松尾大社・松尾山 (京都市西京区) 
Matsunoo-taisha Shrine
松尾大社 松尾大社
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榊の束、脇勧請(わきかんじょう)




楼門


楼門に杓子がかけられているのは、杓子がご飯をすくうことから「救う神」の信仰となったとみられている。




手水舎








ヤマブキ


モミジ


サクラ


ヤマブキ



拝殿








本殿、拝所



本殿


     火雷神=大山咋神?


本殿


本殿


本殿背後の大岩



本殿背後の山







葵殿



全国の酒造業者から献納された酒樽



杉玉



曲水の庭


即興の庭


上古の庭立石は祭神を表す。


蓬莱の庭




神紋、フタバアオイ


【参照】フタバアオイの花、葉


三宮社、祭神は玉依姫命、四大神社(しののおおかみのやしろ)は、春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神。滝御前は罔象女神。


衣手社の祭神は羽山戸神、一挙神は一挙神、金刀比羅社は大物主神、祖霊社はゆかりの功労者を祀る。


穴の開いた酒樽にめがけ矢を射てて吉凶を占う


撫で亀さん、当社では亀を神使としており、この亀を撫でると健康長寿になるという。


幸運の双鯉、恋愛成就、夫婦円満、立身出世


幸運の撫で亀、寿命長久、家庭円満



重軽石、石を持ち上げ願をかける。もう一度持ち上げ、当初より軽く上がれば願いがかなう。重ければ成就は難しいという。



舟渡御に使われる駕輿丁船(かよちょうぶね)


