水路閣(南禅寺水路閣) (京都市左京区)  
Aqueduct of the Lake Biwa Canal
水路閣(南禅寺水路閣)  
水路閣(南禅寺水路閣)  
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「疏」の石標
















水路閣の上の琵琶湖疏水



側面図、京都市の説明板より


【参照】水路閣模型(1915年頃)、琵琶湖疏水記念館

【参照】疏水分線の第5トンネル南口




【参照】琵琶湖疏水分線
 南禅寺境内の南東に水路閣(すいろ-かく)がある。琵琶湖疏水分線の一部であり、京都市が所有している。
 近代の土木工学者・田邊朔郎が設計した。
◆歴史年表 近代、1887年、9月、水路閣は着工される。
 1888年、8月/3月、水路閣は竣工した。
 現代、1983年、7月、京都市指定史跡に指定される。
 1996年、6月、近代化遺産として水路閣、インクラインなどは国の史跡(琵琶湖疏水の一部)に指定された。
 2007年-2008年、経済産業省は「近代化産業遺産」として、琶湖疏水関連遺産(水路閣を含む)を認定している。
◆田邊朔郎  近代の土木工学者・田邊朔郎(たなべ-さくろう、1861-1944)。江戸に生まれた。洋式砲術家・田邊孫次郎の長男。1861年、朔郎が9カ月の時、父が病死する。その後、生活困窮する。1868年、戊辰戦争を逃れ武州幸手に移る。1869年、叔父・太一のもとに移る。1871年、太一が外務省任官になりその援助を受けた。1874年、東京に戻り、湯島天神下の「共慣義塾」で英語、漢学、数学を学んだ。1875年、工学寮付属小学校に入学した。1877年、工部大学普通科に入学する。2年後、私費生として工部大学校土木科(東京大学工学部の前身)で学ぶ。1881年以来、京都での実地調査に基づく、実地科卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を執筆した。土質調査の際に右手を負傷し、左手だけで製図、測量して書いている。叔父の破産後、借金して学業を続け、1883年、工部大学校を卒業した。卒論が京都府知事・北垣国道の目に留まる。請われて京都府疏水准判御用掛として採用され、琵琶湖疏水工事に従事する。1885年、疏水事務所の工事担当として疏水工事が着工した。1886年、疏水事務所の工事部長になる。1887年、工師として全体責任者になった。1888年-1889年、アメリカ合衆国に出張し、水力配置法の取調、ポトマック運河、モリス運河、リン市電気鉄道の調査を行う。1890年、琵琶湖疏水が完成する。国道の長女・しずと結婚した。媒酌人は榎本武揚だった。帝国大学工科大学教授に就任した。1891年、蹴上発電所が完成する。工学博士を授与される。1892年、震災予防調査会委員に任じられる。疏水工事報告書について英国土木学会より、テルフォード・メダルを授与される。1893年、内務省土木会委員に任じられた。1894年、義父・国道の依頼により北海道に出張し、北海道鉄道敷設のための調査を行う。1896年、東京帝大を退任し、北海道庁鉄道部長として官設鉄道の計画・建設にあたる。1897年、臨時北海道鉄道敷設事務調査嘱託に任命された。1898年、北海道鉄道部長に任命され、北海道に移る。1900年、ロシア・シベリア鉄道工事を視察した。アメリカ合衆国を訪ねる。鉄道部長を辞し、創設された京都帝国大学理工科教授に就任した。1901年、京都市土木顧問を兼務し、市の三大事業計画を推進する。1910年、京都帝国大学教授に就任した。京都市名誉顧問になる。1916年-1823年、京都帝国大学工科大学長に就任した。1923年、土木学会会長に就任する。1924年、京大名誉教授になる。勲一等瑞宝章を受章した。1929年、東京・万国工業会議副議長、土木文化会議委員長に推された。1938年、京都市から有功者として表彰された。
