松尾大社・松尾山 (京都市西京区) 
Matsunoo-taisha Shrine
松尾大社 松尾大社
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榊の束、脇勧請(わきかんじょう)




楼門


楼門に杓子がかけられているのは、杓子がご飯をすくうことから「救う神」の信仰となったとみられている。




手水舎








ヤマブキ


モミジ


サクラ


ヤマブキ



拝殿








本殿、拝所、両流造(松尾造)、室町時代、1397年に建造、1542年に修造された。



本殿


     火雷神=大山咋神?


本殿


本殿


本殿背後の大岩、2013年に確認された。



本殿背後の山




 桂川の西、松尾山(230m)の麓に位置する松尾大社(まつのお たいしゃ)は、境内12万坪を有している。
 京都市最古の神社の一つといわれている。かつて、皇都鎮護の神として祀られていた。平安時代の清少納言は『枕草子』中で、「神は松の尾」と松尾神を第一に挙げた。境内に山吹が咲くことから「山吹の社」とも呼ばれる。 
 主祭神は山神の大山咋神(おおやまくいのかみ)、相殿神は福岡宗像大社の三女神の一人で海上守護の神の中津島姫命(なかつしまひめのみこと、市杵島姫命)。洛西の総氏神であり、酒造技術を伝えた渡来系氏族・秦氏に由来し、酒造の神(醸造祖神)になる。旧官幣大社。
 延喜の制の名神大社、二十二社の制の上七社。神仏霊場会第87番、京都第7番。「四神相応の京 京都五社めぐり」の西、白虎にあたる。 
 酒業・味噌・醤油業繁栄、商売繁盛、開拓、治水、土木、建築、商業、文化の神、安産、家内安全、延命長寿、交通安全、航海安全、開運厄除、亀の井は、酒の醸造の腐敗を防ぐとされ、書道・茶道上達、長寿、禁酒祈願などの信仰がある。
◆歴史年表 古くより松尾山(別雷山)山頂の磐座(いわくら)の神霊が崇敬されていた。
 飛鳥時代、701年、渡来系氏族・秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、磐座を松尾山の麓に遷座し創建した。その娘・知満留女が斎女になり奉仕したという。(『伊呂波字類抄』)。以後、奏氏神となり、秦氏子孫が社家に就いたという。また、秦忌寸都理は、筑紫・胸形(むなかた)神社の中都大神(市杵島姫命)を松尾に迎え、神殿を創建したという。(『秦氏本系帳』『江家次第』)
 奈良時代、712年、「大山咋神(おおやまくいのかみ)、またの名は山末の大主神、この神は近江淡海の日枝山に坐す。また葛野の松尾に坐す鳴鏑(なりかぶら)に用(なりませる)る神ぞ。」とある。(『古事記』)
 718年、社官に秦氏の秦忌寸都駕布が奉仕し、以来その子孫が務めた。(『秦氏本系帳』)
 平安時代、730年、朝廷より大社の称号を許された。(『年中行事秘抄』『伊呂波字類抄』)
 784年、第50代・桓武天皇は、長岡京への遷都を奉告している。神階従五位以下に叙せられる。社殿の修理が行われた。(『続日本紀』)
 786年、従四位下に叙せられた。(『続日本紀』)
 794年、松尾社の神階を加えられた。(『続日本紀』)。平安京遷都後、賀茂社と並ぶ王都守護の神とされ、「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と謳われた。
 796年、新銭を鋳造し奉る。(『日本後記』)
 847年、従三位の神階になる。(『続日本紀』)
 852年、正二位となる。(『日本文徳天皇実録』)
 856年、大極殿、松尾神社において、僧250人が3日間にわたり大般若経を読経し災厄を祓う。(『日本文徳実録』)
 859年、従一位になる。(『日本三代実録』)
 866年、正一位となる。(『日本三代実録』)
 870年、葛野鋳金所で新銭が鋳造され、貨幣を奉り祈念する。(『日本三代実録』)
