|
|
宗諄女王墓 (京都市左京区) grave of Princess Sojun |
|
宗諄女王墓 | 宗諄女王墓 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() 宗諄女王墓 ![]() ![]() ![]() 周辺の墓地 ![]() 疏水 ![]() 「故巡査部長村田睦穂殉職之地」の石標 |
哲学の道より琵琶湖疏水に架かる橋を渡ると、江戸時代後期-近代の尼僧・宗諄女王墓(そうじゅん-じょおう-はか)がある。 ◆歴史年表 近代、1890年、6月13日、宗諄女王は亡くなり、この地に葬られた。 ◆宗諄女王 江戸時代後期-近代の宗諄女王(そうじゅん-じょおう、1817-1890)。幼称は万志宮。伏見宮貞敬(さだよし)親王の第9王女。1819年、光格上皇(第119代)の養女になる。1823年、霊鑑寺に入り出家、5代・門跡になる。最後の皇女の住持だった。1873年、還俗し伏見宮に復帰した。1880年、尼に戻る。新政府の大教宣布運動に協力し、中教正、権大教正を務めた。霊鑑寺には戻ることはできなかった。道号は法山。75歳。 ◆墓 小さな橋を渡った対岸に、石段が付けられている。その上に南面して門、石垣が見える。近くの山腹にも複数の墓が立つ。 対岸へは立ち入れないため、詳細は分からない。 ◆村田巡査事件 橋袂に「故巡査部長村田睦穂殉職之地」と刻まれた石標が立つ。新しい花が手向けられていた。 この地はある事件の現場になった。1966年8月30日夜、鹿ヶ谷派出所巡査・村田睦穂(25歳)は、哲学の道を警ら中に、拳銃を奪われ射殺された。発見時の遺骸は、疏水中にあり、弾丸は4発残されていた。その後、自殺説も出て事件は迷宮入りする。同年、12月21日に「殉職」とされた。(「村田巡査事件」) *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 ウェブサイト「コトバンク」、ウェブサイト「人権〝一日100質〟」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|