今宮神社 (京都市北区)
Imamiya-jinja Shrine
今宮神社 今宮神社
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南門(楼門)、1926年建立


南門、「今宮大明神」の扁額


















ウメ


イチョウ
















東門








手水舎


手水舎





狛犬、天邪鬼が台座を支えている。桜御影


拝殿


拝殿 






桂昌院(お玉の方)像


桂昌院(お玉の方)像


本殿旧跡の碑


力石


阿呆賢さん



阿呆賢さん



阿呆賢さん





本殿


本殿


本殿拝所、幣殿、本殿


本殿













 紫野に今宮神社(いまみや-じんじゃ)はある。紫野はかつて、禁野として貴人の遊猟場になっていた。今宮とは、「新しい社」の意味がある。かつては、「紫野社」、「紫の若宮」とも呼ばれた。桂昌院(お玉)に因み「玉の輿(たまのこし)神社」とも呼ばれている。
 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)。摂社・疫神社(やくじんのやしろ)は素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀る。御霊社。 
 神仏霊場会96番、京都16番札所。京都十六社朱印めぐりの一つ。
 悪疫退散、健康長寿、福徳長寿、家内安全、家業繁栄、商業繁栄、良運開運、五穀豊穣、農業繁栄、末社・織姫社は縁結び、技能上達などの信仰を集める。
 授与品は、開運初夢の宝船、健康のやすらい人形、目の出るダルマ守、良縁宗像三姫神守、開運玉の輿守、玉の子守などが授与される。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、794年、平安建都以前より、この地には疫神を祀る社があったとみられている。
 994年、6月、平安京で流行した疫病退散のために、御霊会が庶民の手により行われた。朝廷の木工寮(もくのりょう)修理職が、北野船岡山に神輿2基を造り御霊会を行った。(『日本紀略』、社伝)
 1001年、5月、天下疫癘猖獗(えきれいしょうけつ、疫病の蔓延)により、疫神を再び船岡山に祀る。北麓の紫野に木工寮修理職により神殿3宇が建てられる。大己貴命、事代主命、稲田姫命の三神を祀る。内匠寮(たくみりょう)により神輿2基が造られ安置された。素盞鳴命の斎(いわ)いこめ、人形(ひとがた)を乗せた神輿は難波江(なにわえ)の海に流された。(『日本紀略』)。東山・祇園社がすでに疫神を祀っており、それに対して祇園今宮の意味で当社は「今宮」と称した。以後、官祭として今宮社御霊会、紫野御霊会が続けられる。(『神祇官年中行事』)
 1154年、京中子女が当社に参集し、風流を備え、鼓笛をならす。やすらい祭りがあまりに華美になり、勅命により禁じられたという。(『百錬抄』『梁塵秘抄口伝集』)
 鎌倉時代初期、やすらい祭りは鎮花祭として催された。朝廷より勅使が遣わされ、疫神を鎮めた。(『四季物語』)
 1279年、従二位の神階になる。
 1282年/1284年、正一位の神階を授けられる。
 室町時代、社が将軍家若宮の守護神になる。今宮が若宮(生まれた皇子)に通じるとされたことによる。
 1496年、第11代将軍・足利義高(義澄)が社殿を修造する。
 1525年、第12代将軍・足利義晴が神輿新造する。
 安土・桃山時代、近世初期、今宮神社は、一帯の紫野、上賀茂、西賀茂の総鎮守社になったとみられている。
 1593年、豊臣秀吉は、秀頼の生誕に際して、御旅所(大宮通鞍馬口上ル)を再興した。聚楽第の産土神が今宮社だったことによる。
 江戸時代、朱印社領高100石を受けた。(「京都御役所向大概覚書」)。やすらい祭りは、紫野、上賀茂、西賀茂の村々より疫神社に奉納されていた。
 1694年、徳川綱吉生母・桂昌院の崇敬篤く、荒廃していた社殿の造営などを行う。桂昌院はやすらい祭の復活にも尽力した。
