千本釈迦堂 (大報恩寺) (京都市上京区)
Sembonshaka-do Temple
千本釈迦堂 (大報恩寺) 千本釈迦堂 (大報恩寺) 
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本堂(釈迦堂)(国宝)、5間6間。入母屋造、檜皮葺。京都市内最古の建物。鎌倉時代、1227年建立。室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)、江戸時代、1730年の大火でも焼失しなかった。


本堂、地垂木と飛檐(ひえん)垂木の裏、屋根裏に桔木(はねぎ)といわれる材が入り、柱がなくても屋根を吊り上げる工夫が施されている。その初例が当寺という。


本堂


本堂、内陣


本堂、おかめ像



本堂の柱に残る刀、槍傷跡は、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)による。




本堂、天井


本堂、ます組


本堂


北野経王堂願成就寺(経王堂)、観音堂。


北野経王堂願成就寺(経王堂)、観音堂、「太子堂」の扁額。


稲荷社、茶吉尼天尊、天上多田稲荷大明神を祀る。鎌倉時代、1250年に2世・如輪上人により、賀茂、春日、石清水、日吉、今宮の五社とともに勧請した。


稲荷社


稲荷社



不動明王堂、山名氏清、山名宗全の念持仏という不動明王尊を祀る。縁日は毎月8日、18日、28日。



不動明王堂



おかめ塚、1979年建立、手に斗(ます)ぐみを持つ。 


お亀の墓という宝篋印塔




布袋尊
 千本釈迦堂(せんぼん しゃかどう)は、北野釈迦堂(きたのしゃかどう)とも呼ばれる。本坊の名より養命坊とも呼ばれた。正式には大報恩寺(だいほうおんじ)、山号は瑞応山(ずいおうざん)という。
 真言宗智山派。本尊は行快作の釈迦如来坐像。
 観音菩薩(百ヵ日)は京都十三仏霊場めぐりの第8番札所。京の通称寺霊場5番、「鳴虎」。ぼけ封じ近畿十楽観音霊場の2番霊場。新西国三十三箇所第16番札所。 
 おかめ塚は夫婦円満、建築工事安全、商売繁盛、開運招福、多福招来祈願などの信仰がある。ぼけ封じ観音があり、ぼけ封じお守りが授与される。御朱印(3種類)が授けられる。
◆歴史年表 鎌倉時代、1221年、天台僧の義空上人が、猫間中納言・藤原光隆の家卒・岸高の寄進により、この地に小堂を建て、一仏十弟子像を安置したことに始まるという。(「千本大報恩寺斡縁疏并序(坊目誌)」)。当初は、倶舎、天台、真宗三教の霊場となった。検校職は妙法院が持った。
 1223年、大堂が建立される。摂津・尼崎の材木商の寄進による。
 1227年、現在の本堂が建立されている。(棟札)
 1235年、綸命(天皇の命)により大小乗(倶舎、天台、真宗)三宗弘通の道場になる。(「千本大報恩寺斡縁疏」)。広大な伽藍を有した。その後、天台宗に改宗した。(「雍州府志」)
 文永年間(1264-1274)、如輪により、釈迦念仏(千本の釈迦念仏)が始められる。旧暦2月15日亥の刻(午後9時)-丑の刻(午前3時)に念仏を唱え続けるものだった。
 1363年、足利尊氏の命により、涅槃講を行うともいう。(「千本大報恩寺斡縁疏」「半陶藁」)。ただ、尊氏はこの時すでにない。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では、当寺は西軍の中心地に位置していたため焼失した。ただ、両陣営から保護され、本堂だけは奇跡的に焼失を免れた。(「西陣天狗筆記」)。西軍の将・山名宗全(1404-1473)の計らいによるともいう。
 応仁-文明年間(1467-1486)、山城、播磨などの寺領も失い、衰微する。大和・長谷寺の玄空が大勧進になり修造を試みた。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉により寺領の替え地100石を与えられる。(「大報恩寺文書」)
 江戸時代、朱印地100石が引き継がれる。