お酒の資料館


松尾山からの遠景、手前は桂川、広隆寺、木島神社なども見える。


松尾山中腹にある水源の水元、霊亀(れいき)の滝と御手洗川もここから発する。


相生の松の古株


椋の霊樹


松尾大社の東を流れる桂川、桂大橋付近には、江戸時代、桂の渡しといわれる舟が出ていた。


境内を流れる二ノ井川、秦氏の開削による。
 桂川の西、松尾山(230m/223m)の麓に位置する松尾大社(まつのお/まつお たいしゃ)は、境内12万坪(396694㎡)を有している。
 京都市最古の神社の一つといわれている。かつて、皇都鎮護の神として祀られた。境内に山吹が咲くことから「山吹の社」とも呼ばれる。 
 主祭神は山神の大山咋神(おおやまくいのかみ)、相殿神には、福岡宗像大社の三女神の一人で海上守護の神の中津島姫命(なかつしまひめのみこと、市杵島姫命)を祀る。洛西の総氏神であり、酒造技術を伝えた渡来系氏族・秦氏に由来し、酒造の神(醸造祖神)になる。旧官幣大社。
 神仏霊場会第87番、京都第7番。「四神相応の京 京都五社めぐり」の西、白虎にあたる。 
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「葛野郡 二十座 大十四座小六座」の「松尾神社」に比定されている。 名神大社。平安時代、1081年に確定した二十二社の制の上七社の一つ。
 酒業・味噌・醤油業繁栄、商売繁盛、開拓、治水、土木、建築、商業、文化の神、安産、家内安全、延命長寿、交通安全、航海安全、開運厄除、亀の井は、酒の醸造の腐敗を防ぐとされ、書道・茶道上達、長寿、禁酒祈願などの信仰がある。
◆歴史年表 古くより、松尾山(別雷山)山頂の磐座(いわくら)の神霊が崇敬されていた。
 飛鳥時代、701年、渡来系氏族・秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山大杉谷の磐座を松尾山麓に遷座し、社殿を創建した。その娘・知満留女(ちまるめ)が斎女(いつきめ)になり奉仕したという。(『伊呂波字類抄』)。以後、奏氏神になり、秦氏子孫が社家に就いたという。また、秦忌寸都理は、筑紫・胸形(むなかた)神社の中都大神(市杵島姫命)を松尾に迎え、神殿を創建したという。(『秦氏本系帳』『江家次第』)
 奈良時代、712年、「大山咋神(おおやまくいのかみ)、またの名は山末の大主神、この神は近江淡海の日枝山に坐す。また葛野の松尾に坐す鳴鏑(なりかぶら)に用(なりませる)る神ぞ。」とある。(『古事記』)
 718年、社官に秦氏の秦忌寸都駕布が奉仕し、以来、その子孫が務めた。(『秦氏本系帳』)
 730年、朝廷より大社の称号を許された。(『年中行事秘抄』『伊呂波字類抄』)
 784年、第50代・桓武天皇は、長岡京への遷都を奉告している。神階従五位以下に叙せられる。社殿の修理が行われた。(『続日本紀』)
 786年、従四位下に叙せられた。(『続日本紀』)
 平安時代、794年、松尾社の神階を加えられた。(『続日本紀』)。平安京遷都後、賀茂社と並ぶ王都守護(王城鎮護)の神とされ、「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と謳われた。
 796年、新銭を鋳造し奉る。(『日本後紀』)
 847年、従三位の神階になる。(『続日本紀』)
 852年、正二位になる。(『日本文徳天皇実録』)
 856年、大極殿、松尾神社において、僧250人が3日間にわたり大般若経を読経し災厄を祓う。(『日本文徳実録』)
