檪谷七野神社・賀茂紫野斎院跡 (京都市上京区)
Ichidani-nanano-jinja Shrine
檪谷七野神社 檪谷七野神社
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「檪谷七野春日神社」の石碑






拝所



拝所



参照 『平安京散策』


本殿







稲荷社?




賀茂斎院跡の碑








白砂(小石)


石垣に刻まれている大名の寄進印の一つ。




「松尾」



「卍」?







【参照】六条御息所の牛車、江戸時代の紙本金地著彩「源氏物語車争図屏風」の複製(京都市平安京創生館)、案内パネルより
 檪谷七野神社(いちいだに-ななの-じんじゃ)は、七野神社(しちの-じんじゃ)、七野春日神社、春日神社、春日さん、高砂社とも呼ばれた。この地は、賀茂紫野斎院跡推定地とされている。旧村社。
 祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、斎主命(いわいぬしのみこと)、春日明神(かすがみょうじん)を祀る。
 安産、復縁、浮気封じの信仰がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細不明。
 平安時代以来、この地は遊猟地、賀茂社の領地、離宮紫野院などの別業(別荘)の地でもあったという。蓮台野は葬送地としても知られた。
 平安時代、852年、賀茂斎内親王(恵子内親王)が、河原での禊の後、初めて紫野斎院に入ったという。(『文徳実録』)
 859年、第55代・文徳天皇皇后・藤原明子(あきらけいこ、染殿皇后)が皇子誕生を祈願し、奈良・春日大社を勧請したのが創祀になるという。皇后は清和天皇を安産した。惣社として七野(1.紫野、2.上野、3.蓮台野、4.萩野[〆野・御栗栖野、神明野] 、5.北野、6.平野、7.内野)を祀ったことにより七野社としたという。(『京内まいり』)。また、梶井門主の坊舎(船岡山東北)があり、天台守護神、山王七社を勧請し、七の社としたともいう。(『山州名跡志』、社伝)。また、紫野斎院跡を社とした野宮の後身ともいう。
 第59代・宇多天皇(867-931)の皇后は、当社に参詣し、夢告により砂を奈良・三笠山の形に築くと、天皇の愛を取り戻したという。(『山州名跡志』)
 安和年間(968-970)、第56代・清和天皇の勅願により、左京の内野檪谷に春日大神を祀り、伊勢、賀茂、石清水、平野、松尾、稲荷の六社を合祀し、合わせて「七の社」としたという。(『京内まいり』『山州名跡志』)。また、斎院の守護神、大殿神、地主神、御門神、御井神、庭火神、火神、御竈神の七神ともいう。
 1033年、不祥事が起こる。武士が武者所に遊女を呼び込み、歌舞に興じた。(『紀略』)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で戦場になり、以後荒廃した。
 1511年、将軍・足利義澄の命により、内野、北野、神明野(柏野)、紫野、蓮台野、上野の氏神を合祀した。また、舟岡七々社が戦により荒廃する。(『舟岡合戦日記』)
 1534年、古図に境内が描かれ、北は船岡麓、南は廬山寺通、東は大宮通、西は千本通が含まれ、神宮寺もあった。
 安土・桃山時代、1582年、織田信長は化野ヶ原に社殿を再建したという。また、当社を参詣し、境内が高台にあり見晴らしが良かったことから、神殿を潰し別荘を建てたともいう。
 天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉は、山内一豊に命じ、当地に移し再興したという。神殿を破却した信長の身に、本能寺の変(1582)、安土城陥落(1582)が起きたためともいう。
 江戸時代、1788年、天明の大火により焼失した。
 1790年、再建される。
 現代、2001年より、葵祭に先立ち4月下旬に、斎王代が上賀茂、下鴨両神社、櫟谷七野神社に参拝する。
◆恵子 内親王 平安時代前期の斎院・恵子 内親王(さとこ/けいし-ないしんのう、?-881)。女性。慧子。父・第55代・文徳天皇、母・藤原列子(れっし)の皇女。850年、賀茂斎院になる。857年、斎院を廃された。母の密通事件が理由という。