 1004年、第66代・一条天皇が参詣し、以後、歴代天皇(平安時代の第69代・後朱雀天皇、第71代・後三条天皇、第73代・堀河天皇、第75代・崇徳天皇、第76代・近衛天皇、平安時代末期-鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇、鎌倉時代の第84代・順徳天皇)の参拝が続いた。(『日本紀略』『扶桑略記』『十三代要略』)
 中世(鎌倉時代-室町時代)中頃まで、13の荘園を有していた。中世以降、酒造りの神として信仰された。
 鎌倉時代、1212年、歌合が行われる。(『拾遺愚草』)
 1213年、歌合が行われた。(『明月記』)
 1222年、火災となる。(『皇年代略記』)
 1229年、神輿を迎え、船8艘が用意され、渡す間西七条の拾人らが神船に乗る。(『明月記』)
 1245年、仮殿遷宮される。(『百錬鈔』)
 1285年、焼失した。(『一代要記』)
 1287年、仮殿遷宮が行われた。(『続史愚抄』)
 南北朝時代、1338年、足利直義は神主に国家安全を祈念させる。(「史料集文書篇」一)
 1351年、足利尊氏は2度にわたり大般若経を転読し、敵徒退治を祈らせた。(「史料集文書篇」)
 1353年、北朝は松尾社に社領丹波雀部庄を安堵する。(「東文書」)
 1355年、尊氏は戦勝を祈念させる。(「史料集文書篇」一)
 室町時代、1393年、仮殿上棟となる。(「史料集文書篇」二)
 1397年、仮殿遷宮となる。(「史料集文書篇」二)。現在の本殿が建てられた。
 1458年、今井用水を巡り、松尾大社は近郷11荘の不法(新溝掘削)を幕府に訴える。
 1542年、現在の本殿が大修理されている。
 1550年、正遷宮が行われる。(『言継卿記』)
 1569年、幕府は社領、境内、山林を安堵する。(「史料文書篇」一)
 豊臣秀吉(1536/1537-1598)は本社に933石、旅所に145石を寄進した。
 江戸時代、1615年、徳川家康は、山城松尾社領、松尾旅所を寄進する。(「史料集文書篇」一)
 1852年、正遷宮が行われた。(『公卿補任』)
 1866年、松尾祭が復活する。(『公卿補任』)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏棄釈により神宮寺が廃された。
 1871年、官幣大社松尾神社となった。(「史料集文書篇」三)。松尾社ともいわれた。祠職の秦氏世襲(33家)が廃止される。(『山城志』)
 現代、1950年、松尾神社より松尾大社と改称する。
 1975年、現代の作庭家・重森三玲により庭園の作庭が行われる。
 1978年、祖霊社が創建される。
 1980年、楼門、築地塀が改修される。
 1984年、晴明館が竣工となる。
 1986年、神庫、神輿庫、授与所などが改修される。
 1994年、大鳥居が竣工となる。京都国立博物館より三神像が戻り、宝物館で一般公開される。
 2006年、神饌田、御田植式が再興される。
 2010年、境内より17体の男女神像が新たに発見される。
松尾山・磐座 松尾(まつのお/まつのを)は、「祭尾(まつりお)」であり、「祭りの尾根」の意味があるともいう。
 神体山の松尾山(223m)は、別名を別雷山(わけいかづちやま)、雷山、分土山ともいう。山は広大で七谷に別れている。
 山頂付近大杉谷には、古くより信仰されていた日埼峰(ひざきみね、日崎の峰)の巨石・磐座(いわくら、ご神蹟跡、御鎮座場)がある。磐座は、神の座す場であり、大山咋神、中津島姫命が祀られている。
 また、松尾山には、古墳時代、6世紀終わり-7世紀初めの古墳群の松尾山支群があり、秦氏との関わりもあるとみられている。