 859年、従一位になる。(『日本三代実録』)
 866年、正一位になる。(『日本三代実録』)
 870年、葛野鋳金所で新銭が鋳造され、貨幣を奉り祈念する。(『日本三代実録』)
 昌泰-延喜年間(898-923)、朝廷より格別の崇敬を受けた十六社の一つに選ばれた。(後の二十二社の制)
 1004年、第66代・一条天皇が参詣し、以後、歴代天皇(平安時代の第69代・後朱雀天皇、第71代・後三条天皇、第73代・堀河天皇、第75代・崇徳天皇、第76代・近衛天皇、平安時代末期-鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇、鎌倉時代の第84代・順徳天皇)の参拝が続いた。(『日本紀略』『扶桑略記』『十三代要略』)
 1081年、確定した二十二社の制の上七社の一つになる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)中頃まで、13の荘園を有していた。上七社の一つに数えられた。中世以降、酒造りの神として信仰された。
 鎌倉時代、1212年、歌合が行われる。(『拾遺愚草』)
 1213年、歌合が行われた。(『明月記』)
 1222年、火災になる。(『皇年代略記』)
 1229年、神輿を迎え、船8艘が用意され、渡す間、西七条の拾人らが神船に乗る。(『明月記』)
 1245年、仮殿遷宮される。(『百錬鈔』)
 1285年、焼失した。(『一代要記』)
 1287年、仮殿遷宮が行われた。(『続史愚抄』)
 南北朝時代、1338年、足利直義は神主に国家安全を祈念させる。(「史料集文書篇」一)
 1351年、足利尊氏は2度にわたり大般若経を転読し、敵徒退治を祈らせた。(「史料集文書篇」)
 1353年、北朝は松尾社に社領丹波雀部庄を安堵する。(「東文書」)
 1355年、尊氏は戦勝を祈念させる。(「史料集文書篇」一)
 室町時代、1393年、仮殿上棟になる。(「史料集文書篇」二)
 1397年、仮殿遷宮になる。(「史料集文書篇」二)。現在の本殿が建てられた。
 1458年、今井用水を巡り、松尾大社は近郷11荘の不法(新溝掘削)を幕府に訴える。
 1542年、現在の本殿が大修理されている。
 1550年、正遷宮が行われる。(『言継卿記』)
 1569年、幕府は社領、境内、山林を安堵する。(「史料文書篇」一)
 豊臣秀吉(1536/1537-1598)は、本社に933石、旅所に145石を寄進した。
 江戸時代、1615年、徳川家康は、山城松尾社領、松尾旅所を寄進する。(「史料集文書篇」一)
 1852年、正遷宮が行われた。(『公卿補任』)
 1866年、松尾祭が復活する。(『公卿補任』)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏棄釈により神宮寺が廃された。
 1871年、官幣大社松尾神社になった。(「史料集文書篇」三)。松尾社ともいわれた。祠職の秦氏世襲(33家)が廃止される。(『山城志』)
 現代、1950年、松尾神社より「松尾大社」と改称する。
 1975年、現代の作庭家・重森三玲により庭園の作庭が行われる。
 1978年、祖霊社が創建される。
 1980年、楼門、築地塀が改修される。
 1984年、晴明館が竣工になる。
 1986年、神庫、神輿庫、授与所などが改修される。
 1994年、大鳥居が竣工になる。京都国立博物館より三神像が戻り、宝物館で一般公開される。
 2006年、神饌田、御田植式が再興される。
 2010年、境内より17体の男女神像が新たに発見される。
 