◆藤原 明子 平安時代前期の第52代・文徳天皇の女御・藤原 明子(ふじわら-の-あきらけいこ/めいし、829-900)。女性。染殿后(そめどの-の-きさき)。父・人臣最初の摂政・藤原良房、母・第52代・嵯峨天皇の皇女・源潔姫(きよひめ)。通康親王(第55代・文徳天皇)の東宮の時に入内し、女御になった。850年、4男・惟仁親王(第56代・清和天皇)を産み、親王は立太子した。?年、賀茂の斎院・儀子内親王を産む。853年、従三位に叙せられる。858年、清和天皇の即位とともに皇太夫人、従一位に叙された。清和天皇と共に東宮に遷御した。864年、清和天皇から皇太后の号を贈られる。866年、常寧殿に遷る。882年、孫の第57代・陽成天皇の元服により、太皇太后の号を贈られた。73歳。
 文徳天皇以来、6代の天皇に50年にわたり後宮に仕えた。染殿后と呼ばれ、藤原氏の外戚としての地位確立に寄与した。父・良房は「年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし」と明子を桜花にたとえて詠んだ。(『古今集』)。伝承が残る。染殿后の美しさに迷った聖人は鬼と化し、后を悩ませた。(『今昔物語集』)。
◆有智子 内親王 平安時代前期の斎院・漢詩人・有智子 内親王(うちこ/うちし-ないしんのう、807-847)。女性。父・第52代・嵯峨天皇、母・宮人・交野(かたのの)女王。810年、4歳で嵯峨天皇の創始した賀茂社の初代斎王になる。洛北紫野の斎院で神に仕えた。823年、嵯峨天皇は斎院行幸に際して花の宴を催した。従者に「春日の山荘」の題で詩を作らせる。内親王の七言律詩「林に栖(す)む孤鳥も春の沢(うつくしび)を識(し)り、澗(たに)に隠るる寒花も日の光に見(あらわ)るる」が選ばれ三品を賜った。封100戸を与えられる。831年、病により斎院を退く。晩年、嵯峨西荘に閑居した。『続日本後紀』『経国集』などに採録された。833年、二品に叙せられる。41歳。
 文才に恵まれ、漢詩文に優れた。数少ない女性漢詩人の一人とされている。『史記』、『漢書』の中国古典に親しみ、填詞(てんし)も作った。「本朝女中無双之秀才」と称えられる。
 墓とされるものは嵯峨・落柿舎の西にあり、姫明神と呼ばれた。
◆選子 内親王 平安時代中期-後期の斎院・歌人・選子 内親王(せんし-ないしんのう、964-1035)。女性。大斎院(だいさいいん)と称された。父・第62代・村上天皇、母・中宮安子(藤原師輔の娘)の第10皇女。975年、12歳で賀茂斎院に卜定され、第64代・円融天皇、第65代・花山天皇、第66代・一条天皇、第67代・三条天皇、第68代・後一条天皇の5代57年間という異例の長期奉職在任した。1031年、退下し、後に出家した。日常贈答歌の家集『大斎院前(さき)の御集』『大斎院御集』、釈教歌集の嚆矢『発心和歌集』。『拾遺集』以下の勅撰集に入集。72歳。
 和歌にすぐれ、紫野でサロンを主導し、皇后定子(藤原定子)、中宮彰子(上東門院)と並び称される。女房に宰相、馬内侍、斎院中務、斎院中将、右近らを集めた。『枕草子』『紫式部日記』に評される。『源氏物語』は選子内親王の要望により創作されたともいう。
◆禖子 内親王 平安時代後期-鎌倉時代前期の斎院・禖子 内親王(ばいし/みわこ-ないしんのう、1039-1096)。女性。六条斎院。父・第69代・後朱雀天皇、母・中宮・藤原嫄子(げんし)女王の第2/4皇女。祐子(ゆうし)内親王の同母妹。幼時より和歌を好む。1046年、8歳で賀茂斎院に卜定(ぼくじょう)された。永承年間(1046-1053)以降、25回の歌合を催行する。1055年、「六条斎院物語歌合」を開く。1058年、病により退下した。『詞花和歌集』以下の勅撰集に入首。58歳。
 従一位。サロンには、上東門院彰子(しょうし)、皇后・寛子(かんし)、祐子内親王などに所属した女房が参加した。
◆式子 内親王 平安時代後期-鎌倉時代前期の斎院・歌人・式子 内親王(しきし/しょくし-ないしんのう、?-1201)。女性。大炊御門(おおいのみかど)斎院、萱(かやの)斎院、法名は承如法。京都の生まれ。父・第77代・後白河天皇、母・藤原季成の娘・成子(せいし、高倉三位)の第3皇女。兄に守覚法親王、以仁王、姉に殷富(いんぷ)門院。1159年、賀茂斎院の卜定を受けた。1169年、病気を理由に退下する。その後、母の住居した三条高倉殿に住み、藤原定家が訪れた。1185年、准三宮宣下を受ける。1192年、後白河法皇の没後、1194年/1191年頃、出家したとみられ、法然に帰依した。1197年、橘兼仲陰謀事件に連座し、都から追放されそうになる。家集『式子内親王集』、『正治二年院初度百首』、『千載和歌集』以下の勅撰集勅撰歌に入首。
