大悲閣(千光寺) (京都市西京区)
Daihi-kaku (Senko-ji) Temple
大悲閣(千光寺) 大悲閣(千光寺) 
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「大悲門道」の石碑


大悲門道の石柱


保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある松尾芭蕉の句碑「花の山 二町のぼれば 大悲閣」


黒門


参道




大須賀乙字の句碑「嵐気動く奥は蝉声晴れてあり」


参道


参道途中の洗心亭


門道の石段


松尾芭蕉の句碑「六月や峰に雲おくあらし山 はせを翁」






山門


鐘楼


鐘楼、梵鐘


鐘楼




旧客殿(大悲閣)


「大悲閣」の扁額


新客殿(大悲閣)

新客殿(大悲閣)、舞台造(懸崖造)


新客殿(大悲閣)、算盤で作られた三重塔


新客殿(大悲閣)、算盤で作られた三重塔


新客殿(大悲閣)、「無量大数」の算盤


新客殿(大悲閣)


新客殿(大悲閣)からの眺望、山向こうに京都市街地、眼下に保津川(大堰川、桂川)の流れが見える。


新客殿(大悲閣)、保津川(大堰川、桂川)


新客殿(大悲閣)、比叡山


新客殿(大悲閣)


「天然勝境」の扁額


仏殿(仮本堂)


