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宝慈院 (京都市上京区) Hoji-inTemple |
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宝慈院 | 宝慈院 |
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尼門跡寺院の宝慈院(ほうじ-いん)は、千代野御所(ちよの-ごしょ)、千代野寺ともいわれた。山号は樹下山(じゅげ-ざん)という。京都尼五山の一つ。 かつては臨済宗相国寺派に属し、いまは禅宗(臨済宗)単立寺院になる。本尊は阿弥陀如来坐像を安置している。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 鎌倉時代、無外如大(むげ-にょだい、1223-1298)が洛北・松木嶋に営んだという資寿院の後身ともいう。(寺伝)。無外如大を開基として創建された。当初は、樹下山資樹院(じゅげざん-しじゅいん)と称したという。大寺(大刹)を建立し、京都尼五山の筆頭・景愛寺(西五辻東町)と称したとも、景愛寺塔頭の一つ資樹院だったともいう。当初は臨済宗相国寺派だった。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)以後、景愛寺は廃絶した。資樹院を整備し、宝慈院と改称したともいう。景愛寺の本尊を遷したともいう。 江戸時代、四十八所の阿弥陀仏霊場の一つに数えられた。 1711年、千代野御所として記されている。(『山城名勝志』) 1741年、千代野御所として記されている。(『増補再板京大絵図』) 宝暦年間(1751-1763)、比丘尼(びくに)御所に列した。 1764年、摂政の命により、千代野御所の称を贈られた。(「六条家文書」)。北朝第1代・光巌天皇皇女・華林恵厳(かりん-えごん)尼が住持の時、如大尼の幼名・千代野姫に因み「千代野御所」と号し、紫衣も許されたともいう。 1788年、天明の大火で焼失した。その後、現在の本堂などが再興された。 ◆無外 如大 鎌倉時代前期-後期の臨済宗の尼僧・無外 如大(むげ/むがい-にょだい、1223?-1298?)。女性。幼名は千代野(能)?、号は景愛、無著(むじゃく)。父・鎌倉幕府の御家人・安達泰盛。武将・金沢(北条)顕時(かねざわ-あきとき)の妻の一人だったという。東福寺・円爾(聖一 国師)に師事した。1279年、中国明州よりの臨在僧・無学祖元(むがく-そげん)に鎌倉で師事した。1285年、鎌倉幕府の政変、霜月騒動で安達一族が滅亡し、夫の配流に伴い得度したという。1286年、師の没後、尼寺・正脈庵(後の真如寺)を開く。京都尼五山の筆頭・景愛寺の開山とされ、臨済宗最初の正規の尼という。75歳?。 景愛寺は、本隆寺境内にあったともいう。宝慈院に頂相、坐像が残されている。東福寺で修業をしている時、ほかの僧が如大が美しすぎて修業に専念できないと抗議したため、自ら焼火箸で頬を傷つけたという。坐像にもその傷跡がある。 ◆華林 恵厳 南北朝時代の臨済宗の尼僧・華林 恵厳(かりん-えごん、?-1386?)。女性。父・北朝第1代・光厳天皇。臨済宗の夢窓疎石により落飾、比丘尼御所・宝鏡寺を開山したともいう。景愛寺塔頭・宝慈院で景愛寺6世。応安年間(1368-1375)、景愛寺子院の建福尼寺を西山宝鏡寺に改め、第1世になる。 ◆仏像・木像 収蔵庫に廃絶した景愛寺の寺宝が遷されている。 ◈本尊の木造「阿弥陀如来坐像」(284.6㎝)(重文)は、平安時代末期の作であり、景愛寺の旧仏ともいう。丈六仏、蓮華座に結跏趺坐、上品上生の定印を結ぶ。 二重円光、皆金色、寄木造。 ◈脇壇の「無外如大坐像」(73.2㎝)(重文)は、鎌倉時代作になる。頂相(尼僧の彫刻)で景愛寺より遷された。曲椂(きょくろく)に坐して禅定印を結ぶ。写実的な表現がなされている。尼僧の肖像彫刻の作例は少なく、逸品といわれている。 東福寺で修業をした際に、ほかの僧が如大が美しすぎて修業に専念できないと抗議した。このため、自ら焼火箸で頬を傷つけたという。坐像にもその傷がある。 ◈無外如大の師・「仏光国師像」(無学祖元、1226-1286)も安置する。室町時代作であり塑像になる。 ◆千代野御所 千代野御所の呼称について、無外如大尼の幼名・千代野姫に因むともいう。ただ、如大尼の幼名・千代野(能)については、俗称ともいわれている。 また、室町時代の御伽草子『千代野物語』に登場する、禅の悟りを開く女性の名と混同されたともいう。 ◆比丘尼御所 比丘尼(びくに)御所は、江戸時代に、皇女、王女、公卿、貴紳の娘などで出家した者が住職になった尼寺をいう。 宝慈院では、南北朝時代の北朝第1代・光巌天皇皇女・華林恵厳尼の入寺以降、皇女、王女、公卿の日野家、日野家支流の者の入寺が続いた。江戸時代中期、宝暦年間(1751-1763)に比丘尼御所になった。 ◆最愛寺 最愛寺は、鎌倉時代後期、1285年に無外如大が創建した。千本五辻、智恵光院上立売(本隆寺付近)、松の木島(木ノ下)にあったともいう。 後、尼五山の第一位になる。足利氏の庇護により、室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)の頃まで栄える。宝慈院は、最愛寺の支院の一つだった。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『尼門跡寺院の世界』、『京都・山城寺院神社大事典』、『日本仏教をゆく』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『仏像を旅する 京都』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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