 和歌を藤原俊成に学び、『古来風体抄』を献上された。『新古今和歌集』の女性歌人の代表とされる。斎院生活について『千載集』に一部詠まれている。伯父・藤原公光の解官、兄・以仁王の戦死などを体験した。
◆礼子 内親王 鎌倉時代中期の斎院・礼子 内親王(れいし-ないしんのう、1200-1273)。女性。名は礼子、嘉陽門院(かよう-もんいん)。父・第82代・後鳥羽天皇、母・内大臣坊門信清の娘・西御方の第2/3皇女。1204年、5歳で賀茂斎院に卜定され内親王になる。准三宮になった。1212年、病気のため13歳で斎院を退下する。その後、祖母・七条院と同居する。1214年、院号を受けた。のち出家している。74歳。
 最後の斎院になった。
◆檪谷 檪谷(いちいだに)七野神社とも呼ばれる。この檪谷については、かつて葛野郡檪谷に祀られていたからともいう。
 京都市内には嵐山の檪谷宗像神社(西京区)がある。紫野の当地に、勧請合祀したともいう。
◆七野社 七野社とは、古の斎院の殿舎に祀られていた守護神七柱を合祀したことに因む。野社とは野宮(ののみや)の意味になる。
 また、7つの神社を合祀したことに因むという。七野の惣社に起因するともいう。七野とは、紫野、上野、蓮台野、萩野(〆野、御栗栖野、神明野)、北野、平野、内野を祀った。(『京内まいり』)。これらに萩野、柏野(かえの)を加えるともいう。
 梶井門主の坊舎(船岡山東北)があり、天台守護神、山王七社を勧請し七の社としたともいう。(『山州名跡志』)
 平安時代中期、安和年間(968-970)、第56代・清和天皇の勅願により、左京の内野檪谷に春日大神を祀り、伊勢、賀茂、石清水、平野、松尾、稲荷の六社を合祀、合わせて「七の社」としたともいう。(『京内まいり』『山州名跡志』)。
 斎院の守護神である、大殿神、地主神、御門神、御井神、庭火神、火神、御竈神の七神を祀ったともいう。
 足利義澄の命により大内義興が七野の氏神を当社に合祀したことに因るともいう。
◆賀茂紫野斎院 この地には、平安時代-鎌倉時代、賀茂社に奉仕した斎王(いつきのみや)の常の御所、賀茂紫野斎院(紫野の斎院)があったとみられている。紫野の清浄な地が選ばれ建てられた。卜定、初斎院、野の宮なども伊勢の斎宮に準じていた。
 規模は、大宮通の西から廬山寺通の北まで、150m(54丈)四方の広さがあった。現在の七野神社の境内には、「大炊殿」、「膳部殿」などがあったという。場所は長らく特定されていなかった。文学博士・角田文衛(1913-2008)によりこの地が確定された。
 この廬山寺とは、明導照源が船岡山に開いたもので、寺は女人参拝ができ「洛中の叡山」といわれていた。第96代・後醍醐天皇の勅願寺になる。その後、秀吉の命により現在の寺町に移されている。
 斎院には「内院」と「外院」があり、内院には賀茂両社の祭神を祀る「神殿」と斎王の「寝殿」、外院には長官以下の事務所「斎院司(さいいんのつかさ)」、「客殿」、警固の武士の詰める「武者所」、「大炊殿」などがあった。500人の官人と女官が仕え、男子も客殿までは入れた。現在の七野神社は、かつての内院の北西の端にあたる。
 女性神職の制度である「斎王」は、賀茂神社と伊勢神宮に巫女として奉仕した、歴代天皇の未婚の内親王をいう。「斎院」とも呼ばれた。なお、「斎王」は「斎宮」と「斎院」の総称でもある。内親王に適任者がなかった場合には女王が就いた。いずれも卜定(ぼくじょう)により選ばれた。内親王は「斎内親王」、女王は「斎王」、「斎女王」と称された。また、賀茂神社の斎王を「斎院」、伊勢神宮の斎王を「斎宮」とも称した。賀茂紫野斎院は、伊勢の斎宮とは異なり、天皇の崩御(死去)、譲位の際にも必ずしも退下しなかった。
 斎院制度は、以前よりあった賀茂社の女性神職の歴史を引き継いでいる。たとえば、下鴨神社には「阿礼乎止売(あれおとめ)」の存在があった。この女性祀官は、御蔭祭の神迎神事に奉仕していた。
 初代斎王は、平安時代前期、810年に就任の第52代・嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王になる。この年に起きた平城太上天皇の変(薬子の変)による嵯峨天皇と第51代・平城天皇の対立と、「二所朝廷」の解消を祈願するために選ばれている。最後の第82代・後鳥羽天皇皇女・礼子(いやこ)内親王は、鎌倉時代前期、1212年、病気により退下している。その後、財政的な理由から斎院は廃絶し、廬山寺に施入された。この約400年間に、32代、35人の斎王が続いた。