仏殿


仏殿本尊・千手観世音菩薩 
 千光寺(せんこうじ)は、嵐山(382m)北麓、渡月橋の大堰川(保津川、桂川)上流の右岸(南岸)1.2kmにある。
 千鳥ヶ淵より、急峻な九折の参道(門道、石段は約200段)を登った中腹に建つ。客殿の名称から院号は大悲閣(だいひかく)とも呼ばれている。その名は「菩薩の大きな慈悲」に因んでいる。「嵐山大悲閣(あらしやま-だいひかく)」、正しくは「大悲閣千光寺」と呼ばれている。山号は嵐山という。
 黄檗(おおばく)宗単立の禅寺。本尊は千手観世音菩薩を安置する。
 角倉了以ゆかりの寺であり、角倉家一族の一人である江戸時代初期の和算家・吉田光由に因み、算盤(そろばん)上達、数学・理学向上の寺としても知られている。
◆歴史年表 鎌倉時代、千光寺は、第99代・後嵯峨天皇(1220-1272)の祈願寺だった。当初は、中院(右京区嵯峨釈迦堂前南中院町)にあり、大悲閣の前身になる。禅宗の鎌倉・建長寺に属した。その後、衰退する。
 江戸時代、1614年、土倉(どそう)・角倉了以(すみのくら-りょうい)は、嵯峨釈迦堂西の千光寺の旧地を得る。その本尊・千手観世音像を念持仏にした。現在地(嵐山の別業の地)に移す。二尊院の僧・道空了椿(どうくう-りょうちん)を中興開山として建立した。寺号は、観音の「大慈大悲」より「大悲閣」と名付けた。当初は天台宗だった。了以はすでに病床にあった。大堰川開削犠牲者の菩提を弔うために、観音堂を建て移り住んだという。了以は同年、7月、没した。その後、衰微、荒廃する。
 了以の子・角倉素庵(1571-1632)は、父の像を安置し、以後、角倉家の菩提所になる。 
 1808年、了以200年忌にあたり、子孫の角倉玄寧、黄檗僧・大顚(だいてん)により中興された。日野黄檗宗正明寺の末寺になる。(「角倉文書」)。京都の豪商・風間八左衛門により復興されたともいう。 
 江戸時代末期、再び衰微した。
 近代、1868年、8代・角倉関岳が萬福寺末にした。境内、堂宇、寺領山林、什宝など多くを失い、荒廃した。大悲閣は残る。
 1871年、9代・戒岳が再興した。
 1887年、戒岳の時、開基家分家には廃寺の意図があった。思想家・岡倉天心(1863-1913)らが復興に協力し、その後も整備が続けられた。
 1912年頃、角倉了以の300年忌に客殿(大悲閣)が新築された。
 現代、1959年、9月、伊勢湾台風の被害により、本堂(観音堂)、大悲閣などが損傷する。その後、仮補修で凌いだ。
 1978年、12月、本堂が解体される。その後、仏殿(仮本堂)が建てられ、本尊などが遷された。
 2013年、1月-10月、客殿(大悲閣)の修復工事が終わる。
◆角倉了以 室町時代後期-江戸時代前期の海外貿易家・豪商・土木事業家・角倉了以(すみのくら-りょうい、1554-1614)。与七、諱は光好、法号は了以。京都嵯峨生まれ。土豪(高利貸)・医者・吉田宗桂(そうけい)の長男。母は中村氏の娘。父は勘合貿易により薬も扱った。了以は算数・地理を学び、角倉家5代として家業を引き継ぐ。1592年、豊臣秀吉から朱印状を与えられた。1604年以降、徳川氏から朱印状を与えられた。1603年-1613年、弟・宗恂、長男・与一(素庵)らの協力により、安南国(ベトナム)トンキン(東京)との御朱印船(角倉船、400人乗り、800t)貿易により富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削(丹波-山城)を行う。保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓いた。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。通舟料を得て莫大な利益を得る。1608年、幕府の命により、富士川(駿河岩淵-甲府)疏通を完成させる。同年、天竜川(遠江掛塚-信濃諏訪)開疏は失敗した。1609年以降、貿易は子・与一に譲る。1610年、方広寺大仏殿造営の材木運搬のために、鴨川開削(水路化)を行う。1611年-1614年、高瀬川(京都二条-伏見)開削を行う。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年は、大悲閣(西京区)に隠棲し、開削川の通船の便益を念じたという。
 薬物の輸入に尽力した。土木工事の技術に長けた。琵琶湖疎水(勢多-宇治)計画では、舟行、新田開発の腹案もあった。角倉家は河川通船支配権、倉庫料徴収での特許を得て有力材木商になる。京の三長者(ほかに、後藤四郎兵衛家、茶屋四郎次郎)の一人といわれた。61歳。
 墓は二尊院(右京区)にある。
◆角倉素庵 安土・桃山時代-江戸時代前期の豪商・文化人・角倉素庵(すみのくら-そあん、1571-1632)。名は光昌、玄之(はるゆき)、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵。父は角倉了以、母は吉田栄可の娘の長男。父の朱印船貿易、河川開発事業を継承した。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」の一人とされた。1599年、『史記』の刊行以降、1601年頃まで、光悦の協力を得て嵯峨本を刊行する。1603年から、父・了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、日本国回易大使司を称し、角倉船を海外派遣した。父の大堰川、富士川、天竜川の開削、鴨川水道、高瀬川の運河工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、1614年-1615年、大坂の陣で船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲した。61歳。
 歌、茶の湯、書は角倉流(嵯峨流)を創始した。近世の能書家の五人の一人。
 墓は化野念仏寺(右京区)、二尊院(右京区)にもある。
◆道空了椿 江戸時代前期の浄土宗の僧・道空了椿(どうくう-りょうちん、?-? )。詳細不明。二尊院の僧。1614年、千光寺(大悲閣)を中興開山した。
◆吉田光由 安土・桃山時代-江戸時代前期の和算家・吉田光由(よしだ-みつよし、1598-1672/ 1673)。幼名は与七、通称は七兵衛、号久庵。京都生まれ。角倉氏の一族であり、角倉了以は光由の外祖父にあたる。初め和算家・算盤の始祖・毛利重能に数学を学ぶ。角倉素庵から中国・明の算術書『算法統宗』を学ぶ。1627年、『塵劫記(じんこうき)』を著し、掛算割算の「九九(くく)」を庶民に初めて紹介した。算盤、比例算、検地算、ねずみ算、百五減算も解説し人気を博した。仕官はせず、熊本藩主・細川忠利に招かれた。1641年、忠利の没後、京都に戻る。晩年、失明し、素庵の子・玄通に養われる。門人に横川玄悦がいる。著『古暦便覧』など。75歳。
 墓は二尊院(右京区)にある。
◆大顚 江戸時代後期の黄檗宗の僧・大顚(だいてん、?-? )。詳細不明。1808年、千光寺(大悲閣)を中興開山した。
◆三柴元 現代の実業家・三柴元(みしば -げん、1944-2011)。埼玉県生まれ。1986年、コンピュータシステム開発サービス「ラック」(東京都)を創業した。客殿(大悲閣)の修復に際して寄進する。2011年、客殿の完成を待たずに亡くなる。67歳。
 墓は二尊院(右京区)にある。
◆仏像・木像 ◈仏殿(仮本堂)に、本尊の「千手観世音菩薩像」が安置されている。平安時代の恵心僧都(源信、942-1017)の作とされる。鎌倉時代、中院(右京区嵯峨釈迦堂前南中院町)にあった千光寺の旧本尊という。角倉了以の念持仏だった。
 ◈仏殿(仮本堂)の左脇壇に、「弁財天像」が安置されている。
 ◈仏殿(仮本堂)脇壇に、木像「了以像(了以等身坐像)」(73㎝)が安置されている。江戸時代に、了以の遺言により造られた。法衣姿で、手には自ら振ったという石割斧を握りしめている。木彫太縄の円座上に片膝を立てて座る。寄木造、玉眼入。
 
