大悲閣(千光寺) (京都市西京区)
Daihi-kaku (Senko-ji) Temple
大悲閣(千光寺) 大悲閣(千光寺) 
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境内は山の中腹にあり、参堂の階段は200段ある。




山門




了以堂


了以堂からの眺望、山の奥に京都市街地を望む。眼下には了以が開削した保津川の流れが見える。






桜の大木


了以等身坐像、手には自ら振ったという石割斧を握りしめている。


「天然勝境」の扁額
 嵐山(382m)北麓、渡月橋の大堰川上流の千鳥ヶ淵より、さらに急峻な山あいの参道を登った中腹に大悲閣(だいひかく)は建つ。 
 嵐山大悲閣(あらしやま だいひかく)、大悲閣とも呼ばれている。正しくは大悲閣千光寺(せんこうじ)と称される。山号は嵐山という。
 黄檗(おおばく)宗単立の禅寺。本尊は千手観世音菩薩を安置する。
◆歴史年表 鎌倉時代、千光寺は、第99代・後嵯峨天皇(1220-1272)の祈願寺だった。かつて、中院(右京区嵯峨釈迦堂前南中院町)にあり、大悲閣の前身になる。その後、衰退する。
 江戸時代、1614年、土倉(どそう)・角倉了以(すみのくら りょうい)は、嵯峨釈迦堂西の千光寺の故地を得て、その本尊・千手観世音像を念持仏とした。現在地(嵐山の別業の地)に、二尊院の僧・道空了椿(どうくう りょうちん)を中興開山として建立した。寺号は、観音の「大慈大悲」より大悲閣と名付けた。当初は天台宗だった。すでに病床にあった了以は、大堰川工事犠牲者の菩提を弔うために、観音堂を建て移り住んだという。了以は同年没した。その後、衰微、荒廃する。
 了以の子・角倉素庵(1571-1632)は、父の像を安置し、以後、角倉家の菩提所になる。 
 1808年、了以200年忌にあたり、角倉玄寧は、黄檗僧・大顚(だいてん)により中興される。日野黄檗宗正明寺の末寺になる。(「角倉文書」)。京都の豪商・風間八左衛門により復興されたともいう。 
 江戸時代末期、再び衰微した。
 近代、1868年、八代関岳が万福寺末とした。堂宇、寺領などの多くが失われる。
 1871年、9代・戒岳は再興した。
 1887年、戒岳の時、開基家分家より廃寺の意図がある。思想家・岡倉天心(1863-1913)らが復興に協力し、その後も整備が続けられた。
 現代、1959年、伊勢湾台風の被害により本堂など堂宇が損傷する。
 1978年、本堂が解体される。その後、仏殿が建てられ、本尊が遷された。
 2003年、修復工事が終わる。
◆角倉了以 室町時代-江戸時代の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614)。吉田光邦。京都に生まれた。父の吉田宗桂は、家業の医者であり、勘合貿易により薬も扱っていた。了以も家業を行う。1603-1613年、御朱印船(角倉船、800t)貿易によるアジア諸国との交易で巨万の富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削工事により保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓く。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。川を通行する舟より通舟料を得て、莫大な利益を得る。幕府の命により、1608年、富士川の疏通を完成 させる。同年、天竜川開疏は失敗した。1614年、高瀬川の開疏を完成させている。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年は、大悲閣に隠棲した。
 墓は二尊院にある。
◆角倉素庵 安土・桃山時代-江戸時代の豪商・角倉素庵(すみのくら そあん、1571-1632)。父は角倉了以、母は吉田栄可の娘の長男。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」のひとりとされた。1599年、『史記』の刊行以降、1601年頃まで、嵯峨本を刊行する。1603年から、父・了以の安南国 東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、父の大堰川の開削など各所の工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、大坂の陣 (1614-1615)に、船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲し た。墓は化野念仏寺、二尊院にもある。
◆道空了椿 江戸時代の浄土宗の僧・道空了椿(どうくう りょうちん、生没年不詳)。詳細不明。二尊院の僧。1614年、千光寺(大悲閣)を中興開山した。
◆大顚 江戸時代の黄檗宗の僧・大顚(だいてん、生没年不詳)。詳細不明。1808年、千光寺(大悲閣)を中興開山した。
◆仏像・木像 本堂には、了以の念持仏だった本尊の「千手観音像」が安置されている。平安時代の恵心僧都(源信、942-1017)の作とされる。鎌倉時代、中院(右京区嵯峨釈迦堂前南中院町)にあった千光寺の本尊だったという。
 脇壇に、了以の遺言により造られた木像「了以像(了以等身坐像)」(73㎝)が安置されている。法衣姿であり、手には自ら振ったという石割斧を握りしめている。太縄の円座に片膝を立てて座る。寄木造、玉眼入。
 