2013年、本殿背後に新たに大岩が確認された。
松尾山・磐座 松尾(まつのお/まつのを)は、「祭尾(まつりお)」であり、「祭りの尾根」の意味があるともいう。
 境内の背後に位置している神体山の松尾山(まつおやま、223m)は、別名を「別雷山(わけいかづちやま)」、「雷山」、「分土山(わけつちやま)」ともいう。山は広大で七谷に別れている。大杉谷には霊亀の滝がある。西芳寺、華厳寺も山麓に当たる。 
 山頂付近大杉谷には、古くより信仰されていた日埼峰(ひざきみね、日崎の峰)の巨石・磐座(いわくら、ご神蹟跡、御鎮座場)がある。磐座は、神の座す場であり、大山咋神、中津島姫命が祀られている。
 奈良時代、701年、渡来系氏族・秦忌寸都理(はたのいみきとり)は、この磐座を松尾山麓に遷座し、社殿を創建した。その娘・知満留女(ちまるめ)が斎女(いつきめ)になり奉仕したという。これが当社の始まりになったという。
◆大山咋神・秦氏 日吉大社(滋賀県大津市坂本)東本宮の祭神は、大山咋神(山末之大主神、やますえのおおぬしのかみ)であり、当社とのゆかりも深い。
 『古事記』には、大山咋神は、近淡海日枝大と松尾山に坐すとされた。大山咋神(山末之大主神)は、比叡山にもまた鎮座し、葛野の松尾に鳴鏑を用いる神であり、丹波の湖を裂いて大地を生んだ鋤をご神体とする松尾の神、また、一つだった松尾山と嵐山の亀山を裂いて、二つの山(分度山)にした神ともいう。
 大山咋神は松尾山に鎮座し、山城、丹波での開発を手掛けたという伝承は、朝廷の依頼により、秦氏が4世紀以降の山背国、さらに丹波国桑田郡(亀岡市)で行った開発に重なるともみられている。
 秦氏は、古墳時代、216年に弓月君(ゆづきのきみ、融通王)が朝鮮半島の百済から、百二十県の人々を率いて渡来したことに始まるという。(『日本書紀』)。また、加羅(伽耶)、新羅からの渡来人を祖にするともいう。土木、機織、養蚕、酒造などに優れた技術集団だった。
 平安時代、794年、第50代・桓武天皇による平安京遷都に伴い、秦氏の財政的な援助があったとみられている。造営大夫には藤原小黒麻呂(733-794)が就いた。その妻は太秦嶋麻呂の女になる。
◆賀茂社 松尾大社と賀茂社の関係により、秦氏と賀茂氏との姻戚関係(秦氏が賀茂氏の婿を取る)が成立したともいう。平安京の守護神は「賀茂の厳神、松尾の猛神」と呼ばれ、二神は山背国の開拓に関わった古代豪族の神だった。秦氏を祀る「三所大明神(松尾、上賀茂、下鴨)」と称されていた。
 秦氏の女(むすめ)が、葛野河(桂川)で洗濯していると丹塗矢が流れてきた。それを取っておくと松尾大明神になったという。これは、賀茂伝説と酷似した伝承になる。書かれている『秦氏本系帳』と、賀茂氏の『山城国風土記』逸文の内容は類似する。
 当社でも、賀茂社と同じく御阿礼神事行われていたとみられる。祭礼には葵と桂の葉が使われている。八朔祭では、大山咋神が御子神・別雷神に見せるために行ったという「八朔相撲」が奉納される。
 松尾山は別雷神ともいわれ、境内には御手洗川が流れ、葵殿が建てられている。神紋は賀茂社と同じく双葉葵、祭礼には賀茂祭と同じく葵と桂が用いられている。
◆摂末社 摂末社は31社ある。「松尾七社」としては、本社、境内・四大神社(しののおおかみのやしろ)(祭神・春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神)、境内・三宮神社(祭神・玉依姫命)、境内・衣手(ころもで)神社(祭神・羽山戸神)、境外・月読神社(延喜式内社)、境外・櫟谷(いちだに)神社(延喜式内社)、宗像神社がある。神幸祭には七社より神輿・唐櫃が出幸する。
 ほかに、境内・一挙社(祭神・一挙神)、金刀比羅社(祭神・大物主神)、祖霊社(祭神・ゆかりの功労者)、滝御前(祭神・罔象女神)などを祀る。
◆空也・六斎念仏踊り 1000年の歴史を持つ、空也(903- 972)が始めた踊躍念仏を起源とする六斎念仏踊りが、八朔祭に奉納されている。
 空也と松尾大明神に関わる伝承がある。ある日、空也は暑い盛りに寒さに震える老人に出会った。空也は、法華経を唱え、垢まみれの衣を贈ったという。その老人(松尾大明神)は、これに喜んだ。空也に踊り念仏を勧め、鉦と太鼓を贈り、生涯の守護を告げて消えたという。(江戸時代の『空也上人絵詞伝』)
