小川通・百々ノ辻・百々橋 (京都市上京区)
 Ogawa-dori Street
小川通・百々ノ辻・百々橋 小川通・百々ノ辻・百々橋
50音索引,Japanese alphabetical order    Home 50音索引,Japanese alphabetical order    Home
小川




本法寺(ほんぽうじ)仁王門、かつての「小川(こかわ)」は寺の門前を流れいた。


本法寺の石橋


小川跡


裏千家家元の茶室「不審庵」の表門


裏千家家元の茶室「今日庵」の表門



茶道資料館(茶道センター)




【参照】官休庵、千宗守居士遺蹟、上京区武者小路通小川東入ル613


【参照】樂家・樂美術館


【参照】樂家・樂美術館、樂焼家元吉左衛門宅、上京区油小路中立売上ル613、樂焼美術館は1978年設立。北隣に樂家が位置している。


百々橋ひろば


百々橋ひろば、百々橋の礎石遺構。この付近に百々橋が架けられていた。

百々橋ひろば、左端に百々橋跡、中央に小川跡、説明板より


中央に小川、木橋、上に宝鏡寺、(『上杉本 洛中洛外図屏風』)、説明板より


百々橋ひろば、小川跡


【参照】百々橋(京都市洛西竹林公園)


【参照】百々橋(京都市洛西竹林公園)
 南北の小川通(おがわ-どおり)周辺には、本法寺などの寺院、裏千家家元の屋敷、茶道具店などが数多く建ち並ぶ。
 通り名の由来は、かつて北の上立売通から一条通付近まで、河川の「小川(こかわ)」が流れていたことに因んでいる。 
◆歴史年表 平安時代、11世紀(1001-1100)、一条小川付近には革聖行円の開いた行願寺(革堂)があった。吉田兼好の『徒然草』に、この寺の近くに住んだ連歌師の「猫また」にまつわる話が登場する。小川の対岸に、石置き板葺屋根の町家が、川にせり出すように建てられていた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、川上に「水上町家」が建てられていた。
 室町時代、この地は、足利将軍家邸宅花の御所(室町御所)に近く、幕府関連の屋敷、寺院などが建ち並び、政治の中枢になる。宝鏡寺は、足利義政・日野富子夫妻の小川御所跡とされている。
 室町時代中期以降、小川の東側に幕府管領・細川氏の家臣屋敷、西側の堀川周辺には、山名氏の家臣の屋敷が多くあった。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で、細川勝元と山名宗全の両軍が、小川に架かる百々橋(どどばし)を挟み、数度にわたって戦を繰り広げた。
 応仁・文明の乱(1467-1477)後、この地に名水・名井が湧き、酒屋が軒を並べた。土倉(金融)も兼業した。
 1507年、足利管領・細川政元の家督争いでは、養子・澄元、澄之が対立した。百々橋を挟んで戦になる。
 1571年、周辺10町で町組「小川組」を組織した。(「立入宗継文書」)
 安土・桃山時代、豊臣秀吉の市街改造に際し、小川通が開かれたという。当初は、寺之内通-錦小路通が開通した。
 江戸時代、1646年、宗旦は、三男・江岑宗左に不審庵を譲り、自らは北隣に「今日庵」を建てて隠居した。
 1653年、宗旦の建てた利休茶室「又隠」が復元され、宗旦は再び隠居している。
 1788年、不審庵、今日庵が焼失した。
 1789年、不審庵、今日庵が再建される。
 近代、1905年、不審庵が焼失する。
 近代、1907年、百々橋が石橋に架け替えられた。
 1909年、現在の残月亭が再建される。 
 1913年、現在の不審庵が再建された。
 1920年、琵琶湖疏水が小川にも通され、一条戻橋で堀川に注ぐようになる。
 現代、1963年、下水道整備工事の際に、小川も暗渠化され川は消滅する。
 1969年、今日庵文庫が開設される
 1975年、百々橋は竹林公園(西京区)に移された。
 1979年、茶道料館(裏千家茶道センター)が開設された。