◆大山咋神・秦氏 日吉大社(滋賀県大津市坂本)東本宮の祭神は、大山咋神(山末之大主神、やますえのおおぬしのかみ)であり、当社とのゆかりも深い。『古事記』には、大山咋神は、近淡海日枝大と松尾山に坐すとされた。大山咋神(山末之大主神)は、比叡山にもまた鎮座し、葛野の松尾に鳴鏑を用いる神であり、丹波の湖を裂いて大地を生んだ鋤をご神体とする松尾の神、また、一つであった松尾山と嵐山の亀山を裂いて二つの山(分度山)にした神ともいう。大山咋神は松尾山に鎮座し、山城、丹波での開発を手掛けたという伝承は、朝廷の依頼により、秦氏が4世紀以降の山背国、さらに丹波国桑田郡(亀岡市)で行った開発に重なるともみられている。
 秦氏は、古墳時代、216年に弓月君(ゆづきのきみ、融通王)が朝鮮半島の百済から、百二十県の人々を率いて渡来したことに始まるという。(『日本書紀』)。また、加羅(伽耶)、新羅からの渡来人を祖にするともいう。土木、機織、養蚕、酒造などに優れた技術集団だった。
 794年、桓武天皇による平安京遷都に伴い、秦氏の財政的な援助があったとみられている。造営大夫には藤原小黒麻呂(733-794)が就いた。その妻は太秦嶋麻呂の女になる。
◆賀茂社 松尾大社と賀茂社の関係、秦氏と賀茂氏との姻戚関係(秦氏が賀茂氏の婿を取る)が成立したとともいう。平安京の守護神は「賀茂の厳神、松尾の猛神」と呼ばれ、二神は山背国の開拓に関わった古代豪族の神だった。
 秦氏の女(むすめ)が、葛野河(桂川)で洗濯していると丹塗矢が流れてきた。それを取っておくと松尾大明神になったという賀茂伝説と酷似した伝承がある。書かれている『秦氏本系帳』と、賀茂氏の『山城国風土記』逸文の内容は類似する。
 当社でも、賀茂社と同じく御阿礼神事行われていたとみられる。祭礼には葵と桂の葉が使われている。八朔祭では、大山咋神が御子神・別雷神に見せるために行ったという「八朔相撲」が奉納される。
 松尾山は別雷神ともいわれ、境内には御手洗川が流れ、葵殿が建てられている。神紋は賀茂社と同じく双葉葵、祭礼には賀茂祭と同じく葵と桂が用いられている。
◆摂末社 摂末社は31社ある。松尾七社としては、本社、四大(しだい)神社、三宮神社、衣手(ころもで)神社、月読神社(延喜式内社)、櫟谷(いちだに)神社(延喜式内社)、宗像神社がある。神幸祭には七社より神輿・唐櫃が出幸する。
◆空也・六斎念仏踊り 1000年の歴史を持つ、空也(903- 972)が始めた踊躍念仏を起源とする六斎念仏踊りが八朔祭に奉納されている。
 空也と松尾大明神ゆかりの伝承がある。ある日、空也は暑い盛りに寒さに震える老人に出会った。空也は、法華経を唱え、垢まみれの衣を贈ったという。その老人(松尾大明神)は、これに喜んだ。空也に踊り念仏をすすめ、鉦と太鼓を贈り、生涯の守護を告げて消えたという。(江戸時代の『空也上人絵詞伝』)。
 かつて、空也創建の六波羅蜜寺には、鎮守社として松尾大明神を祀る社があったともいう。
◆神像 日本で最も古い神像といわれる平安時代初期(9世紀後半)の等身大坐像の「神像」3体(重文)(90cm-100cm)がある。一木造。
 木像男神坐像のうち「老年像」は、主祭神・大山咋神とされる。仏教式の結跏趺坐をしており、上半身は漢人風の服装、頭に冠を被った翁になる。
 「壮年像」は、摂社・月読(つきよみ)神社の祭神・月読尊(つきよみのみこと)、縫脇の袍をつけて座る。衣紋は翻波式。同じく韓服の「女神坐像」は、中津島姫命とされている。
 これらは、神仏習合期の密教美術の影響を受けているといわれ、平安時代の天台宗僧の智証大師(円珍)造立で、かつては境内にあった神宮寺に安置されていた。神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、京都国立博物館に遷され、1994年に返還された。
 2010年に境内から発見された17体の「男女神像」(30cm-40cm)は、平安時代後期(12世紀後半)-鎌倉時代(14世紀)の作とみられている。このうちの3体の神像の表情は微笑んでおり、その古い例とみられる。