 かつて、空也創建の六波羅蜜寺には、鎮守社として松尾大明神を祀る社があったともいう。
◆神像 ◈「神像」3体(90cm-100cm(重文)がある。等身大坐像であり、日本で最も古い神像といわれる。平安時代初期(9世紀後半)に造られた。一木造。
 ◈「老年像」は、木像男神坐像のうち一つになる。主祭神・大山咋神とされる。仏教式の結跏趺坐をしており、上半身は漢人風の服装、頭に冠を被った翁像になる。
 ◈「壮年像」は、摂社・月読(つきよみ)神社の祭神・月読尊(つきよみのみこと)であり、縫脇の袍をつけて座る。衣紋は翻波式になる。
 ◈同じく韓服の「女神坐像」は、中津島姫命とされている。
 これらは、神仏習合期の密教美術の影響を受けているといわれる。平安時代の天台宗僧の智証大師(円珍、814-891)の造立で、かつては境内にあった神宮寺に安置されていた。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、京都国立博物館に遷され、1994年に返還された。
 ◈17体の「男女神像」(30cm-40cm)は、平安時代後期(12世紀後半)-鎌倉時代(14世紀)の作とみられている。現代、2010年に境内から発見された。このうちの3体の神像の表情は微笑んでおり、その古い例とみられる。
 ◈別の「女神像」(33.6cm)は、像の底に平安時代「康治二年(1143年)」と、制作者の銘があった。近代に入り、周辺の末社より遷されたという。胸の前で手を合わせている。
◆建築 釣殿、中門、回廊、神庫、拝殿、楼門などは江戸時代初期の建造による。
 ◈「本殿」(重文)は、室町時代初期、1397年に建立された。室町時代、1542年に大修理されている。内部は、外陣、内陣、後陣がある。外陣外回りの柱間に板唐戸、内陣との間に蔀戸がある。宝相華唐草を彫る蟇股、斗組、手挟にも彫刻を施している。本殿、神前の扉、堅框中央金具に神紋のフタバアオイをあしらった意匠がある。
 松尾造といわれ、流造の屋根の庇(3間)を後方に伸ばした三間社両流造になる。切妻造に似ている。大棟を箱棟にし、両端を唐破風形にした特殊なものといわれている。松尾造は、本社以外には宗像神社、厳島神社にしか見られない。3間4間、三間社、両流造(松尾造)、桧皮葺。
◆文化財 古文書類も多く、4000点余りある。
◆庭園 庭園は、現代の作庭家・重森三玲(1896-1975)の最晩年、1975年の作庭による。総監督は岡本幸男による3つの庭がある。それぞれ「上古の庭」(飛鳥時代以前)、「曲水の庭」(平安時代)、「即興の庭」(鎌倉時代)の三時代を表現したという。石は、徳島、香川、愛媛の緑泥片岩を用いた。
 ◈「上古の庭」は、松尾山に対峙して造られた。実際には庭園ではなく、石組により神々を表したという。徳島県吉野川の棒状の巨石・青石(緑泥片岩)の石が立てられ、熊笹(ミヤコザサ、丹波笹とも)中に組まれている。これらにより、磐座(いわくら)、磐境(いわさか)が表現され、松尾山の山中にある神蹟の磐座に呼応しているという。磐座は、18tという巨石9石により、その中心に祭神の大山咋神、中津島姫命を表す2石が立てられている。その下には、結界になる磐境の石が並べられている。
 ◈葵殿前の「曲水の庭」は、平安王朝風の庭になる。背後には松尾山がある。洲浜、曲水、築山のサツキの大刈り込みにより構成されている。石は約200個が据えられている。吉野川の青石(緑泥片岩)の小石が敷き詰められた石張りの曲水には、松尾山から流れる御手洗(みたらし)川の流れが引かれている。流れには石橋が架かる。
 築山と石組みにより巨大な亀が表現されている。築山には複数の三尊石が組まれる。築山には3本の出島があり石が立てられ、先に岩島が据えられている。
 雛祭り(3月3日)には雛流しが行われている。
 ◈「即興の庭」は、宝物殿と葵殿の間にある狭い中庭を利用した。枯山水式で、当初の計画にはなく即興的に造られたという。
 緑泥片岩の石組、白川砂、赤い錆砂利によって構成され、三玲の竹垣が配されている。
 ◈池泉式の「蓬莱(ほうらい)の庭」は、蓬莱神仙の世界が表現されている。三玲は鶴の形の池を指示した。1975年に三玲の没後、長男・完途が遺志を継ぎ完成させた。近代初めに造られた池庭があり、それを利用して新たに造られている。鎌倉時代の回遊式庭園から着想されたという。