 2017年、小川通の「無電柱化」の工事が終わる。
◆千利休 室町時代-安土・桃山時代の茶人・千利休(せんの-りきゅう/せん-りきゅう、1522/1521-1591)。堺の魚問屋田中与兵衛の子に生まれた。祖父・千阿弥は、足利義政の同朋衆であり、堺に移ったという。父は納屋衆(なやしゅう)になり、千阿弥より「千家」と称したという。書院台子の茶を北向道陳(きたむき どうちん)に学ぶ。1540年頃、10歳代で武野紹鷗(たけの じょうおう)に茶の湯を学ぶ。堺・南宗寺に参禅し、宗易(そうえき)と改めた。その後、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。21歳で家督を継ぎ、1542年、宝心妙樹(ほうしん-みょうじゅ)と結婚した。1544年、初の茶会記録が残る。1574年(1573年)、織田信長の茶頭の一人になる。先妻没後、1578年、堺の宗恩(そうおん)と再婚する。1582年、本能寺の変後、1583年、豊臣秀吉の茶頭になり側近政治に関与する。1586年(1585年)、秀吉の関白就任御礼の禁中献茶に、秀吉の後見として茶を点てた。第106代・正親町天皇より「利休」の号を賜る。1587年、北野大茶湯にも演出に関わる。1589年、大徳寺山門の二層部分を寄進した。住持により利休の木像が安置された。1590年、秀吉の小田原攻略に従軍する。小田原より古田織部に自作の竹花入、書状を送る。1591年、大徳寺山門事件の責任をとり、堺に蟄居になる。その後、秀吉に京都へ呼び出され、切腹を命じられた。京都葭屋(よしや)町聚楽の屋敷内で茶を点てた後に自刃した。妻・宗恩がその遺骸に白い小袖をかけたという。首は一条戻橋で晒首された。前田利家、古田織部、細川忠興らの助命嘆願はかなわなかった。なお、利休は切腹せず、逐電(逃げ失せる)したとの説がある。
 村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などに創意を凝らした。茶の湯の典型を示した。墓所は大徳寺・聚光院にある。
◆小川・小川通 小川通は、紫明通-錦小路通間の南北の通り名をいう。豊臣秀吉による地割で生まれたとも、短冊形地割の対象外地区になったともいう。かつては、通りに沿い小川(こかわ)という細い川が流れており、通り名の由来になる。
 小川は、かつては堀川の一部だったという。北山、東山を源とする賀茂二股川であり、小川通に沿い南流し、上立売通で東進、小川通で再び南下し、一条で西に折れて更科川になった。一条戻橋付近で堀川に合流していた。
 川の途中には、北より、本法寺、宝鏡寺、報恩寺、誓願寺、革堂(行願寺)、百万遍(知恩寺)などの寺院が建てられていた。川には百々橋(どどばし)(寺之内町)、水落橋(上立売橋)、羅漢橋(今出川橋、今出川通)などが架けられていた。
 近代以降、琵琶湖疏水の完成により、1820年に、疏水が小川にも通され、一条戻橋で堀川に注ぐようになった。1945年、軍命令により高野川以西の琵琶湖疏水は埋め立てられる。1963年、下水道整備工事の際に小川も暗渠化され、川は消滅した。
◆百々の辻・百々橋 通り近くの宝鏡寺は、「百々(どど)御所」とも呼ばれる。百々は百々氏という豪族が住んだためともいう。境内の南の寺之内通の一部を、「百々の辻」と呼んだ。江戸時代、1753年、森幸安が応仁・文明の乱(1467-1477)以後の120年間の荒廃した京都の様子を描いた『中昔京師絵地図』にもその名がある。
 付近に、小川が流れ百々橋が架けられていた。橋の長さは4間1分(7.5m)、幅は2間2分(4m)あった。夜更けに橋上で、青い着物を着た妖女に出会ったという伝承がある。(『今昔物語』)。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では、細川勝元と山名宗全の両軍が、この橋を挟み、数度にわたって戦を繰り広げた。1507年、足利管領・細川政元の家督争いでは、養子・澄元、澄之が対立した。澄之、香西又六元長・薬師寺長忠は、義父・正元を暗殺した。さらに、澄元の小川宿所に向かい、橋を挟んで戦になる。香西又六は戦死し、本拠の嵐山城も落城した。澄之は城に火を放ち自害した。