 別の「女神像」(33.6cm)は、胸の前で手を合わせ、像の底に「康治二年(1143年)」と、制作者の銘があった。近代に入り、周辺の末社より遷されたものという。
◆建築 「本殿」(重文)は室町時代初期、1397年建立の松尾造といわれ、桧皮葺の流造りの屋根の庇(3間)を後方に伸ばした三間社両流造になる。切妻造に似ている。大棟を箱棟にし、両端を唐破風形にした特殊なものといわれている。室町時代、1542年に大修理されている。松尾造は、本社以外に宗像神社、厳島神社にしか見られない。桁行3間、梁行4間。
 本殿、神前の扉、堅框中央金具に神紋のフタバアオイをあしらった意匠が施されている。
 釣殿、中門、回廊、神庫、拝殿、楼門などは江戸時代初期の建造による。
◆文化財 古文書類も多く、4000点余りある。
◆庭園 現代の作庭家・重森三玲(1896-1975)、最晩年、1975年の作庭、総監督は岡本幸男による3つの庭がある。それぞれ「上古の庭」(飛鳥時代以前)、「曲水の庭」(平安時代)、「即興の庭」(鎌倉時代)の三時代を表現したという。石は、徳島、香川、愛媛の緑泥片岩を用いた。
 松尾山に対峙して造られた「上古の庭」は、実際には庭園ではなく、石組により神々を表したものという。徳島県吉野川の棒状の巨石・青石(緑泥片岩)の石が立てられ、熊笹(ミヤコザサ、丹波笹とも)中に組まれている。これらにより、磐座(いわくら)、磐境(いわさか)が表現され、松尾山の山中にある磐座に呼応しているという。磐座は、18tという巨石9石により、その中心に祭神の大山咋神、中津島姫命を表す2石が立てられている。その下には、結界となる磐境の石が並べられている。
 葵殿前の平安王朝風の「曲水の庭」には、御手洗川の水が引き入れられている。背後は松尾山がある。洲浜、曲水、築山のサツキの大刈り込みにより構成されている。石は約200個が据えられている。吉野川の青石(緑泥片岩)の小石が敷き詰められた石張りの曲水には、松尾山から流れる御手洗川の流れが引かれ、石橋が架けられている。また、築山と石組みにより巨大な亀が表現されている。築山には複数の三尊石が組まれる。築山に3本の出島があり石が立てられ、先に岩島が据えられている。雛祭り(3月3日)には雛流しが行われている。
 「即興の庭」は、宝物殿と葵殿の間にある狭い中庭を利用している。当初の計画にはなく即興的に造られたという。枯山水式で、緑泥片岩の石組、白川砂、赤い錆砂利によって構成され、三玲の竹垣が配されている。
 池泉式の「蓬莱(ほうらい)の庭」は、蓬莱神仙の世界が表現されている。重森三玲が鶴の形の池を指示した。1975年に没後、長男・完途が遺志を継ぎ完成させた。近代初めに造られた池庭があり、それを利用して新たに造られている。鎌倉時代の回遊式庭園から着想されたという。緑泥片岩の立石の石組による。モルタル護岸の四神仙島、岩島、池、島、舟石、刈込みが組み合わされている。石柱が林立した龍門瀑形式の滝組では、鯉魚石までもが完全に立石として組まれた。春と秋にライトアップされている。
◆名水 当社の神使は亀と鯉とされ、松尾の神が開拓の際に川を上る時、急流では鯉に乗り、緩流では亀に乗ったと伝えられている。
 松尾山を水源とする霊泉・「亀の井」は、醸造の際にこの井水を加えると酒が腐らないといわれている。733年、御手洗谷より霊泉が湧いたという。水は諸病に効き、「延命長寿、よみがえりの水」といわれた。茶の湯、書道にも用いられてきた。いまも、醸造の元水として造り水に加えられているという。
 酒の神として知られている「霊亀(れいき)の滝」が、松尾山より流れている。奈良時代、715年、この谷から首に3つの星、背に7つの星のある黄金の亀が現れ、朝廷に献上されたという。目出度い吉兆として元号も霊亀(715-717)に改められたという。
