雲林院 〔大徳寺〕 (京都市北区) 
Urin-in Temple
雲林院 雲林院
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観音堂








賓頭盧(びんづる)尊者を祀る


紫雲弁財天


紫雲弁財天


南無地蔵大菩薩

 北大路通を挟んで大徳寺の南東、紫野雲林院町にある雲林院(うりんいん、うじい)は、かつては広大な寺域を誇る大寺院だった。
 臨済宗大徳寺の境外塔頭。本尊は十一面千手観世音菩薩。 
◆歴史年表 平安時代、紫野一帯は広大な狩猟場で禁野だった。また、和歌の名所としても知られた。大内裏で使われた水もこの地を流れ、周辺の庶民の居住も禁じられていた。
 795年、「紫野に狩猟」と文献初例になる。(『類聚国史』『日本紀略』)
 天長年間(824-834)、第53代・淳和天皇は、この地に離宮・紫野院を造営する。829年に紫野院の名がある。(『類聚国史』)
 832年(829年とも)、雲林亭(うりんてい)と改める。(『類聚国史』『日本紀略』)
 その後、第54代・仁明天皇(810-850)、皇子・常康親王と引き継がれる。
 844年、雲林院と称され、仁明天皇が行幸する。(『類聚国史』)
 869年、常康親王は雲林院を仏寺とし、僧正・遍昭に付された。以後、天台宗元慶寺の別院になる。(『三代実録』)。桜、紅葉の名所としても知られた。
 884年、官寺となる。
 886年、僧正・遍昭の奏請により、花山元慶寺の別院とし、天台宗の官寺・雲林院を創建した。
 963年、多宝塔が建てられる。(『本朝文粋』)
 983年、境内に円融寺が建てられる。その後、大原に移され、境内には一宇のみが残されたという。
 寛和年間(985-987)、境内に念仏寺が建てられる。菩提講が催され広く知られていた。菩提講とは、法華経、念仏により、後世の菩提(悟りの果としての智慧)を念じるための会をいう。
 鎌倉時代、後醍醐天皇の在位中(1318-1339)に荒廃する。
 1324年、敷地は大徳寺開山・大燈国師(宗峰妙超)に贈られ、大徳寺が創建される。雲林院も復興され、以来禅宗になる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失し、その後廃絶する。
 江戸時代、貞亨年間(1684-1688)、焼失する。(『紫野大徳寺明細記』)
 1706年、1716年とも、大徳寺291世・江西宗寛(こうざい そうかん)により再興された。(『龍山大徳禅寺世譜』)。現在の観音堂が再建になる。
 寛政・亨和年間(1789-1804)、観音堂、門のみが存在した。
 寛政年間(1789-1801)、荒廃する。黄梅院に属した。
 文政年間(1818-1830)、龍光院下に入る。
 現代、1980年-1983年、寛道宗信により堂宇修復される。庫裏が建立される。
 2000年、境内東の雲林町で、離宮紫野院の池泉跡、建物跡などが発掘されている。
常康親王 平安時代の皇族・常康親王(つねやす しんのう、?-869)。第54代・仁明天皇の第7皇子。母は紀種子。雲林院親王、雲林院宮と呼ばれた。皇位に就くことを許されなかった。天皇没後の翌851年、出家した。869年、住居の雲林院を遍昭に託し寺とし、同年に亡くなっている。
◆遍照 平安時代の官人、天台宗の僧・遍照(へんじょう、816-890)。学者・漢詩人の良岑安世の子。第50代・桓武天皇の孫に当たる。左近衛少将であり、良少将、また花(華)山僧正とも呼ばれる。蔵人頭として第54代・仁明天皇、後に第58代・光孝天皇に仕え、850年、仁明天皇の死去により出家した。貞観年間(859-877)、元慶寺(山科)を創建した。885年、僧正となる。
 歌人としても知られ、小野小町と親交があった。六歌仙、三十六歌仙のひとり。『古今集』に20首が入集している。