◈「了椿像」がある。
◆建築 黒門、山門、仏殿(仮本堂)、客殿(大悲閣、展望閣)、鐘楼、庫裡(風雲軒)、洗心亭などが建つ。
 ◈「観音堂(本堂)」は、江戸時代、1614年に建てられた。現代、1959年の伊勢湾台風の被害により損傷する。その後、仮補修で凌いだ。1978年に解体された。
 ◈「客殿(大悲閣、展望閣)」は、1912年頃、角倉了以の300年忌に新築された。現代、1959年、伊勢湾台風の被害により損傷する。建物は歪みワイヤーで補強されていた。その後、仮補修で凌ぐ。2013年に大修復される。切り立った岩肌に建ち、舞台造(懸崖造)になる。
◆保津川開削 かつて保津川は、急流の場所が多く、岩が迫る。川底に岩が当たり、舟も筏も通さなかった。
 江戸時代、1606年、角倉了以による保津川開削では、川中の大岩は浮櫓を組み、大鉄槌(長さ3尺、周り3尺、柄の長さ2丈)を人力で引き上げ、これを岩に落として砕いた。水面上に出ている岩は、岩上で火を焚き、岩を脆くさせてから破壊した。大石に大綱をかけて引き倒し、火薬で爆破した。火薬は安南貿易により入手したという。大岩は、綱で陸に引き上げた。川幅が広く、水深が浅い場所では、川幅を狭めることで水深を確保した。瀑では上流部の川底を掘り下げ、下流との落差をなくした。了以は自らも石割斧で岩を砕いたという。工事はわずか6カ月で完成する。
 航行する舟は、備前の吉井川で見た舷が高く、舟底が平らな舟(高瀬舟)を参考にした。保津川の開削により、丹波町与木村より淀、大坂までの水運が通じた。以後、園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄え、丹波材や農産物の物流が盛んになる。
◆文化財  ◈保津川開削に関する史資料が残されている。
 ◈新客殿(大悲閣)に、算盤の玉で作られた三重塔が安置されている。2013年に「京都吉田光由悠久会」会員・久下五十鈴により寄進された。すべて、1万玉の算盤玉により作られている。高さ1.1m。
 算盤は「無量大数(255桁)」あり、長さは3.5mになる。いずれも伝統工芸士・大橋中行の作による。
◆碑・石造物 ◈参道登り口に 「何人治水功如禹古碣髙鐫了以翁」(左)、「千尺懸崖搆梵宮下臨無地一谿通」(右)の2本の石柱が立てられている。
 