 米国鉄道協会会委員、アメリカ合衆国土木会会員になる。編纂委員長として『明治工業紙』(全10巻)(1925-1931)に関わる。著『明治以前日本土木史』(1936)は日本土木史の基本文献になっている。81歳。
 詩歌、漢詩文、書画、琴を嗜み、工事関連の石片を蒐集した。
 墓は大日山墓地にある。顕彰碑(京都市長寄付の黒御影石)には「希英魂永留本市」と刻まれている。傍らに夫人・静子の墓もある。
◆水路閣 水道橋の水路閣は、田邊朔郎が設計した。近代、1887年9月に着工し、1888年8月/3月に竣工した。設計は田邊朔郎による。当初は、「亀山天皇陵前桟橋」「南禅寺桟橋」と呼ばれた。同時期に完成した海外の水路橋としては、シドニーのブースタウン水路橋(1888)、ウイーンの第2高地湧水水道(1910)の例がある。
 水路閣は、琵琶湖疏水の支流の一部であり、疏水分線と呼ばれる水路にあたる。付近では東山が南側に後退しており、地面の高さも起伏に富んでいる。疏水の流れを極力迂回させずに、水位も落とさずに緩い流れを確保するためには、高架式の水道橋を築く必要があった。水路閣の最上部には水路が走り東から西へ流れている。
 工事途中から意匠、景観にも配慮された。朔郎も設計を考慮している。煉瓦色も石炭で焼き上げると発色が良くないため、火力の強い松の木に変更し焼き上げた。それでも、当初は景観にそぐわないと批判された。啓蒙思想家・教育者・福澤諭吉(1835-1901)も建設に反対したという。ただ、市民の関心は高く、工事中から見物客が押し寄せている。経費は1万4627円(現在の金額で1.6億円)だった。工事全体経費の1%を上回り、1m当たりの工事費はトンネル工事費に匹敵した。
 煉瓦、花崗岩で積み上げ、水路・主要部分にはモルタル、ほか混合モルタル(石灰、火山灰)などを用いた。両脇に2基の橋台、13基の橋脚が立ち大小(径間5m、6.4m)14カ所の連続アーチを形成している。アーチはローマ水道(紀元前312年-3世紀の古代ローマで建築された水道)が参考にされたという。スパンドレル(アーチの円弧に挟まれた扇形)には、逆三角形の浮彫を施している。水路の外壁にも連続した半円アーチの装飾がある。水路には、現在も2t/sの水が流れている。 
 施工は京都市水道局、半円アーチ式煉瓦造、花崗岩。全長93.17m/93.2m、幅4.06m/6.36m、水路幅2.42m、高さ13m/10m。
 1983年7月に京都市指定史跡に指定される。1996年6月に、国の史跡(琵琶湖疏水の一部)に指定された。2007-2008年に経済産業省は「近代化産業遺産」として、琶湖疏水関連遺産を認定している。「京都における産業の近代化の歩みを物語る琵琶湖疏水などの近代化産業遺産群」の一つとして、「疏水分線の水路閣」も含まれている。 
◆第5トンネル 第5トンネルは、瑞龍山を通過し疏水を流している。1889年の豪雨で境内の疏水石垣が崩壊し、トンネルが掘削された。琵琶湖第1疏水の第3トンネル東口洞門を模し、単純化した意匠が用いられている。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 「京都市の説明板」、ウェブサイト「関西の公共事業・土木遺産探訪」、ウェブサイト「土木デザインの実践的理念と手法に関する調査・研究」、『京都大事典』、『琵琶湖疏水の100年 叙述編』、『琵琶湖疏水の100年 資料編』、『琵琶湖疏水の散歩道』、『京都の赤レンガ』、『京都市の近代化遺産-産業遺産編』、『びわ湖疏水探求紀行 産業遺産編』、琵琶湖疏水記念館、ウェブサイト「南禅寺」、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 水路閣(南禅寺水路閣) 〒606-8435 京都市左京区南禅寺福地町86(南禅寺境内)
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