 緑泥片岩の立石の石組による。モルタル護岸の四神仙島、岩島、池、島、舟石、刈込みが組み合わされている。石柱が林立した龍門瀑形式の滝組では、鯉魚石までもが完全に立石として組まれた。
 春と秋にライトアップされている。
◆文学 平安時代の清少納言(966頃-1025頃)は『枕草子』中で、「神は松の尾」と松尾神を第一に挙げた。
◆名水 当社の神使は亀と鯉とされ、松尾の神が開拓の際に川を遡る時、急流では鯉に乗り、緩流では亀に乗ったと伝えられている。
 ◈霊泉「亀の井」は、松尾山を水源とする。本殿の東北隅にある。醸造神として信仰されている。
 奈良時代、733年、御手洗谷より霊泉が湧いたという。水は諸病に効き、「延命長寿、よみがえりの水」といわれた。茶の湯、書道にも用いられた。いまも、醸造の元水として造り水に加えられているという。醸造の際に、この井水を加えると酒が腐らないといわれている。
 ◈「霊亀(れいき)の滝」が、松尾山より流れている。酒の神として知られている。
 奈良時代、715年、この谷から亀が現れた。首に3つの星、背に7つの星のある黄金色をしており、朝廷に献上されたという。元号も、「目出度い吉兆」として霊亀(715-717)に改められたという。
◆酒 酒の醸造技術は5世紀に、「秦造(はたのみやつこ)の祖」、「漢直(あやのあたえ)の祖」などにより伝えられたとみられている。
 境内にはお酒の資料館がある。
 なお、大山咋神が酒の神として崇敬されたのは、室町時代以降という。 
◆古墳 松尾山西麓には、古墳時代、6世紀終わり-7世紀初めの後期古墳群の松尾山支群があり、秦氏との関わりもあるとみられている。
 また、松尾山古墳群として、5基の円墳があり、横穴式石室がある。これらも関連しているとみられている。
◆嵯峨野六斎念仏 境内で、空也系の嵯峨野六斎念仏踊りが奉納されている。六斎とは、仏教の六斎日(8日、14日、15日、23日、29日、晦日6日)のことで、この日には悪鬼が現れ、人命を脅かす不吉な日といわれ、事を慎み功徳を積む日とされた。飛鳥時代、691年に『日本書紀』に記されているという。
 室町時代、1567年の『言継卿記』には、六斎の団体が組まれ、踊りが行われていたと記されている。1977年、「京都六斎念仏保存団体連合会」が結成され、踊りの継承が行われている。1983年に国指定重要無形文化財に指定された。
 嵯峨野六斎は、能、長唄、歌舞伎などに題材を求めた芸能六斎になっている。
◆贄殿 平安時代、1017年、公卿・藤原実資(957-1046)は、臨時の奉幣の事で松尾使として、藤原道綱、藤原斉信らと藤原道長の桂山庄を訪れた。この時、牛車で大井川(大堰川)に到り、ここより南行、贄殿(にえどの)辺で乗船し、対岸に渡り、さらに南下して山荘に着いたという。(『小右記』)。
 贄殿は松尾橋付近にあったという。ここでは、朝廷に献上するための贄(魚、鳥などの食糧)の貯蔵、調理を行っていた。
◆映画 現代劇映画「蔵」(監督・降旗康男、1995年、東映ほか)の撮影が行われた。酒屋の田乃内意造(松形弘樹)は、蔵を引き継ぐ失明した一人娘の烈(一色紗英)と松尾大社を参詣し、酒造の成功を祈願する。
◆一ノ井川 
境内の一ノ井川は、秦氏により用水として造られた。後代の明智光秀、角倉了以も改修した。
 また、同じく桂川から取水している桂川西一帯を潤す今井用水は、室町時代に引かれた。
◆花暦 境内の川沿いに3000株の山吹が植えられている。黄色のほかに、白山吹もある。
 ヤマブキ(3-5月)、アジサイ(6-8月)、紅葉(11月)。
◆植物・樹木 境内にカギカツラ野生地(京都市指定天然記念物)がある。南方系の常緑、つる性木本であり、沢筋を中心に分布している。植生の北限とみられ、京都府の絶滅危惧種に指定されている。
 オガタマノキ、サカキ、ムクノキがある。
 鳥居のサカキの束は、「脇勧請(わきかんじょう)」といわれ、鳥居の原型という。サカキの束は12あるが、閏年には13個になる。サカキの枯れ方により、月々の農作物の出来具合を占った太古の慣習が伝えられている。サカキが完全に枯れると豊作だという。サカキは裏山から採取され、不思議なことに涸れ葉が下に落ちないという。
 