 江戸時代初期、京都所司代・板倉勝重(1545-1624)により真言宗に改宗、智積院の正玄寿に与えられ隠居所になったという。(「雍州府志」)。住持についての総論があり、智積院に付され、その住職の隠居所になったという。
 1730年、大火により焼失している。本堂だけは類焼を免れる。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、北野天満宮の仏教伽藍の破壊が行われた。北野経王堂願成就寺(経王堂)は、当寺に観音堂として移築された。
 現代、1956年、旧材により経王堂が再建される。
 1966年、北野経会が復活した。
◆義空 鎌倉時代の僧・義空(ぎくう、1171-1241)。如輪房澄空上人。出羽に生まれた。武将・藤原秀衡の孫。比叡山の澄憲に天台をまなび、倶舎(くしゃ、法相宗)も研究した。1221年、大報恩寺を建立した。号は求法、通称は如輪上人。千本の釈迦念佛を始めたという。
◆山名氏清 南北朝時代の武将・山名氏清(やまな うじきよ、1344-1392)。時氏の第4子。民部少輔、陸奥守。父の死後、丹波を継承する。1377年以降、侍所頭人を務める。1378年、南朝の伊勢での橋本正督の蜂起を、兄と共に鎮圧し和泉守護となる。1382年、河内平尾合戦など南軍攻略に活躍した。1385年、山城守護職に就任。1391年、明徳の乱で足利義満に反旗を翻し、三条大宮付近で一色詮範に討たれた。
◆山名持豊 室町時代の武将・山名持豊(やまな もちとよ、1404-1473)。宗全(そうぜん)。時煕の子。1433年、家督、1425年、惣領職を継ぐ。1441年、嘉吉の乱で播磨白旗城の赤松満祐を討ち、1391年、明徳の乱以来の失地を回復、一族で9か国を領した。管領斯波・畠山家の相続問題に介入。足利将軍家後継問題で義尚を擁立し、義視派の細川勝元と対立、応仁・文明の乱(1467-1477)となる。西軍の陣中で亡くなる。
◆快慶 平安時代末-鎌倉時代初期の仏師・快慶(かいけい、?-1227以前)。慶派。康慶の弟子ともいう。1183年、運慶発願の法華経結縁者「運慶願経」の一人として登場する。笠置寺貞慶の教えを受ける。30体、40体を造像した。現存最初の仏像は1189年作の弥勒菩薩立像(ボストン美術館所蔵)がある。現存2例は1192年、醍醐寺三宝院弥勒菩薩坐像で、以後、「巧匠アン阿弥陀仏」と銘記した。1203年、法橋。1203年、運慶と合作し東大寺南大門の金剛力士像を造仏した。
 大寺院だけでなく、小寺院の造仏にも関わり、小像も製作した。理知的な表情、細身の体などの特徴がある。
◆行快 鎌倉時代前期の仏師・行快(ぎょうかい、生没年未詳)。慶派、快慶の高弟。1216年、法橋位。1221年頃、京都・大報恩寺(千本釈迦堂)の釈迦如来坐像を製作した。また、大和・長谷寺で十一面観音菩薩像造立では、快慶を補佐し光背を製作したという。1227年、法眼。蓮華王院(三十三間堂)の千躰千手観音菩薩像一体に「巧匠法眼行快」銘が入る。
◆定慶 鎌倉時代の仏師・定慶(じょうけい、生没年不詳)。詳細不明。大仏師法師定慶。12世紀後半の慶派仏師。康慶の弟子、主に興福寺、春日社などで活躍した。作例は1196年、興福寺東金堂維摩居士像、1202年、梵天、帝釈天、建久年間(1190‐1199)、金剛力士像など。
 なお、鎌倉時代に同名の大仏師法師定慶、肥後法眼定慶、越前法橋定慶の3人がいたという。
◆阿亀 鎌倉時代の女性・阿亀(おかめ、?-1227)。詳細不明。西洞院通一条の名大工・長井飛騨守高次の妻。夫が棟梁として関った千本釈迦堂本堂の上棟式を前に自死した。
◆仏像・木像 19体の重文指定の仏像がある。
 本堂内、鎌倉時代作の美仏、本尊の「釈迦如来坐像」(重文)(89㎝)は快慶弟子の行快作による。須弥檀高御座式の「厨子」(国宝)内に納められている。左足上の結跏趺坐、施無畏、与願印を結ぶ。膝裏に「巧匠法眼行快作」の銘が入る。寄木造、粉溜、漆箔、玉眼。「天蓋」(国宝)には八葉蓮華文が飾られている。