 1695年、桂昌院が祭事を整えた。祭礼は華美を尽くして行われたと記されている。(『基熈(もとひろ)公記』)
 1788年、西陣焼けにより、御旅所内に祀られていた織姫社が焼失する。
 1792年、織姫社が当社に遷し再興される。
 1795年、現在の社殿が建てられた。
 1844年、今宮祭りが華美を尽し、群立歩行により禁じられた。(「小久保家文書」)
 近代、1896年、本殿、拝殿を焼失した。
 1902年、現在の社殿が再建されている。
 1926年、現在の楼門が建てられた。
◆桂昌院 江戸時代前期の女性・桂昌院(けいしょういん、1627-1705)。おたつ、おあき、お玉、宗子、光子など。大徳寺付近で生まれた。父・堀川通西藪屋町の八百屋・仁左右衛門、母・鍋田氏の次女ともいう。父没後、母は二条家の家司(けいし)・本庄太郎兵衛に嫁した。本庄氏の養女になる。伊勢内宮・慶光院住持(六条有純の娘・お梅)付女中になり、江戸下向に同行する。1639年、3代将軍・徳川家光側室・お万の方に仕える。春日局の部屋子として家光に見初められ側室になる。1646年、徳松(綱吉)を産む。1651年、家光没後に落飾し、筑波山知足院に入る。桂昌院と称された。1680年、5代将軍に綱吉が就くと、江戸城三の丸へ入った。三丸殿と称された。1702年、女性最高位の従一位の官位、藤原光子(宗子)の名を賜る。神仏を尊崇し、仏教に帰依した。僧・亮賢、隆光を信頼し、江戸に護国寺・護持院を建立する。生類憐み令を発案したともいう。諸国の寺社再興を援助した。墓は善峯寺(西京区)にもある。79歳。
 今宮神社の荒廃に対し、社殿の造営と神領も寄進した。途絶えていたやすらい祭りも復活させ、今宮祭には御所車、鉾も寄進、御幸道も改修させた。さらに、江戸・護国寺の地に今宮神を分祀し、1699年、今宮神社を建立している。その生涯は俗説として「玉の輿」の語源とされる。また、今宮神社門前の名物、あぶり餅は玉のような餅を食べることから、玉(桂昌院)のご利益にあやかるとの言い伝えがある。
◆建築 ◈「本殿」は、近代、1896年に焼失し、1902年に再建された。
 ◈「楼門」は、近代、1926年に建立された。重層門、入母屋造、朱塗。
◆文化財 ◈「線彫四面仏石(石造四面仏)」(重文)には、平安時代後期、「天治二年(1125年)」の銘が入る。大正期(1912-1926)に発見された。四方に薬師、弥勒、弥陀、釈迦を線刻する。銘が入った石仏としては最も古いという。水成岩、60㎝角。京都国立博物館寄託。
 ◈疫神社社殿両脇に「狛犬像」が祀られている。愛嬌ある表情を見せる。
 ◈末社・宗像神社の社檀側面の台石に、鯰の彫り物がある。長さ60㎝。
 ◈若杉磯八の油絵は、日本最古の更紗に外国船グーテンブルクを描いている。
 ◈「正月三節会(さんせちえ)御膳供進之次第」、江戸時代、1690年のもので、桂昌院関連の古文書の一つになる。
 巻物(10m)で、桂昌院が正月に神前に供えた料理を描く。越前和紙に銀の食器にザクロ、ユズなどが色鮮やかに描かれている。
 ◈「神輿」3基は、江戸時代に造られた。現代、1976年より3年をかけて修復された。
 ◈剣鉾「葵鉾」の茎銘は、江戸時代前期、1694年であり、身106㎝、茎21.5㎝、全長127.5㎝になる。現在は使用されていない。
 ◈剣鉾「柏鉾」の茎銘は、江戸時代中期であり、身・茎の全長145.4㎝になる。
 ◈剣鉾「柏鉾」の茎銘は、江戸時代中期、1791年であり、身・茎の全長180.7㎝になる。現在は使用されていない。
 ◈剣鉾「葵鉾」の茎銘は、江戸時代後期、1801年で、身135.5㎝、茎37.7㎝、全長173.2㎝、現在は使用されていない。茎継があり、元は25㎝になる。
 ◈剣鉾「澤潟(おもだか)鉾」の茎銘は、江戸時代後期、1801年であり、身143㎝、茎32㎝、全長175㎝になる。
 ◈剣鉾「柏鉾」の茎銘は、江戸時代後期、1806年で、身・茎の全長163㎝ある。現在は使用されていない。
 ◈剣鉾「澤潟鉾」の茎銘は、江戸時代後期、1820年であり、身138.8㎝、茎32.1㎝、全長170.9㎝になる。
