土留の上下二段になる。石組は多く、サツキの刈込で構成されている。
 ◈「本堂前庭」は、上段に位置している。一面を苔に覆われている。南の山手に大きな自然な捨石がある。自然風の植栽がある。
◆旧地 かつての境内は、鹿ヶ谷(ししがたに)の南の谷、渓流沿い(不動山)にあり、谷御所、鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれた。
 鹿ヶ谷の地名の由来は、東の山に渓谷があり、鹿がよく現れたことによるともいう。
◆如意寺 天台宗の如意寺は如意輪寺とも呼ばれ、叡山三千坊の一つといわれた。最盛期の境内は、東は園城寺西にある長等山(大津市)から、鹿ヶ谷(左京区)の山々8㎞に広がり、尾根には多くの堂舎が点在していたという。本堂には、千手観音が本尊として安置されていた。江戸時代の第108代・後水尾天皇が復興した。
 近年の京都市埋蔵文化財センター、後に古代学協会、古代学研究所などの発掘調査により、如意ヶ岳山頂付近に本堂跡などが見つかっている。また、鎮守社の赤龍社跡もあった。現在は雨神社が祀られている。尾根沿いに複数の伽藍の跡も確認されている。鹿ヶ谷の楼門の滝付近には山門が建っていたという。(『山州名跡志』)
◆俊寛 周辺に、平安時代末期の法勝寺の執行・俊寛僧都(? -1177)にまつわる史跡が残る。寺の南に「俊寛僧都旧跡道」、東方山中に「俊寛僧都忠誠之碑」が立ち俊寛の山荘跡とされている。
 1177年、俊寛の鹿谷(ししがたに/ししのたに)山荘に、俊寛、西光法師、藤原成親、成経親子、平康頼らが集い、密かに平家の横暴に対して謀反計画をたてた。当時、平家一門は、官位、所領、荘園などを独占した。だが、北面の武士・多田蔵人行綱に密告され、俊寛らは平清盛に捕らえられる。この鹿谷山荘事件(鹿ヶ谷の変)により、西光は斬殺、成親も備前に流され惨殺された。俊寛、成経、康頼らは薩摩国鬼界ヶ島(鬼界島、現鹿児島県硫黄島? )へ流された。成経、康頼の二人は赦免される。俊寛は都に還ることもできず孤島で亡くなる。
◆墓 旧地の不動山に、如意寺中興開山の仁峰、霊鑑寺尼僧、2世・普賢院宮光山宗栄尼大禅師(1658-1721、第111代・後西天皇皇女)、3世・転輪院宮祥山宗真尼大禅師(1715-1763、第112代・霊元天皇皇女)、4世・成等覚院歓山宗恭尼大禅師(1769-1821、閑院宮典仁親王息女)の墓が立つ。
◆椿 境内に30種以上の椿の名木、原木がある。多くは江戸時代、寛政年間(1789-1800)に植栽された。
 後水尾天皇遺愛の樹齢300年以上の巨木「日光椿(じっこう-つばき)」(京都市天然記念物)は、濃い朱紅の「唐子咲」の中心に同色の雌蕊がある。小さな花弁状になり円形にまとまる。園芸品種の原木に準じている。樹高は6.96m、東幹と西幹に分かれ、幹周りは地上0.5mで東幹0.94m、西幹0.75mある。幹は全体で10本の大枝に分かれる。
 2世尼宮による挿し芽の「奴(やつこ)椿」。光格天皇妃の挿し芽の「白牡丹椿」は白色半八重大輪が植えられている。雄蕊が淡い黄色の「月光(がっこう)」がある。
 そのほか、淡紅色の「霊鑑寺散椿」、赤い花弁に白色の班のある「舞鶴椿」などもある。千重白色中輪で雄蕊が花弁になった「衣笠椿」、一重大輪の「蝦夷(えぞ)錦椿」。「有楽(うらく)、「散」、「永楽」、「熊谷」、「曙」、「獅子頭、「嵯峨」、「小桜」、「黒」、「風折」、「縮緬」、「菱唐糸(ひしからいと)」、「雪」、「雪中花」、「衣笠」、「白玉」、「不知火(しらぬい)」、「羽衣」、「孔雀」、「肥後」、「ロールフローラ」、「ルチェンシス」、ナツツバキなどがある。見頃は2月中旬という。
◆樹木・花暦 梅(樹齢300年の八重紅梅、枝垂れ梅)、桃、桜(山桜、八重桜)、雪柳、霧島躑躅、平戸躑躅、沙羅双樹、紫陽花、夾竹桃、オカトラノオ、山梔子、楓、山茶花がある。
 オガタマノキが植えられている。
◆妙見めぐり 山門の石段の左手(北側)に、妙見堂がある。洛陽十二支妙見めぐりの第4番札所であり、妙見菩薩像と如意不動(石不動尊)が合祀されている。「鹿ヶ谷の妙見さん」とも呼ばれている。