 酒の醸造技術は5世紀に、「秦造(はたのみやつこ)の祖」「漢直(あやのあたえ)の祖」などにより伝えられたとみられている。境内にはお酒の資料館がある。
 なお、大山咋神が酒の神として崇敬されたのは室町時代以降という。
◆嵯峨野六斎念仏 境内で、空也系の嵯峨野六斎念仏踊りが奉納されている。六斎とは、仏教の六斎日(8日、14日、15日、23日、29日、晦日6日)のことで、この日には悪鬼が現れ、人命を脅かす不吉な日といわれ、事を慎み功徳を積む日とされた。飛鳥時代、691年に『日本書紀』に記されているという。室町時代、1567年の『言継卿記』には、六斎の団体が組まれ、踊りが行われていたと記されている。1977年、「京都六斎念仏保存団体連合会」が結成され、踊りの継承が行われている。1983年に国指定重要無形文化財に指定された。嵯峨野六斎は、能、長唄、歌舞伎などに題材を求めた芸能六斎となっている。
贄殿 平安時代、1017年、公卿・藤原実資(957-1046)は、臨時の奉幣の事で松尾使として、藤原道綱、藤原斉信らと藤原道長の桂山庄を訪れた。この時、牛車で大井川(大堰川)に到り、ここより南行、贄殿(にえどの)辺で乗船し、対岸に渡り、さらに南下して山荘に着いたという。(『小右記』)。贄殿は松尾橋付近にあったという。ここでは、朝廷に献上するための贄(魚、鳥などの食糧)の貯蔵、調理を行っていた。
◆祭礼  かつて「松尾の国祭り」といわれた松尾祭(4月20日以降の最初の日曜日)の神幸祭(おいでまつり)は、1000年の歴史を持つ。神輿の拝殿回しの後、桂大橋上流の桂川で神輿6基、唐櫃が駕輿丁船(かよちょうぶね)に乗り渡河(舟渡御、川渡り)する。西七条御旅所、川勝寺・郡の末社に御渡し、西寺跡の旭の杜に集合し粽の御供、赤飯の神饌を供え、21日後に松尾大橋を渡って帰幸(還幸祭、おかえりまつり)する。祭りは、1983年に20年ぶりに復旧し、1996年に船二隻も加えられている。
 八朔(9月第1日曜日)では、鎌倉時代から続く神事相撲、空也系の嵯峨野六斎念仏踊り、やまぶき会による女神輿巡行、献灯などがある。
 酒の神としては上卯祭(11月)、中酉祭(4月)がある。
◆映画 現代劇映画「蔵」(監督・降旗康男、1995年、東映ほか)の撮影が行われた。酒屋の田乃内意造(松形弘樹)は、蔵を引き継ぐ失明した一人娘の烈(一色紗英)と松尾大社を参詣し、酒造の成功を祈願する。
◆花暦 井川沿いに3000株の山吹が植えられている。黄色のほかに、白山吹もある。
 ヤマブキ(3-5月)、アジサイ(6-8月)、紅葉(11月)。
◆植物・樹木 境内にカギカツラ野生地(京都市指定天然記念物)がある。南方系の常緑、つる性木本であり、沢筋を中心に分布している。植生の北限とみられ、京都府の絶滅危惧種に指定されている。
 オガタマノキ、サカキ、ムクノキがある。
 鳥居のサカキの束は、「脇勧請(わきかんじょう)」といわれ、鳥居の原型という。サカキの束は12あるが、閏年には13個となる。サカキの枯れ方により、月々の農作物の出来具合を占った太古の慣習が伝えられている。サカキが完全に枯れると豊作だという。サカキは裏山から採取され、不思議なことに涸れ葉が下に落ちないという。
◆年間行事 金剛流謡曲・仕舞奉納(1月1日)、書初め会(1月2日)、干支祝寿祭(1月3日)、石見神楽奉納(2月節分)、中酉祭(ちゅうゆうさい、醸造感謝祭)(4月中酉日)、山吹まつり(4月10日-5月5日)、神幸祭(4月20日以降の最初の日曜日)、還幸祭(神幸祭から21日目の日曜日)、大祓祭(6月30日)、御田祭(7月第3日曜日)、八朔祭(9月第1日曜日)、上卯祭(じょううさい、醸造祈願祭)(11月上卯日)、新嘗祭(11月23日)、拝殿に干支の大絵馬の設置(版画家・故井堂雅夫作、高さ3.2m×幅5.5m、厚さ15㎝、重さ90kg。)(11月下旬-翌年1月末)、天長祭(12月23日)、大祓彩・除夜祭(終夜開門)(12月31日)。