 ◈剣鉾「剣鉾」の茎銘は、江戸時代後期、1823年であり、身・茎の全長191.2㎝になる。
 ◈剣鉾「牡丹鉾」(留守鉾)の茎銘は、江戸時代後期、1824年であり、身139.1㎝、茎36.9㎝、全長176㎝になる。
 ◈剣鉾「牡丹鉾」の茎銘は、近代、1915年であり、身139.7㎝、茎34.7㎝、全長174.4㎝になる。
◆御霊会・今宮 平安時代後期、1001年、5月、天下疫癘猖獗(えきれいしょうけつ、疫病の蔓延)により、疫神を再び船岡山に祀った。北麓の紫野に木工寮修理職により神殿三宇が建てられた。大己貴命、事代主命、稲田姫命の三神を祀る。内匠寮(たくみりょう)により神輿2基が造られ安置された。
 仁王教が読まれ音楽も奏でられる。素盞鳴命の斎(いわ)いこめ、人形(ひとがた)を乗せた神輿は難波江(なにわえ)の海に流された。(『日本紀略』)。朝廷は勅使を遣わし東遊走馬も行われた。勅使・藤原長能は「今よりはあらぶる心ましますな花の都に社定めつ」(「後拾遺集」、巻20、雑歌6)と詠んだ。これらは、疫神を京中から追い払うという意味があり、細男(せいのお)が出て歌舞が行われた。紫野御霊会、今宮祭、今宮神社の起源になるとされる。
 東山・祇園社がすでに疫神を祀っていたことから、それに対して祇園今宮の意味で「今宮」と称した。以後、官祭として今宮社御霊会、紫野御霊会が続けられる。
◆摂社・末社 ◈摂社「疫神社」は、本社以前より祀られていたという。やすらい祭りと関わり深く、朝廷は勅使を遣わし、疫神を鎮めようとした
 ◈「織姫社」の祭神は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)であり、天栲幡千幡姫命(あめのたくはたちはたひめのみこと)、萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とも呼ばれる。江戸時代、氏子の西陣機業家が創建した。
 栲幡千千姫命の「栲(たく/たへ)」とは、梶(かじ、穀)の木皮繊維で織った白色の布を指し、古代布の総称になる。「幡(はた)」は、織物を意味し、機織の功を称えた。「千千(ちぢ)」は「縮」に通じ、織地の精巧さをいう。織物の巧みさ美しさを賞でる神として、技芸上達の崇敬篤い。
 栲幡千千姫命は、七夕伝説の織女に機織を教えたとされ、織物の祖神とされている。七夕祭(8月7日)が行われている。西陣の日(11月11日)は、応仁・文明の乱(1467-1477)の終結日として西陣機業家が式典行う。
 燈籠は機織り道具、紡錘の杼(ひ)の形をしている。
  ◈「八社」は、一棟に大国社、蛭子社、八幡社、熱田社、住吉社、香取社、鏡作社、諏訪社を祀る。
 ◈「大将軍社」は、大将軍八神社ともいう。素盞嗚尊と同一神の牛頭天王(ごずてんのう)、八大王子(八神・素盞鳴尊の五男三女)を祀る。かつて、平安京の四方に大将軍社を祀り、都の鎮護とした。その一つは大徳寺門前に祀られ、その社を遷した。
 ◈末社「日吉社(ひよししゃ)」は、近江の日吉大社(ひえたいしゃ)の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る。近代、1868年、当社産土の上野村の上ノ御前、下ノ御前の両社を合祀した。
 ◈「若宮社」は、加茂斎院、若宮を祀る。天皇の代理として未婚の内親王、皇族の女性を斎王(さいおう/いつきのみこ)と定めて祀り事を行った。奉斎の館である紫野斎院が境内近くにあったという。若宮とは、霊が激しい祟りをなす際に、祟りを弱めるために、より強い神格の下に祀った状態を総称して呼んだ。
 ◈「地主稲荷社(じぬし-いなりしゃ)」は、倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀る。古くより社地を守護する地主神として祀られている。
 ◈「月読社(つきよみしゃ)」は、高台の上にある。伊勢神宮の別宮・月読宮(つきよみのみや)の祭神、月読尊(つきよみのみこと)を祀る。
