|
|
雲林院 〔大徳寺〕 (京都市北区) Urin-in Temple |
|
雲林院 | 雲林院 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() 観音堂 ![]() ![]() ![]() ![]() 賓頭盧(びんづる)尊者を祀る ![]() 紫雲弁財天 ![]() 紫雲弁財天 ![]() 南無地蔵大菩薩 ![]() ![]() ![]() 十一重石塔 ![]() 十一重石塔 ![]() 僧正遍昭の歌碑 「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」(古今和歌集)(百人一首) ![]() 2000年に東域の発掘調査が行われた。平安時代の園地、建物跡、井戸跡が見つかった。説明板より。 ![]() シャクヤク ![]() |
北大路通を挟んで大徳寺の南東、紫野雲林院町に小寺の雲林院(うりん-いん/うんりん-いん)はある。かつては大寺院であり、広大な寺域を誇った。古く、花の名所としても知られていた。 臨済宗大徳寺の境外塔頭。本尊は十一面千手観世音菩薩。 ◆歴史年表 平安時代、紫野一帯は広大な狩猟場であり禁野だった。和歌の名所としても知られた。大内裏で使われた水もこの地を流れ、周辺の庶民の居住も禁じられていた。 795年、「紫野に狩猟」と文献初例になる。(『類聚国史』『日本紀略』) 天長年間(824-834)、第53代・淳和天皇は、この地に離宮・紫野院を造営する。度々行幸し、釣台に御して遊宴が催された。829年に「紫野院」の名がある。(『類聚国史』) 832年/829年、雲林亭(うりんてい)と改める。(『類聚国史』『日本紀略』) その後、第54代・仁明天皇(810-850)、皇子・常康親王(?-869)に引き継がれる。 844年、雲林院と称され、仁明天皇が行幸する。(『類聚国史』) 869年、常康親王は出家した。雲林院を仏寺とし、僧正・遍昭に付された。以後、天台宗元慶寺の別院(天台道場)になる。(『三代実録』)。親王は千手観音を安置する。桜、紅葉の名所としても知られた。 884年、遍昭の奏請により、官寺になる。 886年、遍昭の奏請により、花山元慶寺の別院(天台道場)とし、天台宗の官寺・雲林院を創建したともいう。以来、仁明天皇の忌日には『金光明経』、安居(あんご)の九旬の間に『法華経』を講じた。 963年、多宝塔が建てられる。(『本朝文粋』) 983年、境内に円融寺が建てられる。その後、大原に移され、境内には一宇のみが残されたという。 寛和年間(985-987)、境内に念仏寺が建てられる。菩提講が催され広く知られた。菩提講とは、法華経、念仏により、後世の菩提(悟りの果としての智慧)を念じるための会をいう。 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、衰微した。 鎌倉時代、第96代(南朝初代)・後醍醐天皇の時(在位1318-1339)に荒廃する。 1324年、敷地は大徳寺開山・大燈国師(宗峰妙超、しゅうほう-みょうちょう)に贈られ、大徳寺が創建される。雲林院も復興され、以来禅宗になる。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。その後、廃絶する。 江戸時代、貞亨年間(1684-1688)/1684年、焼失する。(『紫野大徳寺明細記』)。以後、中絶した。 1706年/1707年/1716年/宝永年間(1704-1711)、大徳寺が旧雲林院の湮滅(いんめつ、消滅)を憂い、旧名を継いで、大徳寺291世・江西宗寛(こうざい-そうかん)により再興された。(『龍山大徳禅寺世譜』)。現在の観音堂が再建になる。 寛政・亨和年間(1789-1804)、観音堂、門のみが存在した。 寛政年間(1789-1801)、荒廃する。黄梅院に属した。 