 洛陽十二支妙見めぐりは、奈良時代以来のもので、京都御所紫宸殿を中心に、十二支の方角にそれぞれ妙見宮を祀った。これらを順番に巡り、福寿開運などを祈願した。妙見菩薩は北極星、北斗七星を神格化し、宇宙万物の霊気を司る霊験あらたかな菩薩とされている。鎮宅霊符神、玄武神として鎮護国家の守り本尊とされた。
 江戸時代には、貴族から庶民にまで広く信仰される。江戸時代初期、能勢では妙見信仰が隆盛になり、目の神、水商売の神として信仰された。江戸時代中期には、御所を中心にした妙見めぐりが盛大になり、文政年間(1818-1830)、洛陽二十八宿妙見が登場した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により衰退する。近年、1986年、京都市内の日蓮宗寺院を中心にして「洛陽十二支妙見会」が生まれ、干支めぐりが復活する。霊鑑寺の妙見堂は、唯一の臨済宗南禅寺派の寺になる。参拝の順番は、自分の干支からでも、その年の干支からでもよいという。
◆年間行事 6世・寛禎祖円尼御祥忌(1月9日)、5世・歓喜王院御祥忌(1月21日)、開山浄法身院御祥忌(2月5日)、2世・普賢院御祥忌(3月2日)、涅槃会(3月15日)、春季彼岸会(3月23日)、誕生会(4月8日)、7世・徳全祖英尼(4月9日)、盂蘭盆会(8月13日-15日)、後水尾天皇(8月19日)、8世・玉鳳凰祖心尼御祥忌(9月18日)、秋季彼岸会(9月22日)、達磨忌(10月5日)、3世・転輪院宮御祥忌・4世・成等覚院宮御祥忌(11月19日)、成道会(12月8日)、南禅開山大明忌(12月12日)。
 例月祝聖(毎月1日、15日)。春秋に特別拝観(限定の御朱印授与)がある。


*通常非公開、春と秋に特別公開。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『尼門跡寺院の世界』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京の古都から 17 霊鑑寺』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 中』、『京都大事典』、『京都の寺社505を歩く 上』、『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』、『京の尼寺 こころの旅』、『古都の尼寺』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都秘蔵の庭』、『拝観の手引』、『第47回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』、『名庭 5 京都尼寺の庭』、『京都四季の庭園』、『京都隠れた史跡100選』、『古都歩きの愉しみ』、『京都 神社と寺院の森』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京の福神めぐり』、『京都の隠れた御朱印ブック』、『週刊 京都を歩く 4 銀閣』、『週刊 日本庭園をゆく 4 銀閣寺』 、ウェブサイト「コトバンク」


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ローゼフローラ

土蔵

樹齢330年という大楓

茶室「洗心亭」



【参照】境内南にある「此奥 俊寛山荘地」の石標

【参照】「俊寛僧都忠誠之碑」、三條實孝書
妙 見 堂

妙見堂、不動堂

「不動堂」扁額

「妙見堂」扁額

卯の置物

霊鑑寺 〒606-8422 京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町12番地   075-771-4040
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