  ◈「宗像社」は、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の宗像三女神を祀る。「弁天さん」と呼ばれる。
◆稲荷社・織田稲荷社 「紫野稲荷社」・「織田稲荷社」は、境内の小高い石垣の上にある。稲荷社の祭神は、伏見稲荷大社と同じく宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)を祀る。
 織田稲荷社は、織田信長(1534-1582)を祀る。かつて、信長の墓所のあった阿弥陀寺の旧地(西陣元伊佐町、黒門通今出川上る西側とも)にあった。信長は、阿弥陀寺の住職・清玉を養育したという。安土・桃山時代、1582年の本能寺の変で、清玉は、織田信長、家臣ら120人の遺骸を寺に葬ったという。安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)、阿弥陀寺が現在地(上京区鶴山町)に移転になり、信長の墓も遷された。(『都名所図会』『拾遺都名所図会』)
 旧地には、信長の怨霊を鎮めるために、一祠が建てられ、後、織田稲荷と呼ばれた。祭神は光堀照大明神とされ、祟りを恐れ神官以外は内陣に触れなかった。信長と稲荷を祀ったともいう。近代、1882年、建勲神社の御旅所になり、建勲稲荷と呼ばれていた。1987年に周辺の開発に伴い、今宮神社境内に遷されている。御霊稲荷になる。
◆大将軍社
 大将軍はかつて古代中国からもたらされた。日本の陰陽道では、金星(太白星)に関連する星神とされ、四方を司る神とされた。大将軍は3年ごとに移動するとされ、12年で一巡し四方を正す。その間、その方角で事を行うと「三年塞がり」と呼ばれた。凶になると怖れられた祟り神であり、諸事が忌まれた。ただ、遊行日が定められており、その間は凶事が回避されるといわれた。
 平安京には、都の四方に守護神の大将軍神社が置かれている。東は東三条大将軍社(大将軍神社)、西は大将軍八神社、南は藤森神社境内の大将軍社、北は今宮神社境内の大将軍社、あるいは西賀茂大将軍神社をいう。
 江戸時代以前には大徳寺門前にもあり、今宮神社に遷されたともいう。異説もある。また、かつて祇園社境内にもあったともいう。以後、大将軍信仰は全国的に広まる。平安時代中期-鎌倉時代に盛んになり、天皇から庶民にいたる信仰を集めた。
◆ゆき 今宮神社の韓神は疫神とされる。天皇の病を平癒、世の安泰を祈願し、社前に靱(ゆき、靫)を掲げ祈念したという。この靱の語源は、矢を納める武具の靱(ゆき)を意味する。靱(うつぼ)、空穂(うつぼ)とも記される。矢を入れ、腰に下げ持ち歩く筒形の容器をいう。長い竹籠(たけかご)で作り、外側を動物の毛皮や鳥の羽などで覆った。 靱に矢を入れる際には鏃(やじり、ぞく)を上にした。かつては、靱負(ゆげい、ゆきえ)という武人がいたという。
 『諸社根源記』、また、鎌倉時代末期の吉田兼好『徒然草 』第203段に靱の名がみえる。五条天神社にも祀られ、鞍馬の由岐神社にもみられる。
◆あぶり餅 東門前、平安時代から続くという名物の「あぶり餅」を売る店が参道の両脇に建つ。北の「一和」と南の「かざりや」になる。
 「一和」(一文字屋和助)は平安時代後期、1002年(1000年とも)の創業といわれ、京都最古の茶店という。神前に供えた「斎竹(いみたけ/いぐし)」を裂いた竹串に小餅を刺す。小餅はきな粉をまぶし、これを団扇であおりながら炭火で焙る。白味噌に砂糖を加えたタレを付ける。竹串は荒竹でも口に入れても棘が立たないという。
 かつては広隆寺の名物であり、「勝餅(おかちん)」と呼ばれた。平安時代中期の第66代・一条天皇の頃(在位986-1011)、都に疫病が流行った際に、今宮神社のやすらい祭りで疫病が鎮まる。厄除けに神前に供えた餅を持ち帰り食したのが起源という。疫病に勝つ「勝の餅」と称され、食べると流行り病に罹らないといわれた。人々はやすらい祭りなどで社に詣でた後に、持ち帰り食べた。
 境内に祀られている織姫社ともゆかり深く、西陣で機織の際に、この竹串を付けると上手に織り出せるとされた。