1797年、客殿、庫裡を孤篷庵(北区)に移した。観音堂のみが存在する。 文政年間(1818-1830)、龍光院下に入る。 現代、1980年-1983年、寛道宗信により堂宇が修復される。庫裏が建立された。 2000年、境内東の雲林町で、離宮紫野院の池泉跡、建物跡などが発掘されている。 ◆淳和 天皇 奈良時代-平安時代前期の第53代・淳和 天皇(じゅんな-てんのう、786-840)。男性。大伴(おおとも)、西院帝、日本根子天高譲弥遠天皇(やまとねこあめたかゆずるいやとおのすめらみこと)、後太上天皇とも称された。京都の生まれ。父・第50代・桓武天皇、母・藤原百川の娘・松子(贈皇太后旅子[たびこ])の第3皇子。810年、平城太上天皇の変(薬子の変)により、兄・平城上皇(第51代)は失脚し、その皇子・高岳(たかおか)親王(真如)は廃太子された。第52代・嵯峨天皇の信頼篤く、皇太弟になる。823年、嵯峨天皇の譲位により即位した。冷然院(冷泉院)に住む嵯峨上皇は影響力を残し、皇太子に上皇の皇子・正良親王(後の第54代・仁明天皇)が立つ。大伴氏は、天皇への配慮から「伴氏」に改めた。824年、左右検非違使庁を設置し、制度を強化した。826年、上総、常陸、上野を親王任国に定める。833年、皇太弟時代の離宮南池院(西院とも)を整備した淳和院に移り、第54代・仁明天皇に譲位した。淳和上皇の皇子・恒貞(つねよ)親王が皇太子になる。 治水事業、律令制再建、令外官の勘解由使(かげゆし)の復活、検非違使制度の強化を行う。勅旨田、親王任国を置き皇室財政を強化した。漢詩に長じた。詩文集『経国集』(827)、滋野貞主による百科事典『秘府略』(831)、清原夏野らの令(りょう)の公的注釈書『令義解(りょうのぎげ)』(833)の編纂などに努めた。 温厚な性格だったという。当初、上皇の称号、待遇を辞退する。上皇が二人のため、嵯峨上皇を「先(前)太上天皇」、淳和上皇は「後太上天皇」と称した。京都で没した。55歳。 遺言により山陵は築かれず、大原野山中に天皇初の散骨が行われた。御陵は大原野西嶺上陵(西京区)になる。 なお、842年、嵯峨上皇没後、皇子・恒貞親王は廃位になった。(承和の変)。 ◆常康 親王 平安時代前期の皇族・常康 親王(つねやす-しんのう、?-869)。男性。通称は雲林院宮、雲林院親王。 父・第54代・仁明天皇、母・紀種子(きの-たねこ)の第7皇子。850年、天皇の没後、851年、父を追慕し出家した。869年、住居の雲林院を遍昭に託し寺に改める。同年、亡くなる。 天皇の寵愛を受けた。皇位に就くことは許されなかった。 ◆遍昭 平安時代前期の天台宗の僧・歌人・遍昭/遍照(へんじょう、816-890)。男性。俗名は良岑宗貞(よしみね-の-むねさだ)、良少将、花山僧正。父・良岑安世、子に素性、由性。 第50代・桓武天皇の孫。左近衛少将、849年、蔵人頭に補され、第54代・仁明天皇に仕えた。850年、天皇没後に出家し、比叡山に入る。叡山座主・円仁に戒を受けた。貞観年間(859-877)、山科花山に元慶寺を創建し座主になる。「花(華)山僧正」とも呼ばれた。869年、紫野・雲林院の別当を兼ね、文芸交流する。885年、僧正になり、天皇に宮中で七十の賀を祝われる。食邑(しょくゆう)100戸、輦車(てぐるま)の勅許を賜る。 第58代・光孝天皇にも仕えた。惟喬親王と交流した。歌人としても知られ、六歌仙、三十六歌仙の一人。小野小町と清水寺で歌でやりとりをした。天狗調伏などの逸話も残る。『古今集』入集。『大和物語』『今昔物語集』などに記されている。75歳。 元慶寺南西(山科区)に墓がある。 ◆由性 平安時代前期の天台宗の僧・由性(ゆいしょう)。詳細は不明。父・遍昭。少僧都になる。雲林院の別当になった。 ◆江西 宗寛 江戸時代中期の臨済宗の僧・江西 宗寛(こうざい-そうかん、?-1722)。男性。諱は宗寛、道号は江西。京都の生れ。