足抜地蔵・灰屋辻子(図子) (京都市上京区)
Ashinuke-jizo
足抜地蔵・灰屋辻子 足抜地蔵・灰屋辻子 
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足抜地蔵尊
 妙蓮寺の南、妙蓮寺前町に、寺之内通より南に入る灰屋図子(はいやずし)といわれる鉤状の細い通りがある。通りは一端南に下がり東に折れ、再び折れて南北の猪熊通に抜ける。通りの中ほど、町屋の南側に足抜地蔵(あしぬけじぞう)と呼ばれる地蔵尊の祠がある。 
◆足抜地蔵 江戸時代(1603-1868)末、かつて地蔵尊は、島原の大門脇に安置されていたという。「足止め地蔵」と呼ばれた。島原より足抜けした女郎があると、廓の女将が地蔵尊に参った。すると、逃げた女郎が必ず見つかったという。ある時、西陣織の若い職人と恋に落ちた女郎がいた。女郎は、地蔵尊がなければ逃げきれると思い、地蔵尊を背負って島原を脱した。だが、途中で地蔵尊が急に重くなったため、現在の灰屋図子に下ろしたという。その後、二人は結ばれ、幸せに添い遂げたという。以後、地蔵尊は「足止め地蔵」ではなく「足抜き地蔵」と呼ばれた。
 昭和(1926-1989)の頃、島原の楼主が地蔵尊を訪れ、島原の地に戻したいと住民に願い出た。だが、その夜、住民の一人に地蔵が乗り移り、島原へは帰らないと告げたため、売却の話は立ち消えた。その後もこの地に安置されたという。 
◆灰屋図子 京都の通りには、大路(おおじ)、小路(こうじ)、別の通りに抜けられる辻子(ずし、図子)、抜けられない袋小路の路地(ろーじ)などがある。
 辻子(ずし、図子)は平安時代末にすでに存在しており、文献初見は1180年という。平安京特有のものではなく、奈良の都にも存在したらしい。京都では、鴨東、一条以北に数多く存在した。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の戦火で都が被災した後、辻子を中心とした辻子町が形成された。その数は、江戸時代に最大になり、1863年の「京羽津根」中には91の辻子名が記されている。  
 灰屋図子は、京の豪商で文人でもあった灰屋紹益 (1610-1691)、その一族が住したところともいう。灰屋の屋敷跡ともいう。
◆灰屋紹益 江戸時代前期の豪商・灰屋紹益(1610-1691)。佐野紹益。京都の生まれ。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子になる。知恵光院上立売に住む。光悦に親しみ、松永貞徳、烏丸光広、飛鳥井雅章らに和歌を学んだ。第108代・後水尾天皇、八条宮智忠親王らと交わる。1631年名妓と謳われた吉野太夫を近衛信尋と争い身請け、妻とした。
 茶の湯、蹴鞠、文筆にもすぐれ随筆「にぎはひ草」を著す。墓は立本寺(上京区)、常照寺に供養塔が立つ。


*民家の密集した細い通りにあるため、周辺への配慮が必要です。
*参考文献 『京都・伝説散歩』『素敵な場所、 しあわせ時間 京都』『京都大事典』


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ほかに4体の地蔵尊が安置されている。

辻子の北側(寺之内通側)の通り入り口

足抜地蔵・灰屋辻子(図子) 〒 京都市上京区大宮寺之内東入ル妙蓮寺前町南下ル東入ル 
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