 霊宝殿内には、鎌倉時代、1218年、快慶(生没年不詳)ら作の10体の「十大弟子像」(重文)が安置されている。「舎利弗(しゃりほつ)」(95㎝)・智慧第一、「摩訶目けん連(まかもっけんれん)」(97.2㎝)・神通(じんずう)第一、「摩訶迦葉(まかかしょう、大迦葉)」(94.4㎝)・頭陀(ずだ)第一、「須菩提(しゅぼだい)」(98.6㎝)・解空(げくう)第一、「富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)」(96.2㎝)・説法第一、「摩訶迦旃延(まかかせんねん)(99.2㎝)・論議第一、「阿那律(あなりつ)」(96.8㎝)・天眼(てんげん)第一、「優波離(うぱり)(95.8㎝)・持律第一、「羅ご羅(らごら)」(98㎝)・密行(みつぎょう)第一、「阿難陀(あなんだ)」(96.8㎝)・多聞(たもん)第一になる。それぞれ厳しく個性的な表情をする。このうち、阿難陀の胎内文書に、像造年、老翁姿の目けん連像の右足臍、優波離像内に「巧匠法眼快慶」の銘があり、快慶自らが手掛けたと判明した。木造、寄木造、彩色、截金、玉眼。
 鎌倉時代、1224年作の肥後別当・定慶(生没年不詳)作、木造6体の美仏の「六観音菩薩像」(重文)が現存して立ち並ぶ。このような例はほかにないという。透し彫りの光背の素木で、左より慈悲相の「聖観音」(178㎝)、慈悲相の「千手観音」(180㎝)、定慶真作とみられる3面6臂忿怒像の「馬頭観音」(173㎝)、慈悲相の「十一面観音」(180㎝)、慈悲相の「准胝(じゅんてい)観音」(176㎝)は、1面18臂を持ち、素地仕上げの写実的、精巧な彫りで穏やかな表情を見せる。宋朝彫刻様式を取り入れている。18の手、指表現の繊細な美しさ、絶妙な配置でも知られている。坐して立膝し、頭を傾げ、右手で頬杖をつく慈悲相の1面6臂の「如意輪観音」(96㎝)は朽木座に載り、美しい表情をしている。いずれも、宋代彫刻の影響がある。鎌倉時代初期の「六道信仰(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)」に6体の観音が対応し、どの苦しみからも救済されるという。6体は北野の神宮寺・経王堂より遷された。像造年銘は准胝(じゅんてい)観音像内にあった。願主は納入写経(如意輪・馬頭観音)より、滝口入道を伯父とする藤原以久女の奉納による。木造、寄木造、素地、玉眼。
 藤原時代(894-1285)初期作、菅原道真が庭の梅の木で自刻したという「千手観音立像」(重文)(165.9㎝)は、かつて写経本坊本尊だった。木造、一木造、彩色。
 鎌倉時代作の銅造、「釈迦誕生仏立像(誕生釈迦如来像)」(重文)(53㎝/63㎝)は、清凉寺式釈迦如来像になる。髪は渦巻き、右手人差し指で天を高く指し示し、左手人差し指は地を指し、釈迦誕生の様を模している。釈迦は母・摩耶夫人の右脇より生まれ、七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と発したという。荷葉座に立つ。
 平安時代(10世紀前半)の「千手観世音菩薩立像」(重文)(165.9㎝)は、翻波式衣文、木造、彩色。
 鎌倉時代作の厨子入「千躰地蔵菩薩像」(重文)(13.5㎝)は、繊細な彫りの美仏「中尊」(3.3㎝)が左足を下げて坐している。中尊、光背の周囲に1000体(現在は950体)の小像が隙間なく配されている。足元に憤怒相の「閻魔王」、「冥官」が控える。第104代・後柏原天皇の護持仏といわれている。木造、彩色。京都国立博物館寄託。
 「笑う仏」と呼ばれる木像がある。
◆建築 鎌倉時代、1227年、現在の「本堂(釈迦堂)」(国文)が建立された。1951年の解体修理の際に、「安貞元年(1227年)」の棟札が発見された。室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)、江戸時代、1730年の大火でも焼失しなかった。京都市内に残る最古の建築になる。西陣旗頭・山名宗全の祖父・氏清の墓所が千本釈迦堂の末寺にあったともいう。