「了椿像」もある。
◆保津川開削 保津川は、急流の場所が多く、岩が迫る。また、川底に岩が当たり、舟も筏も通さなかった。
 江戸時代、1606年、了以による保津川開削では、川中の大岩は浮櫓を組み、大鉄槌(長さ3尺、周り3尺、柄の長さ2丈)を人力で引き上げ、これを岩に落として砕いた。水面上に出ている岩は、岩上で火を焚き、岩を脆くさせてから破壊した。大石に大綱をかけて引き倒し、火薬で爆破した。火薬は安南貿易により入手したという。大岩は、綱で陸に引き上げた。川幅が広く、水深が浅い場所では、川幅を狭めることで水深を確保した。瀑では上流部の川底を掘り下げ、下流との落差をなくした。了以は自らも石割斧で岩を砕いたという。工事はわずか6カ月で完成する。
 航行する舟は、備前の吉井川で見た舷が高く、舟底が平らな舟(高瀬舟)を参考にした。保津川の開削により、丹波町与木村より淀、大坂までの水運が通じた。以後、園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄え、丹波材や農産物の物流が盛んになる。
◆文化財 保津川開削に関する史資料が残されている。
 了以の子で儒学者であり高瀬川開削にも当たった素庵(1571-1632)が建立した、林羅山撰文による顕彰碑「河道主事(かどうしゅじ)嵯峨吉田了以翁碑」がある。
 傍らに「夢窓国師の座禅石」といわれる石がある。
◆芭蕉 参道途中に芭蕉(1644-1694)の句碑が立つ。「花の山二町のぼれば大悲閣」と刻まれている。芭蕉は、この頃、嵯峨・落柿舎に滞在していた。句碑は近代、1878年に立てられた。
◆千鳥ヶ淵 
保津川(桂川)に「千鳥ヶ淵」と呼ばれる淵がある。滝口入道時頼と横笛の悲恋で知られる。美貌の横笛は、建礼門院の雑仕であり、この付近で入水したという。
◆鳥居 大悲閣に至る道筋に祀られている嵐山、蔵王大権現の鳥居は、「宗忠鳥居」と呼ばれる型式になる。1923年以前の建立による。石造。
◆嵐山城 境内背後の山の頂に、かつて嵐山城があった。
 室町時代、永正年間(1504-1521)、足利管領・細川政元の家臣・香西又六元長により築かれた。1507年、又六は、細川家の家督争いに際して、政元を暗殺した。澄之を政元の養子とし、管領職を継がせようとした。これに反して、政元の養子・細川澄元の軍が入洛した。香西軍は城を出て、両軍は百々橋で戦う。香西軍は敗れ、又六は討死、澄之は城に火を放ち自害したという。
◆年間行事 了以忌・川施餓鬼(9月22日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『洛西歴史探訪』『京都府の歴史散歩 上』『続・京都史跡事典』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都の寺社505を歩く 下』『京都大事典』『鳥居』


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本堂

「河道主事嵯峨吉田了以翁碑」 

「嵐気動く奥は蝉声晴れてあり」 乙字俳句集、大須賀乙字

亀山公園から見た千光寺

芭蕉の句「花の山 二町のぼれば 大悲閣」。

【参照】近くの保津川(桂川)、千鳥ヶ淵付近

【参照】蔵王大権現


蔵王大権現

蔵王大権現
大悲閣千光寺 〒616-0004 京都市西京区嵐山中尾下町62   075-861-2913
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