来迎院 (京都市左京区大原)
Raigo-in Temple
来迎院 来迎院
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山門












本堂








本堂






本堂内陣


本尊・薬師如来像(重文)



釈迦如来像(重文)



阿弥陀如来像(重文)



多聞天立像



不動明王立像



天上画、長押上の壁画


天上画、長押上の壁画



右より聖應大師、元三大師、開山祖・慈覚大師木像を祀る。




如来蔵 


収蔵庫
 三千院より呂川沿いの山道をしばらく登る。小野山から南へ流れる呂川、北の律川に挟まれた地に来迎院(らいごう-いん)はある。
 魚山上ノ院本坊来迎院ともいう。勝林院とともに大原二流の声明道場として知られた。山号は魚山という。 
 天台宗延暦寺派の別院。本尊は薬師如来を安置している。
 京都洛北・森と水の会。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、仁寿年間(851-854)、慈覚大師円仁(794-864)は、天台声明の修練道場として開いた。中国天台山を模して堂塔を建立したという。
 その後、衰微する。
 1094年、良忍が来住し、天台声明を確立し大原魚山流とした。以後、大原は勝林院とともに声明の中心地になる。
 1109年、聖王大師(良忍)により再興され、来迎寺と称される。この頃、薬師・釈迦・阿弥陀仏の三尊を安置し、「三尊院」と呼ばれたという。
 1126年、焼失している。
 1156年、比叡山延暦寺は大原に梶井門跡の政所を設け、以後、来迎院、勝林院、念仏行者などを統括・管理した。
 1174年、縁忍が住した。公卿・吉田経房が来迎院、極楽院を訪れる。
 1184年、薬師供が始まる。(『玉葉』)
 鎌倉時代、1200年、藤原兼実、藤原定家は良忍の経蔵、如来蔵を訪れている。
 1236年/1238年、宗快は声明を再興した。
 南北朝時代、南朝初代・後醍醐天皇(在位1318-1339)の時、綸旨により康空示導が住した。
 室町時代、1426年、11月、焼失した。
 永亨年間(1429-1441)、再建されている。
 文明年間(1469-1486)以後、勝林院とともに、1月、2月、5月に懺法講を修していた。
 1533年/天文年間(1532-1553)/1552年、改修される。現在の本堂が建てられた。
 江戸時代、梶井門跡支配になり、朱印地69石を領し、諸堂も建てられた。
 近代、塔頭の浄蓮華院、蓮成院、善逝院、遮那院などが独立し、総称としての来迎院は、現在の本堂に残された。
◆円仁 平安時代前期の天台僧・円仁(えんにん、794-864)。俗姓は秦、号は光乗房、諡号は聖応(しょうおう)大師。下野国(栃木県)の生まれ。9歳で大慈寺・広智に師事、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事し、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て心身回復し、法華経書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立した。836年、837年、渡唐に失敗し、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。また、悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。『顕揚大戒論』、9年6か月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。江戸・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。60歳。
 没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。
◆良忍 平安時代後期の融通念仏宗開祖・良忍(りょうにん、1073-1132)。俗姓は秦、若い頃は良仁、号は光乗(静)房、諡号は聖応(しょうおう)大師、本願上人。尾張国(愛知県)の生まれ。富田荘領主の子。1083年、比叡山に入る。比叡山の東塔檀那院実報房辺に住した。堂僧になり、実兄・良賀に師事し出家する。無動寺明王堂に1000日間はだし参りを行う。不断念仏を修め、良仁の名を与えられる。園城寺・禅仁から戒法、観勢から円頓戒脈を相承する。仁和寺・永意から秘密灌頂を受けた。山門派(延暦寺)と寺門派(三井寺・園城寺)との対立を嫌い、山を下りる。1094年、大原に隠棲し、名も良忍に改める。大原・勝林院の永縁らに従い、声明梵唄を学ぶ。その後、常行三昧堂から念仏と読経(声明)を切り離して独立させ、天台声明を統一し大原声明を完成させた。1109年、大原に来迎院・浄蓮華院の2院を建てる。1117年、阿弥陀仏の霊告を感得し、自他融通の念仏を創始した。1124年、宮中で融通念仏会をいとなむ。1125年、鞍馬寺に詣で通夜をし、本尊・毘沙門天が現れて融通念仏を守護すると告げたという。1127年、鳥羽上皇(第74代)の勅願により、河内平野に修楽寺の別院(大念仏寺の前身、日本初の念仏道場)を開く。1132年、来迎院で没したという。60歳。
 融通念仏宗の開祖、円仁の請来した声明を習得・大成し、天台大原魚山声明中興の祖になる。融通念仏は阿弥陀仏の夢告により、「一人の念仏が万人の念仏に通じる」とした。念仏唱える者は自分だけではなく万人のためにも唱え、万人が一人のために唱えることで念仏の功徳が高まると説いた。1773年、聖応大師の号を追諡された。
◆宗快 鎌倉時代の僧・宗快(?-?)。詳細不明。1236年/1238年、声明を再興し『魚山目録』一巻に良忍の遺韻を収めた。
◆康空 鎌倉時代後期-南北朝時代の僧・康空(1286-1346)。示導(じどう)。比叡山の相実、良祐らに学ぶ。浄土宗に転じ、鎌倉の覚空仏観、三鈷寺の玄観に西山派を学ぶ。証空の教えを研究し本山流をたてた。1323年、三鈷寺8世、後醍醐天皇の戒師になる。後、綸旨により大原・来迎院に住した。著『観無量寿経四帖疏康永抄』。60歳。
◆仏像 本堂に、鳥羽上皇による5体の仏像が安置されている。
 ◈本尊(中尊)の「薬師如来坐像」(89.7㎝)(重文)は、平安時代後期(藤原時代)作であり、創建当初からの本尊という。また、近世になり遷されたともいう。顔は両頬が張る円満な表情で、衣文線は浅く穏やかになっている。木造、桧材、寄木造、漆箔。
 ◈右脇侍の「阿弥陀如来坐像」(59.4㎝)(重文)は、平安時代後期(藤原時代)作になる。創建時とほぼ同時期の造立とみられる。来迎印を結ぶ。引き締まった体躯に衣文表現はやや硬い。木造、桧材、寄木造、漆箔。
 ◈左脇侍に「釈迦如来坐像」(58.8㎝)(重文)を安置する。平安時代後期(藤原時代)作になる。創建時とほぼ同時期の造立とみられる。定朝様式、納衣を偏袒右肩につけ、結跏趺坐する。引き締まった体躯に衣文表現はやや硬い。木造、桧材、寄木造、漆箔。
 ◈脇侍の「不動明王立像」(95㎝)は平安時代(藤原時代後期)になる。
 「毘沙門天立像/多聞天立像」(97.3㎝)は平安時代(藤原時代後期)作になる。
 内陣天上に天女画、長押上の壁に白地に琵琶などの楽器が描かれる。
 ◈外陣左脇檀に鎌倉時代の「慈覚大師坐像」、鎌倉時代の「元三大師画像」、鎌倉時代の「聖応大師坐像」、右脇檀に徳川歴代将軍の尊霊を安置する。
◆建築 ◈「本堂」は、室町時代後期、天文年間(1532-1553)/1552年に改修された。妻を正面にする。正面に広縁、正面3間に蔀戸(しとみど)、側面に引開戸、広縁上に化粧屋根裏天井、内部は1間四面堂で内陣周りを外陣にする。内陣天井に天人画がある。3間3間、単層、入母屋造、杮葺。
 