相生の松の古株がある。恋愛成就、夫婦和合の信仰があった。1956年、1957年に相次いで枯死した。樹齢330年。
 
椋の霊樹の古株がある。1993年に枯死した。樹齢800年。
◆松尾祭  ◈「松尾祭(まつおまつり)」は、1000年の歴史を持つ。かつて「松尾の国祭(くにまつり)」といわれた。また、「松尾葵祭」と呼ばれ、宮司、神職の冠、神輿・供奉の人々も葵と桂の葉で飾られる。
 古く神幸祭は、3月中卯(なかのう、うかうかとおい出)、還幸祭は4月上酉(かみのとり、とっととお還り)に行われていた。祭りは、現代、1963年に中絶する。その後、1983年に20年ぶりに復旧し、1996年に船2隻も加えられている。
 現在の神幸祭(出御祭、おいでまつり)(4月20日以降の最初の日曜日)では、「松尾七社」の神輿6基(大宮社、四大神社、衣手社、三宮社、宗像社、櫟谷社)、月読社の唐櫃(からと)に、吉祥院よりの榊御面が届き出座式が行われる。なお、出御還御のいずれでも榊御面が巡行を先導し、中門付近で2本の榊御面で面合わせする。
 本殿前では舞の奉納、出御祭では神輿への分霊奉安の神事、拝殿廻しが行われる。なお、月読社が神輿ではなく唐櫃なのは、かつて桂川の氾濫により神輿が流出して以来という。
 その後、神輿(1t、50-60人)は、松尾、桂を巡行する。嵯峨街道を南下し、物集女(もずめ)街道に入り、千代原口を右折して桂大橋上流の桂川(上流300mの右岸、川幅300m)に至る。ここで、神輿6基を止めて川原御饌が行われる。唐櫃を駕輿丁船(かよちょうぶね)に載せ渡河(舟渡御、川渡り)する。神輿も一艘に1基を載せて渡河し、舟渡御は全体で2時間を要する。
 西七条御旅所には4基の神輿・唐櫃、川勝寺(せんしょうじ)・郡(こおり)の末社(右京区)には、2基の神輿がそれぞれ御渡し駐輦する。
 21日後の還幸祭では、神輿が西寺跡の旭の杜に集合し、粽(ちまき)、赤飯の神饌を供える。これらは、粽講、赤飯座の当屋(とうや)が奉仕する。松尾大橋を渡って本社に帰幸(還幸祭、おかえりまつり)する。
◆祭礼 ◈「八朔(はっさく)祭」は、陰暦8月1日に行われていた。風雨安泰、五穀豊穣を祈願した。
 現在は9月第1日曜日に催されている。鎌倉時代から続く神事相撲、空也系の嵯峨野六斎念仏踊りの奉納、やまぶき会による女神輿巡行、献灯などがある。
 ◈「御田植祭(おんたさい)」(7月第3日曜日)は、10歳前後の少女による植女(うえめ)が奉仕される。下津林、松尾、嵐山地区より選ばれる。稲苗移植の式が行われ、植女は壮夫(ますらお)の肩に乗り拝殿を3周する。植女は稲苗を散布し、人々は苗を競って授かる。これを田畑に植えると虫害を防ぐことができるという。
◆年間行事 金剛流謡曲・仕舞奉納(1月1日)、書初め会(1月2日)、干支祝寿祭(1月3日)、石見神楽奉納(2月節分)、中酉祭(ちゅうゆうさい、醸造感謝祭)(4月中酉日)、山吹まつり(4月10日-5月5日)、神幸祭(4月20日以降の最初の日曜日)、還幸祭(神幸祭から21日目の日曜日)、大祓祭(6月30日)、御田植祭(7月第3日曜日)、八朔祭(9月第1日曜日)、上卯祭(じょううさい、醸造祈願祭)(11月上卯日)、新嘗祭(11月23日)、拝殿に干支の大絵馬の設置(版画家・故井堂雅夫作、高さ3.2m×幅5.5m、厚さ15㎝、重さ90kg。)(11月下旬-翌年1月末)、天長祭(12月23日)、大祓彩・除夜祭(終夜開門)(12月31日)。


*年間行事は中止、日時、内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*磐座の撮影禁止。受付で地図を案内される。片道約30分。
*参考文献 『松尾大社』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都府の歴史散歩 上』『洛西探訪』『京都滋賀 古代地名を歩くⅡ』『京都の地名検証 3』『京都おとくに歴史を歩く』『京都・美のこころ』『京都の寺社505を歩く 下』『京都大事典』『京都千年 くらしと年中行事』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』『重森三玲 モダン枯山水』『重森三玲 庭園の全貌』『京都ご利益徹底ガイド』『京都絵になる風景』『意外と知らない京都』『京都 神社と寺院の森』『お参りしたい神社百社』『京のしあわせめぐり55』『週刊 神社紀行 21 松尾大社/大原野神社』『週刊 京都を歩く 18 桂・松尾』 、サイト「コトバンク」
 


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松尾山から流れる霊亀(れいき)の滝と御手洗川、滝御前社。

霊泉の亀の井



一ノ井川、ヤマブキ



松尾山から流れる御手洗川

八朔祭、女神輿やまぶき会(9月第1日曜日)

八朔祭、(9月第1日曜日)、嵯峨野六斎念仏踊



【参照】平安時代の松尾社の復元模型、京都アスニー
松尾大社 〒616-0024 京都市西京区嵐山宮町3  075-871-5016  9:00-16:00
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