 内陣四天柱内を内内陣とし、来迎壁、須弥檀がある。柱の上部に、おかめが提案したという「ます組」がある。本堂内部の柱4本のうち、1本を誤って短く落としたたため、当時、建物外部に用いていたます組を建物内部にも初めて使用し、柱の高さを均一にしたものという。寄進された柱を補充することは困難だったため、柱に付け足すことで調整した。ほかの3本の柱も上部をあえて短くし、ます組を入れている。
 本堂は、一間四面堂(方三間堂)に前庇、四周に庇を加えた平面であり、一間四面堂の発展したものとされる。柱に残る刀、槍傷跡は、応仁・文明の乱による。中陣の天井周りの七宝つなぎなどの装飾がある。地垂木と飛檐(ひえん)垂木の裏、屋根裏に桔木(はねぎ)といわれる材が入り、柱がなくても屋根を吊り上げる工夫が施され、その初例になる。蔀戸を多用する。5間6間。一重、入母屋造、向拝1間、檜皮葺。
◆経王堂
 境内には観音堂が建つ。経王堂とも呼ばれている。
 室町幕府3代将軍・足利義満(1358-1408)は、南北朝時代、1391年の明徳の乱による戦死者・山名氏清の供養のために大施餓鬼を修した。これには、近畿、中国、四国、中部の僧、庶民が宋版一切経を手本として写経した。その後、写経は仏事供養の「内野万部経会」、「北野経会(万部経会)」(1398)の起源になる。
 義満は当初、氏清の供養のために内野に経王堂を建てたという。艮(うしとら)の方角、隅の柱下に氏清の首を埋めたという。その後、衰微する。
 1401年に義満は、北野社境内に経王堂を建立する。礎石は氏清の墓石を用いた。三十三間堂の規模を凌いだ経王堂には写経が奉納され、連歌会所としても知られた。
 近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、1870年に北野天満宮の仏教建築の破壊が行われた。北野経王堂願成就寺(経王堂)は、当寺に観音堂として移築された。一切経は不明になる。
 1952年、千本釈迦堂(本堂)の解体修理に際して、旧経王堂の古材が部材として一部に使われていることが判明した。江戸時代、1670年に経王堂を縮小した際の残木だったという。一切経の一部も発見される。
 1956年に旧材により経王堂が再建された。義満筆の扁額「経王堂」が掛るという。1966年より、絶えていた北野経会も復活し、氏清ら犠牲者を供養している。
◆おかめ塚 鎌倉時代、長井飛騨守高次という名棟梁がいた。千本釈迦堂の本堂建立の総棟梁になり、配下数百人の大工に対して采配を振るった。だが、尼崎の信徒より寄進の、四天王の柱の一本を切り誤る。30cmほど短く切り落とした。代わりの材木も見つからず高次は思い悩む。
 それを見かねた妻の阿亀は、斗(ます)ぐみ(木+共)を施すという古い記録を思い出し夫に伝えた。柱間の上部に梁のような材を横に渡す。残り3本の柱もすべて短く切り揃え、斗ぐみを載せて補えば済む。この結果、本堂は見事に完成した。
 高次は、総棟梁が妻の提言で大任を果たしたとなると、親方としての面目は丸潰れになることを案じていた。それを知った阿亀は、上棟式の前に自刃する。 上棟式当日、高次は妻を悼み亡き妻の面を御幣につけ、その冥福と本堂の落成を祈ったという。また、阿亀の菩提を弔うために、境内に宝筐院塔が立てられ「おかめ塚」と呼ばれた。
 おかめの面の付いた上棟御幣は、いまも棟上げの際に屋根裏に置かれる慣わしがある。3枚の扇子を円にしてあり、中央におかめ面が飾られている。面は阿亀の顔に似せられ、突き出た額、低い鼻、膨らむ頬、おちょぼ口は当時の美人の典型とされていた。上棟御幣は、家宅の火災除け、家内安全と繁栄を願い行われている。建築成就、工事安全、女性の厄難消滅、商売繁盛の招福信仰もある。
 現在、本堂内陣、外陣は組入天井になっており、柱は斗ぐみになっている。「ますがた」を手に持ったおかめ像がある。江戸時代、1718年に、三条通菱屋町大工・池永勘兵衛によりおかめ供養塔(おかめ塚、宝篋印塔、花崗岩製)も建立された。1979年に阿亀多福像は建築業者により立てられた。
◆文化財 室町時代、1412年書写の「北野社一切経五千五百余巻」(重文)。
 「だ太鼓縁」(重文)は一対の太鼓縁で、舞楽用に足利義満が造らせたものという。龍と鳳凰の彫刻が施されている。高さ7m。