◈「如来蔵」は、良忍が経堂として創建したと伝えられる。
 ◈「鎮守堂」「地蔵堂」は鎌倉時代に建立された。
 ◈「収蔵庫」は現代、1985年に建立された。
◆文化財 ◈「伝教大師度縁案(どえんあん)並僧綱牒(そうごうちょう)」3通(国宝)は、最澄(伝教大師、767-822)の伝記資料になる。平安時代前期、780年、783年、784年の作になる。いずれも東京国立博物館保存。
 ◈『日本霊異記 中下』2帖(国宝)は平安時代作になる。国立奈良博物館、京都国立博物館保存。
 ◈平安時代-江戸時代の「来迎院如来蔵聖教(しょうぎょう)文書類」550部(重文)は、良忍の自筆写本、平安時代の聖教・声明に関した典籍・文書による。室町時代前期、1426年の火災での焼失を免れ、良忍建立の如来蔵に収蔵されていた。
 ◈「前卓(まえじょく)」は、本堂内陣、三尊前にある。室町時代中期以前の作という。牡丹唐草の透し彫り、線様彫法などが施されている。
 ◈鐘楼の「梵鐘」(京都市指定重要文化財)は、室町時代中期、「永享七年(1435年)藤原国次作」の銘がある。大原郷来迎院鐘と刻まれている。
◆声明 声明(しょうみょう)は、寺院の法要儀式の中で行われる仏教音楽であり、経典などに独特の節をつけて僧侶により唱和される。
 仏教の起こりとともにインドで始まり、梵唄(ぼんばい)といわれ、中国に伝えられた。さらに、奈良時代-平安時代に日本にも伝えられた。現在でも、天台声明、真言声明がある。
 大原の天台声明(魚山声明)は、平安時代、慈覚大師円仁により、中国の唐よりもたらされた。円仁は、五台山(山西省)の支峰、魚山で14年間の仏教修学後、比叡山に密教や声明などを伝える。
 平安時代後期、円仁の9代目の弟子・寂源により根本道場(後の勝林院)が開かれ、声明を継承する。さらに、良忍が来迎院を建立する。良忍は、それまで分裂していた天台声明(七流とも)を統一し、大原二流の声明を完成させた。二院(上ノ院・上寺・来迎院と下ノ院・下寺・勝林院)を本堂とし、二院は魚山大原寺と総称された。大原の声明は、節がゆっくりとしていることから「ねむり節」といわれている。基本になる音階は5つある。節回しは「塩梅(えんばい)」といわれ、音階間を連続して上下する。この塩梅は小節の源流という。
 平安時代後期、1156年、比叡山延暦寺は、その隆盛を恐れ、梶井門跡の政所(後の三千院)を設置し、寺勢を統括していた。それでも鎌倉時代には、上寺に49坊、下寺に50坊の寺があった。
良忍の伝承
  ◈大原に隠棲した良忍は、平安時代後期、1109年に来迎院を建てた。如来蔵に仏教聖典の大乗三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)を納めたという。連日、法華経を読誦し大乗経典を書写する。念仏六万遍を唱え、手足の指を燃やして仏に供養したという。
  ◈「音無の滝(おとなし-の-たき)」で良忍・歴代は、滝に向かい声明を唱えて練習した。初めは声明の声が滝音に掻き消されて聞こえなかった。稽古を重ねるにつれ、やがて滝音と声明が和し、最後に滝の音が消され声明のみが聞こえたため音無の滝と名付けられたという。
  ◈「獅子飛石(ししとび-いし)」は、本堂前石段下にある四角い石をいう。「獅子石」とも呼ばれる。鎌倉時代作による。
 良忍の声明があまりに美しかったため、境内の石が獅子になり飛び回ったという。また、良忍が文殊の秘法を修した際に、石が獅子になり庭上を吼えまわったという。(『元亨釈書』)