大徳寺241世・天英宗五(てんえい-そうご)の法嗣になる。1706年、大徳寺・雑華庵に住した。同年/1716年、雲林院を再興する。1715年、大徳寺291世、1716年、大徳寺再住。東渓院に住した。東海寺を再興し、1720年、東海寺の輪番を務めた。諡号は1737年、「法慧通明(ほうえ-つうみょう)禅師」。56歳。 ◆寛道 宗信 近現代の臨済宗の僧・寛道 宗信(かんどう-そうしん、1926-1985)。男性。藤田寛道。京都市の生まれ。1996年、大徳寺・大光院の小堀明堂により得度した。僧堂に掛塔、小田雪窓に参禅し、雪窓の遷化後に、方谷浩明につく。1974年、大徳寺・雲林院住持になる。1977年、福岡・崇福僧堂に再掛塔、1980年-1983年、雲林院の修復をした。1982年、本山内局の書記に就任した。 59歳。 ◆木像 大徳寺開山の大燈国師木像、中興の江西和尚の木像が安置されている。 ◆文学 雲林院は、『源氏物語』『山槐記』『今昔物語』『伊勢物語』『平家物語』などの舞台として数多く登場する。 ◈雲林院・念仏寺の菩提講は『大鏡』に登場する。講は、極楽浄土に導く法華経説教会であり5月に人々が集った。旧知の老翁は講で落ち合い昔語をする。 ◈「紫の雲の林を見わたせば法にあふちの花咲ける」という、『古今和歌集』以来の歌枕になった。 ◈紫式部が晩年を過ごした寺とされている。『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」巻では、「秋の野も見たまひがてら雲林院にまうで給へり」とある。秋の頃、藤壺に拒まれた光源氏が、桐壺更衣の兄君のいる雲林院を訪れ、経典60巻を紐解き思い悩む。 ◈謡曲「雲林院(うんりんいん)」では、『伊勢物語』の心酔者である、摂津国・芦屋の在原公光が夢を見る。雲林院で、在原業平(825-880)と二条后(藤原高子、842-910)が『伊勢物語』を持って佇んでいる。寺を訪れると業平の霊が現れ、過去の恋愛のことなどを語り、桜月夜に舞を披露する。やがて夜は明け、夢から覚める。 ◈能の演目など芸能の題材にもなった。 ◆式部墓 かつて、雲林院は広大な寺域を誇った。現在、寺の東、堀川通に面している紫式部墓所の所在地も、かつて境内にあったとみられている。 雲林院は「うんりんいん」のほかに、「うりゅういん」、「うんりゅういん」、地名として「うじい」としても残ったという。 ◆やすらい祭 4月に各所で行われる「やすらい祭」は、かつて「紫野御霊会」として雲林院で行われていた祭礼ともいう。里の祭りだったのを、玄武神社と今宮神社(紫野社)が引き継いだという。 ◆有栖川 「有栖(ありす)川」という名の川は、都にいくつか流れていた。紫野にもあったのは、雲林院南に賀茂社の斎院が置かれていたことに関係している。 有栖川の有栖とは「荒樔」の意味であり、禊(みそぎ)の行われる川を意味していた。 有栖川(若狭川)は、鷹ヶ峰の湧水を水源とし、大徳寺(紫野大徳寺町)の東、建勲神社鳥居前(紫野下築山町)付近に流路があったという。川には「御所の橋」と呼ばれる石橋が架けられていた。平安時代、第53代・淳和天皇(786-840)の離宮があり、この名の由来になったという。源義経と弁慶が出会った橋は、この橋であるともいう。御所の橋が転訛しその後、伝えられる五条橋になったという。紫野周辺にも源氏ゆかりの史跡が複数存在する。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』、『紫野大徳寺の歴史と文化』、『京都・紫野大徳寺僧の略歴』、『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都の寺社505を歩く 下』、『あなたの知らない京都の歴史』、『京都大事典』 、『京都市の地名』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|