◆江西宗寛 江戸時代中期の臨済宗の僧・江西宗寛(こうざい そうかん、?-1722)。京都生れ。諱は宗寛、道号は江西。大徳寺241世・天英宗五の法嗣、1706年、大徳寺・雑華庵に住した。同年(1716年とも)雲林院を再興する。1715年、大徳寺291世、1716年、大徳寺再住。東渓院に住した。東海寺を再興し、1720年、東海寺の輪番を務めた。諡号は1737年、「法慧通明(ほうえつうみょう)禅師」。56歳。
◆寛道宗信 近現代の臨済宗の僧・寛道宗信(かんどう そうしん、1926-1985)。藤田寛道。京都市生まれ。1996年、大徳寺・大光院の小堀明堂により得度、僧堂に掛塔、小田雪窓に参禅、雪窓遷化後、方谷浩明につく。1974年、大徳寺・雲林院住持、1977年、福岡・崇福僧堂に再掛塔、1980年-1983年、雲林院の修復、1982年、本山内局の書記に就任。
◆木像 大徳寺開山の大燈国師木像、中興の江西和尚の木像が安置されている。
◆文学 雲林院は、『源氏物語』『山槐記』『今昔物語』『伊勢物語』『大鏡』『平家物語』などの舞台に数多く登場する。
 また「紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲ける」という、「古今和歌集」以来の歌枕となった。謡曲「雲林院」、能の演目など芸能などの題材となっている。
 紫式部が晩年を過ごした寺とされている。『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」巻では、「秋の野も見たまひがてら雲林院にまうで給へり」とある。
 秋の頃、藤壺に拒まれた光源氏が、桐壺更衣の兄君のいる雲林院を訪れ、経典60巻を紐解き、思い悩む。
◆式部墓 雲林院は広大な寺域を誇った。現在、寺の東、堀川通に面している紫式部墓所の所在地も、かつて境内にあったとみられている。
◆謡曲 謡曲「雲林院」では、『伊勢物語』の心酔者、摂津国の在原公光が夢を見る。雲林院で、在原業平と二条后が『伊勢物語』を持って佇んでいる。寺を訪れると業平の霊が現れ、過去の恋愛のことなどを語り、桜月夜に舞を披露する。やがて夜は明け、夢から覚める。
◆やすらい祭 4月に各所で行われる「やすらい祭」は、もとは「紫野御霊会」として雲林院で行われていた祭礼ともいわれている。里の祭りだったのを、玄武神社と今宮神社(紫野社)が引き継いだという。
◆有栖川 有栖(ありす)川という名の川は、都にいくつか流れていた。紫野にもあったのは、雲林院南に賀茂社の斎院が置かれていたことに関係している。
 有栖川の有栖とは「荒樔」の意味であり、禊(みそぎ)の行われる川を意味していた。
 有栖川(若狭川)は、鷹ヶ峰の湧水を水源とし、大徳寺(紫野大徳寺町)の東、建勲神社鳥居前(紫野下築山町)付近に流路があったという。川には「御所の橋」と呼ばれる石橋が架けられていた。平安時代、第53代・淳和天皇(786-840)の離宮があり、この名の由来になったという。源義経と弁慶が出会った橋は、この橋であるともいう。御所の橋が転訛しその後、伝えられる五条橋になったという。紫野周辺にも源氏ゆかりの史跡が複数存在する。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『あなたの知らない京都の歴史』 


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十一重石塔

十一重石塔

僧正遍昭の歌碑 「天つ風  雲のかよひ路  吹きとぢよ  をとめの姿  しばしとどめむ」(古今和歌集)(百人一首)

2000年に東域の発掘調査が行われた。平安時代の園地、建物跡、井戸跡が見つかった。説明板より。
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 雲林院 〒603-8214 京都市北区紫野雲林院町23  075-417-3154
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