 斎院は歌壇でもあり、度々の歌合せが催された。女房には才媛も多く、漢詩人の有智内親王、歌人として選子(せんし/ のぶこ)内親王(964-1035)、その女房に紫式部が対抗意識を抱いた中将があった。さらに、禖子内親王(1039-1096)、法然・定家と関わった式子(しょくし/しきし)内親王(1149-1201)などがいる。
◆葵祭 斎王は、かつて4月に行われていた賀茂祭(葵祭)で祭礼に奉仕した。
 斎王は、路頭の儀に先立ち、その数日前に、鴨川で「斎王御禊(ごけい)」を行った。当日、斎王は斎院を出て一条大宮で勅使行列に合流した。下社(下鴨神社)の神館(かんだち)に入り、浄衣に着替え社頭の儀を行った。
 その後、上社(上賀茂神社)に向かい、ここでも社頭の儀を行った。この日は、上社の神館に宿泊した。
 翌日、斎王の行列は、鴨川に架かる御薗橋(みそのばし)を渡り、雲林院(うりんいん)前を経て斎院に戻った。これを「祭りの帰(か)えさ」と呼び、祭列の見所になっていた。清少納言も「見ものは、祭のかへさ(還さ)」(『枕草子』)と記している。一条大路の両側には貴人のために桟敷が設けられ、物見車からも祭列を見物していた。紫式部は『源氏物語』第9帖「葵」巻で、葵上(あおいのうえ)と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の見物に際した車争いの様を描いている。
◆斎王代 現代、1956年の葵祭以来、路頭の儀に「斎王代」が加わった。4月中旬に一般市民から選ばれた未婚の女性が、斎王代(斎王の代理の意)として参加している。
 現在、境内に賀茂斎院址の顕彰碑が立てられている。斎王発祥の地として、現代、2001年より葵祭に先立ち4月下旬に、斎王代が上賀茂、下鴨両神社の参拝後、櫟谷七野神社に参拝する。「斎院跡」の顕彰碑の前で御払い後、神前に献茶し、玉ぐしを供える。
◆高砂山 当社は高砂大明神、高砂社とも呼ばれた。平安時代の第59代・宇多天皇皇后が天皇の寵愛を失い、霊夢に従い当社に詣でた。夢告により白砂で大和三笠山を築くと、ついに寵愛を取り戻す。以後、祈願ある時には白砂を社前に置いた。これを高砂山と称した。(『雍州府志』)。
 後、浮気封じの信仰を集める。夜半に参り、砂で三笠山(高砂山)を築いた。特に丑の刻参りは霊験あるとされた。他人に姿を見られると顔つぶれ(水の泡)になるといわれた。
◆有栖川 紫野斎院には、有栖川(ありすがわ)という川が流れていた。斎王は禊祓いを行っている。川は、船岡山南より大宮通を南流し、堀川に合流していた。
◆寄進印 安土・桃山時代、豊臣秀吉(1537-1598)は、山内一豊に命じ当社を移し再興したという。本殿基壇の石垣(重文)(高さ3m)には、その際工事を命じられた諸大名の寄進印が見られる。家紋「木瓜」「松皮菱」「三つ星」、家名「木村」「松尾」などがある。
◆樹木 本殿脇にタラヨウ、オガタマノキが対である。クロガネモチ、ムクノキがある。
◆年間行事 斎王代参拝(4月下旬)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京の古代社寺』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都歴史案内』、『平安京散策』、『平安の都』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『京都隠れた史跡100選』、『世界文化遺産 賀茂御祖神社 下鴨神社のすべて』、『京都府の歴史散歩 上』、『続・京都史跡事典』、『京都大事典』、『京のしあわせめぐり55』、『京都 神社と寺院の森』、京都市平安京創生館、「幻の宮 伊勢斎宮と平安京-平安京から見つかった「斎宮」(解説)-京都アスニー」、ウェブサイト「平安京オーバーレイマップ-立命館大学アート・リサーチセンター」、ウェブサイト「コトバンク」


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檪谷七野神社 〒602-0094 京都市上京区社横町(やしろよこ-ちょう)277,大宮通芦山寺上ル北側  
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