 店には、井桁を組まない洛中最古といわれる井戸があり、いまも湧水が続く。
◆辛味大根 辛味大根はかつて祭典(11月1日)で、神殿に供えられていた。疫病、中風封じの土産にされた。かつては、原谷に栽培され原谷大根と呼ばれた。江戸時代、鷹ヶ峯でも栽培された。現在は、「京の伝統野菜」として種子保存されている。
◆阿呆賢さん 拝殿の西に「今宮の奇石」といわれる「阿呆賢(あほかし)さん」が祀られている。「神占石(かみうらいし)」とも呼ばれる。病平癒の場合は、祈り、掌で石を撫でて患部を摩ると回復を早めるという。
 「重軽石」ともいわれる。掌で三度石を打ち、持ち上げる。再度、願い事を祈り、三度掌で撫でて持ち上げる。この時、軽く感じると願い事が成就するという。
◆御旅所 「今宮神社御旅所」(上京区若宮横町)がある。安土・桃山時代、1593年に豊臣秀吉は、秀頼の生誕に際して、御旅所(大宮通鞍馬口上ル)を再興した。聚楽第の産土神が今宮社だったことによる。江戸時代後期、1795年に再建された。江戸時代には、「今宮旅所」と呼ばれる。(『京内まいり』)。勧進能も催されていた。近世、氏子地域が拡大し、現在の今宮の地区になる。桂昌院が祭事を整備したという。
 なお、大鳥居は、近代、1928年に本社の南参道に松風講により奉納された。2017年に10月の嵐により損壊したため御旅所に移されている。
 今宮祭(5月5日-5月13日)の期間には、御旅所に本社の神輿3基が滞在し、御駐輦と呼ばれる。5日は神輿を迎えて「おいで」、13日は還幸により「おかえり」と呼ばれている。
◆樹木・花木 ◈トウカエデ、ユリツバキ(神代椿)、ムクロジ(京都市指定保存木)がある。
 ◈ユリツバキ、神代椿がある。
 ◈枝垂れ桜、御衣黄桜がある。
◆京都十六社朱印めぐり 京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)は、現代、1976年に始まり当初は14社だった。古社16社を巡拝し、各社より朱印を授かる。すべての神社を参拝すると一年間のあらゆるご利益が得られるという。専用の朱印帳で、期間中に全てのご朱印を受けると干支置物が授けられる。
やすらい祭 境内にある摂社・疫神社の祭礼「やすらい祭(今宮やすらい花)」(毎年4月第2日曜日)が知られている。
 「夜須礼祭」「安良居祭」とも記された。祭りは、鎮花祭(ちんか-さい)と御霊会/追儺式が結びついた祭礼とされる。1987年に国の重要無形民俗文化財に指定され、今宮やすらい会により執り行われている。「京都三奇祭(ほかに太秦の牛祭、鞍馬の火祭)」の一つになる。
 弥生時代、第10代・崇神天皇(BC148-BC30、在位:BC97-BC30)の時、鎮花祭が行われたという。(『日本書紀』)
 平安時代後期、1154年に、京中の児女が風流を凝らし、笛太鼓を鳴らしながら紫野社に参ったという。その際に、囃子言葉として「やいらえ 花や」が使われた。花の飛散する頃に、例年、疫病が流行したことから、当時、疫病の精霊は、花粉のように周辺に伝播すると考えられていた。花期が終わると疫病が流行るため、花が少しでも長く枝に付いていて欲しいという意味も含まれている。
 疫病を鎮める「花鎮」とは、花に宿るこの病精を、囃子の音・踊りで浮き立たせ、追いたてて傘の花に宿らせる。神力によりこれを萎縮させ、鎮疫神へ送り込み、神威により鎮めるという意味があった。花の霊は鎮まり、休み(やすらい)、疫病神にも休んでもらう祭礼とされた。
 これが夜須礼行事(やすらい祭)の始まりといわれ、官祭「今宮祭」として営まれた。鎌倉時代以降に鎮花祭になる。(『百錬抄』)。朝廷からは勅使が遣わされていた。
 祭りは、朱紅の髪(しゃぐま、赤熊)に赤い衣裳の羯鼓(かんこ、かつこ)を持った小鬼、鉦、太鼓を持つ大鬼、鉾持が続く。氏子地域を練り踊る。行列の緋色の花傘(風流傘、錦蓋)の上には、桜、椿、山吹、柳など色とりどりの春の花が飾られている。この傘の下に入ると、一年間病気に罹らないといわれている。また、祭礼の日が晴れると、以後の京都の祭りも晴れるともいわれている。