◈境内に顕彰碑「河道主事(かどうしゅじ)嵯峨吉田了以翁碑」が立つ。了以の子で儒学者であり、高瀬川開削にも当たった素庵(1571-1632)が建立した、江戸時代前期の儒者・朱子学者・林羅山(1583-1657)の撰文による。
 1978年の本堂解体に際して、左上部が欠損した。2002年に修復され、寺域中央に移された。2003年に覆屋が完成している。
  ◈庭の一角に「夢窓国師の坐禅石」といわれる石が置かれている。嵐山の山頂より移されたという。
◆芭蕉句碑 保津川(大堰川)河畔右岸、参道途中に江戸時代の俳人・松尾芭蕉、関連した句碑4つが立てられている。
 ◈参道入口に、松尾芭蕉(1644-1694)の小さな句碑が立つ。「花の山 二町のぼれば 大悲閣」、右下に「はせを」と刻まれている。この「はせお」は、「芭(は)」、「蕉(せお)」であり、古い字音表記になる。「芭蕉」は、「ばしょう」ではなく「はせお」と発音された可能性がある。
 芭蕉は、1694年閏5月下旬-6月中旬に嵯峨・落柿舎(右京区)に滞在した。ただ、芭蕉句集にこの句は載っていないという。
 句碑は近代、1878年に角倉関岳、俳人同志らにより立てられた。尊攘運動家・官僚・詩人・山中献(やまなか-けん、1822-1885)筆による。山中は、信天翁(しんてんおう、対嵐山房)と号した。高さ1.4m、幅27㎝。
 ◈渡月小橋近くに「鶯や日は上にあるあらし山」の俳人・松瀬青々(まつせ せいせい、1869-1937)の句碑が立つ。青々は芭蕉に傾倒した。門下により、現代、1953年に立てられている。高さ1.2m、幅77㎝。
 ◈参道途中、九折の角に「嵐気動く奥は 蝉声(せんせい)晴れてあり」、右下に「嵐山にて乙字」の句碑が立つ。近代の俳人・大須賀乙字(おおすが おつじ、1881-1920)の句になる。近代、1932年の乙字13回忌に 俳誌『懸葵(かけあおい)』の「懸葵発行所」により立てられた。高さ1.6m、幅77㎝。
 ◈参道途中、山門近くに松尾芭蕉の「六月や峰に雲おくあらし山」、右下に「はせを翁」の句碑がある。近代、1916年に枯魚堂(こぎょどう)5世・山口嵐更(?-? )、後援者として京都博遊社、全国の俳人などにより立てられた。高さ1.7m、幅76㎝。
◆文学 ◈ 近代の小説家・夏目漱石(1867- 1916)の長編小説『門(もん)』(1910)に記されている。
 ◈ 近現代の小説家・谷崎潤一郎(1886- 1965)の『細雪』(1943-1948)に、幸子たちが去年、大悲閣で折詰弁当を開いたとある。
 ◈現代の推理作家・北森鴻(きたもり-こう、1961-2010)の「裏(マイナー)京都ミステリー 」中の短編集『支那そば館の謎』(2003)、『ぶぶ漬け伝説の謎』(2006)の舞台になっている。「貧乏寺」の大悲閣千光寺住職は、寺に盗みに入った怪盗・有馬次郎(アルマジロ)を許し、寺男として置く。次郎はその経歴を生かして様々な謎を解決していく。
◆千鳥ヶ淵 
保津川(大堰川、桂川)に「千鳥ヶ淵(ちどりがふち)」と呼ばれる淵がある。滝口入道時頼と横笛の悲恋で知られている。
 美貌の横笛は、建礼門院の雑仕であり、この付近で入水したという。
◆戸無瀬の滝 「戸無瀬(となせ)の滝」は、渡月橋の上流右岸にある。嵐山から大堰川に注ぐ。かつての天龍寺蔵王権現堂の背後に位置する。
 平安時代には和歌に詠まれた。鎌倉時代中期、歌人・藤原為家(1198-1275)が「雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の瀧の音まさるなり」と詠んだ。
 室町時代初期、臨済僧・夢窓疎石(1275-1351)は、天龍寺十境の一つに選んだ。三段になって流れ落ちており、「三級巌」と名付けた。その様は江戸時代の『都名所図会』巻4、『都林泉名勝図会』巻5、「広重六十余州名所図会」に描かれている。「戸難瀬」「戸灘瀬」とも書かれた。
 角倉了以の保津川開削により、多くが削られたという。上流に滝の一部は残る。
◆鳥居 大悲閣に至る道筋に祀られている嵐山、蔵王大権現の鳥居は、「宗忠鳥居」と呼ばれる型式になる。近代、1923年以前の建立による。石造。
◆嵐山城 境内背後の山の頂に、かつて嵐山城があった。連郭式の山城であり、曲輪、石積、土塁、竪堀、堀切などが残る。
 室町時代、永正年間(1504-1521)、足利管領・細川政元の家臣・香西又六(元長、?-1507)により築かれた。1507年、又六は、細川家の家督争いに際して、政元を暗殺した。澄之を政元の養子とし、管領職を継がせようとした。これに反して、政元の養子・細川澄元の軍が入洛する。香西軍は城を出て、両軍は百々橋で戦う。香西軍は敗れ、又六は討死、澄之は城に火を放ち自害したという。
◆年間行事 了以忌・川施餓鬼(9月22日)、除夜の鐘(12月31日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 当寺案内書「大悲閣」、「京都市 駒札」、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『洛西歴史探訪』、『京都府の歴史散歩 上』、『続・京都史跡事典』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都大事典』、『鳥居』 、ウェブサイト「大悲閣千光寺」、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址  周辺嵐山・桂川  周辺嵐山公園(亀山公園   関連高瀬川  関連滝口寺  関連二尊院  関連落柿舎  関連小川通・百々ノ辻・百々橋  関連角倉氏邸跡     

仏殿弁財天像

仏殿了以等身坐像

仏殿了以等身坐像

仏殿

風雲軒
風雲軒

サクラ

イロハモミジの大木 
 
 

坐禅石

「河道主事嵯峨吉田了以翁碑」  

対岸の亀山公園から見た千光寺の春 
亀山公園から見た千光寺の秋 

境内南にある嵐山
境内南西の烏ヶ岳

【参照】渡月小橋近く、保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある松瀬青々の句碑「鶯や日は上にあるあらし山」

【参照】近くの保津川(大堰川、桂川)、千鳥ヶ淵付近

【参照】 保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある戸無瀬(となせ)の滝
 
 【参照】保津川(大堰川、桂川)河畔右岸
保津川(大堰川、桂川)河畔右岸
【参照】保津川(大堰川、桂川)河畔右岸
【参照】保津川(大堰川、桂川)河畔右岸、寺に至る小径

【参照】保津川(大堰川、桂川)河畔右岸にある蔵王大権現

蔵王大権現

 蔵王大権現

蔵王大権現
大悲閣千光寺 〒616-0004 京都市西京区嵐山中尾下町62   075-861-2913
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