*年間行事は中止、日時、内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*磐座の撮影禁止。受付で地図を案内される。片道約30分。
*参考文献 『松尾大社』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『洛西探訪』『京都・美のこころ』『京都の寺社505を歩く 下』『京都滋賀 古代地名を歩くⅡ』『京都の地名検証 3』『京都おとくに歴史を歩く』『お参りしたい神社百社』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』『重森三玲 モダン枯山水』『重森三玲 庭園の全貌』『京都ご利益徹底ガイド』『京都絵になる風景』『洛西探訪』『意外と知らない京都』『京都 神社と寺院の森』『京のしあわせめぐり55』『週刊 神社紀行 21 松尾大社/大原野神社』『週刊 京都を歩く 18 桂・松尾』
 


  関連・周辺月読神社       関連・周辺櫟谷宗像神社       関連・周辺桂川        周辺        関連松尾三宮社       関連松尾大社西七条御旅所        関連上賀茂神社       関連八坂神社        関連城南宮        関連平安神宮       関連大井神社(右京区)        関連大井神社(亀岡市)       関連日吉大社(大津市)        

葵殿


全国の酒造業者から献納された酒樽が積み上げられている.


杉玉

曲水の庭

即興の庭

上古の庭立石は祭神を表す。

蓬莱の庭

神紋は賀茂社と同じフタバアオイ

【参照】フタバアオイの花、葉

三宮社、祭神は玉依姫命、四大神社(しののおおかみのやしろ)は、春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神。滝御前は罔象女神。

衣手社の祭神は羽山戸神、一挙神は一挙神、金刀比羅社は大物主神、祖霊社はゆかりの功労者を祀る。

穴の開いた酒樽にめがけ矢を射てて吉凶を占う

撫で亀さん、当社では亀を神使としており、この亀を撫でると健康長寿になるという。

幸運の双鯉、恋愛成就、夫婦円満、立身出世

幸運の撫で亀、寿命長久、家庭円満

重軽石、石を持ち上げ願をかける。もう一度持ち上げ、当初より軽く上がれば願いがかなう。重ければ成就は難しいという。

舟渡御に使われる駕輿丁船(かよちょうぶね)

お酒の資料館

松尾山からの遠景、手前は桂川、広隆寺、木島神社なども見える

松尾山中腹にある水源の水元、霊亀(れいき)の滝と御手洗川もここから発する。

恋愛成就、夫婦和合の相生の松、樹齢330年。1956年、1957年に相次いで枯死した。

樹齢800年の椋の霊樹。1993年に枯死した。

松尾大社の東を流れる桂川、桂大橋付近には、江戸時代、桂の渡しといわれる舟が出ていた。

境内を流れる二ノ井川、秦氏の開削による。

松尾山から流れる霊亀(れいき)の滝と御手洗川、滝御前社。奈良時代、715年、この谷から首に3つの星、背に7つの星のある黄金の亀が現れ、朝廷に献上されたという。目出度い吉兆として年号も霊亀と改められたという。

霊泉の亀の井



一ノ井川、ヤマブキ(4月中旬-5月初旬)が咲き乱れることで知られている。川は秦氏により用水として造られた。後代の明智光秀、角倉了以も改修した。また、同じく桂川から取水している桂川西一帯を潤す今井用水は、室町時代に引かれた。



松尾山から流れる御手洗川

八朔祭、女神輿やまぶき会(9月第一日曜日)

八朔祭、(9月第一日曜日)、嵯峨野六斎念仏踊



【参照】平安時代の松尾社の復元模型、京都アスニー
松尾大社 〒616-0024 京都市西京区嵐山宮町3  075-871-5016  9:00-16:00
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