 これらの祭礼は中国の故事に習い、陰気である病を陽気に変えて厄病を払うという意味がある。踊手が身に付けている赤い衣は、疱瘡神(ほうそうしん)、猩猩(しょうじょう)とも呼ばれ、行疫流行神を象徴するとみられている。
 祭礼は、今宮神社のほか、玄武神社、川上神社などでも催されている。
◆祭礼  ◈「やすらい祭」(4月第2日曜日)では、練り衆は、素襖姿の先立ち、狩衣の鉾・御幣持、督殿(こうどの)、烏帽子・赤熊(しゃぐま)の羯鼓(かんこ)、羯鼓廻し、赤毛・黒毛の大鬼、花傘、音頭取り、囃子方が本殿に供し、氏子町を練り、寂蓮法師作という舞を踊る。
  ◈「今宮祭神幸祭」(5月5日-10日頃)がある。本社の大祭「今宮祭(渡御祭、神幸祭)」は平安時代からあり、御霊会として行われていた。御出祭(5月5日)、神幸祭列(5月中旬日曜日)では、剣鉾、神輿が巡行する。
 剣鉾は、戦前には氏子地域の12町で、神幸列・還幸列に供奉していた。現在は、扇鉾(東千本町)、松鉾(歓喜町)が両日に出し、7町はいずれか1日のみ出す。神幸列には、松鉾・枇杷鉾・牡丹鉾・柏鉾・菊鉾・扇鉾の6基、還幸祭には松鉾・剣鉾・葵鉾・龍鉾・扇鉾5基が加わる。松鉾・扇鉾以外は毎年の籤で巡幸列順が決まる。
◆アニメ ◈アニメーション『けいおん!(第1期)』『 けいおん!!(第2期)』(原作・かきふらい 、監督・山田尚子、制作・京都アニメーション、第1期2009年4-6月、第2期2010年4月-9月、第1期全14話、第2期全27話)の舞台になった。第7話で当社での軽音部の初詣シーンがある。
◆年間行事 歳旦祭(19時より)・燈籠一斉献灯(1月1日)、京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)、疫神祭(1月19日)、節分祭(2月3日)、紀元祭(2月11日)、祈年祭(2月17日)、やすらい祭(4月第2日曜日)、今宮祭神幸祭・御出祭(5月5日)、神幸祭列(5月中旬日曜日)、今宮祭湯立祭(5月10日頃)、今宮祭還幸祭(5月第2日曜日か第3日曜日)、大祓(夏越祓)(6月30日)、大将軍社例祭(7月22日)、織姫社・七夕祭(8月7日)、織姫社のネクタイ供養(10月1日)、例大祭前夜祭(平安時代後期、1001年、今宮社を遷座した日とされ、神事、御神楽奉納がある。雅楽に合わせ、神楽人が人長[にんちょう]を舞う)(10月8日)、例大祭(東遊<あずまあそび>奉納は、舞人、歌方、狛笛、篳篥[ひちりき]、和琴による)(10月9日)、西陣の日(応仁・文明の乱の終結日として、西陣機業者により織姫神社の神前での式典が行われる。)(11月11日)、新嘗祭(11月23日)、大将軍火焚祭(11月23日)、地主稲荷社火焚祭(12月第1日曜日)、除夜祭(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都・美のこころ』、『京都洛北やすらい祭 フィールドワークからのアプローチ』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都歴史案内』、『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』、『稲荷信仰と宗教民俗』『京都大事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都市の地名』、『京都の寺社505を歩く 下』、『賀茂文化 第11号』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都のご利益めぐり』、『京都ご利益徹底ガイド』、『京都の隠れた御朱印ブック』、『京の伝統野菜』、『京都の自然ふしぎ見聞録』、『京の社』、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 古社名刹巡拝の旅 40 梅桜の宮』、『週刊 京都を歩く  37 紫野周辺』、ウェブサイト「アニメ旅」、当社ウェブサイト 、ウェブサイト「コトバンク」