 「義満乗車御所車ノ輪」は、室町幕府3代将軍・足利義満が、北山殿に向かう途中で千本通を通りかかった。その際に破損した車輪の一つという。義満建立の大堂(経王堂?)より移されたものという。直径2m。
◆遺教経会 千本の釈迦念仏は、遺教経会といわれる。2世・如輪上人より鎌倉時代、文永年間(1264-1275)に始められた。嵯峨・清凉寺とともに釈迦信仰の中心になる。釈迦念仏(2月9日-15日)では、涅槃仏のを安置し、遺教経を講じた。吉田兼好『徒然草』226段・238段にも記されている。
◆大光柱 鎌倉時代、1227年の本堂建立の際の逸話が残る。1223年、大光柱の用材が見つからず工事が中断したという。その際に、摂津国尼崎の材木商・成金(じょうこん/しげかね)に夢枕が立つ。夢中に金色白眉の老僧・杜多(ずだ)が現れた。
 僧は、洛中で堂宇の建設中だが、大光柱の用材として成金の材木を見せてほしいという。成金が見せると、僧は木材に「大報恩寺」と刻印して帰った。成金が目覚めると、材の柱に印文が残されていた。
 翌日、成金は寺を訪れ仮堂を見ると、夢に現れた僧がおり、釈迦十大弟子のひとり迦葉尊者だったことを知る。感応した成金は本堂に木材を寄進し、本堂は完成を見たという。(『半陶藁』)
◆碑 山名氏清の碑が立つ。江戸時代、1677年、山名氏末裔により建立された。「山名陸奥大守氏清之碑」と刻まれている。
◆樹木 エノキ、クロガネモチ、シダレザクラがある。
◆京都十三仏霊場めぐり 観音菩薩(百ヵ日)は京都十三仏霊場めぐりの第8番札所になっている。室町時代、8代将軍・足利義政が、歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。また、貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦(あしゅく)如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆年間行事 おかめ節分(おかめがおかめ音頭で鬼やらいを行う。木遣音頭、厄除祈願、茂山狂言社中協賛による鬼払いの儀、福豆撒き、百福手拭撒き、厄払札福縁起、お神酒接待、甘酒授与。)(2月3日)、千本釈迦念仏(遺教経会とも呼ばれ『徒然草』にも記され、現在も続けられている)(3月15日)、潅仏会(仏生会)(誕生釈迦仏立像に甘茶をかけて祝う)(4月8日)、六道参り(8月8日-16日)、北野経会・山名氏清墓前祭(10月10日)、大根焚き(鎌倉時代に当時の住職が成道会、釈迦が悟りを開いたとされる12月8日に、大根の切り口を鏡に見立て、釈迦の名を梵字で書き、諸病退散の厄除けとしたことに始まるという。大根を食すると中風除け、厄除けになるといわれる)(12月7日-8日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都歴史案内』『京都隠れた史跡100選』『京の寺 不思議見聞録』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『京都の仏像 入門』『日本の秘仏を旅する』『京都・美のこころ』『おんなの史跡を歩く』『京都ご利益徹底ガイド』『京都を歩く 31北野』『京都 神社と寺院の森』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』 


              観音寺      北野天満宮      六道珍皇寺      

山名氏清の碑、江戸時代、1677年、山名氏末裔により建立された。 

桜の名所としても知られている。


モチノキ科のクロガネモチ(雌木)

千本釈迦念仏
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千本釈迦堂(大報恩寺) 〒602-8319 京都市上京区溝前町1035-1,今出川七本松上る  075-461-5973  9:00-17:00
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