◆子院 江戸時代に本堂(来迎院)と僧房が呂川沿いに建てられていた。蓮成院、浄蓮華院(じょうれんげ-いん、融通寺[ゆうずう-じ])、善逝院(ぜんせい-いん)、遮那院(しゃな-いん)などがあった。
 近代以降は、境内塔頭の総称だった来迎院の名は、来迎院本堂の尊称に変わる。
◆墓 ◈御廟「三重石塔」(重文)は、鎌倉時代前期作、良忍の墓とされる。基礎、方形の軸、笠が別石で積み重ねられている。初重軸はやや高く、屋根の軒反りも穏やかになる。高さ2.82m、花崗岩製。
 ◈「五輪石塔」は、鎌倉時代作になる。笠の軒がやや薄く、反りも緩やかになっている。花崗岩製、高さ1m。
◆樹木 門前にカツラがある。シキミ、ユズリハがある。
◆修正会 修正会(1月2日)では、結願の2日午後3時半より、僧による声明、六時作法、若衆宮座による「魔おどし(三十三度)」が行われる。
 太鼓、鉦に合せ、踊り手は右手に柳の木(ぶち)、左手に竹のささらを持ち、悪魔を追い払い新年の祈願を行う。この時、「さんじゆうさんどー」との節に合わせて踊り手が舞う。無形文化財に指定されている。
◆年間行事 修正会(1月2日)、寺宝特別公開(5月1日-30日)、盂蘭盆会(声明、九条錫枝)(8月15日)、寺宝特別公開(11月1日-30日)
 声明(毎週日曜日午後1時)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*現在は堂内の撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『旧版 古寺巡礼 京都 17 三千院』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 中』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』、『仏像』、『日本の名僧』、『源氏物語を歩く旅』、『京都 神社と寺院の森』、『京都の隠れた御朱印ブック』、『週刊 日本の仏像 第14号 三千院 国宝阿弥陀三尊と大原』、「拝観の手引-令和4年度第58回京都非公開文化財特別公開」、ウェブサイト「コトバンク」


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鐘楼

梵鐘

鎮守堂

地蔵堂

聖応大師良忍上人御廟への石段

聖応大師良忍上人御廟

聖応大師良忍上人御廟、良忍の墓という三重石塔(重文)

石灯籠

獅子飛石

五輪石塔

境内の杉の巨木林

境内の池に生みつけられていたモリアオガエルの卵

穴太積みの石垣

【参照】音無滝

【参照】境内南を流れる呂川

【参照】境内北を流れる律川

呂川
来迎院 〒601-1242 京都市左京区大原来迎院町537  075-744-2161  9:00-17:00
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