船岡山  檪谷七野神社  周辺  八坂神社  大将軍神社(西賀茂大将軍神社)  神泉苑  元祇園梛神社  下鴨神社  善峯寺  真敬寺  阿弥陀寺(上京区)    50音索引,Japanese alphabetical order  

本殿


本殿

本殿


疫神社、本殿

疫神社

疫神社

疫神社

疫神社

やすらい人形

若宮社、斎院、若宮

若宮社、斎院、若宮

若宮社、斎院、若宮

拝殿

織姫神社、祭神は拷幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)。西陣機業ゆかりの社、織女に機織りを教えたとされ織物の祖神になる。技芸上達の信仰がある。燈籠は機織り道具、紡錘の杼(ひ)の形をしている。

織姫神社

織姫神社

大将軍社

大将軍社

日吉社

右より住吉社、八幡社、熱田社、香取社、鏡作社、諏訪社

宗像社
宗像社、台石のナマズの彫り物

紫野稲荷社

紫野稲荷社

紫野稲荷社

紫野稲荷社、織田稲荷神社

紫野稲荷社、織田稲荷神社

紫野稲荷社

紫野稲荷社、稲荷社

紫野稲荷社

月読社

月読社

月読社

月読社

地主稲神社

地主稲神社

地主稲神社

地主稲神社

地主稲神社

絵馬堂

有栖川橋

【参照】元府社今宮神社御旅所(北区雲林院町)

南参道に建てられていた大鳥居の一部
 

例大祭、東遊(10月9日)

「やすらい祭」(やすらい花)

【参照】参道

【参照】東門前、平安時代から続くという名物の「あぶり餅」を売る店が両脇に建つ。北の「一和」は「一和」(一文字屋和助)は1002年(1000とも)創業といわれる。
「一和」、北区紫野今宮町69 電話 075-492-6852

「一和」

「一和」には、井桁を組まない洛中最古といわれる井戸がある。

【参照】南の「かざりや」、北区紫野今宮町96 今宮神社東門南側 電話 075-491-9402
今宮神社 〒603-8243 京都市北区紫野今宮町2  075-491-0082   9:00-17:00
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