 小川は、1963年頃から埋め立てられ、その後、百々橋も取り払われている。橋は現在、竹林公園内に移され復元されている。
◆千家 堺の豪商・茶人・武野紹鴎(たけの-じょうおう、1502-1555)の弟子・千利休(1522-1591)の切腹後、利休の養子・少庵宗淳(しょうあん-そうじゅん、千少庵、1546-1614)は、豊臣秀吉(1536-1598)から千家の復興を許された。本法寺門前の土地を得て、不審庵、残月亭を復興した。その後、少庵は子・元伯宗旦(げんぱく そうたん、1578-1658)に不審庵を譲った。
 江戸時代、1646年、宗旦は、三男・江岑宗左(こうしん-そうさ、1613-1672)に不審庵を譲り、自らは北隣に「今日庵」を新たに建てる。宗旦は、四男・仙叟宗室(せんそう-そうしつ、1622-1697)を伴い隠居した。今日庵は、不審庵の北裏に位置したため、「裏千家」と呼ばれる。不審庵は「表千家」と呼ばれた。その後、宗左は、新たに不審庵を建て直している。後に宗室が今日庵を継いだ。
 なお、宗旦の二男・一翁宗守(いちおう-そうしゅ、1605-1676)は、武者小路千家(官休庵)を開く。江戸時代中期に、これら表千家、裏千家、武者小路千家の三つは、「三千家」と呼ばれる。上京(かみぎよう)に屋敷を構えていたので、「上流(かみりゅう)」ともいわれた。利休の孫・宗旦の長男は家を継がず、宗旦の次男が武者小路家、三男が表千家、四男が裏千家をそれぞれ継いだ。
 表千家の宗左は唐津藩、高松藩、紀州徳川家に仕官した。裏千家の宗室以後は、歴代が加賀・前田家、伊予・松平家に仕官した。
 なお、同じく紹鷗の弟子・剣仲紹智(けんちゅう-じょうち、1536-1627)は薮内家の始祖になる。藪内家は、下京(しもぎょう)に屋敷を持っており、「下流(しもりゅう)」と呼ばれた。
◆不審庵・表千家 本法寺の東、小川通に西面して、表千家家元の茶室「不審庵」がある。
 利休の子・少庵が、利休没後に千家再興を許される。この地に、かつて大徳寺門前にあった利休遺跡の茶室、四畳半の「不審庵」、「残月亭」を復興した。不審庵とは、表千家、邸そのものも意味する。その名は、大徳寺117世・古渓宗陳(こけい そうちん、1532-1597)禅師の漢詩「不審花開今日春(不審にして花開く今日の春)」に因む。禅師は、堺・南宗寺住職の頃、千利休と出会い、参禅の師になる。禅師は利休から茶道を学んだ。
 宗旦は、不審庵の跡を継ぎ、1646年に三男・4世・宗左に譲って隠居した。宗旦自らは今日庵を営む。不審庵は「表千家」と呼ばれた。今日庵は不審庵の北裏にあり「裏千家」と呼ばれる。
 江戸時代、1788年に不審庵は焼失した。近代、1905年にも焼失する。現在の庵は、1913年に再建された。残月亭は1909年に再建されている。
 ◈「不審庵」は、利休好みの草庵茶室、平三畳台目でありその基本になる。現在の茶室は、宗旦の一畳半を宗左が三畳台目に改造している。躙口正面に床、給仕口があり、茶道口が手前畳の前方にある。手前畳の勝手付に板畳を入れる。
 ◈庭園(国名勝)の「露地」は、近代、明治期(1868-1912)末-大正期(1912-1926)初年に作庭された。東西に長く伸びる。外露地から内露地、さらに不審庵の露地からなり、不審庵へと辿り、三重露地の典型になる。内路地の内腰掛前の飛石に趣がある。
 北東の内露地に不審庵、その西隣に残月亭、向かいに中門の梅見門を挟み、利休の坐像を祀る祖堂、隣接して点雪堂がある。祖堂と残月亭の間には萱門がある。
 利休が露地に据えた梟形手水鉢がある。この手水鉢は、清水寺仁王門前の手水を支えていた台柱を、豊臣秀吉に願い出て譲り受けたという。
 ◈「祖堂」(重文)は、江戸時代、1788年に建立された。利休の坐像が祀られている。
 ◈茶室「点雪堂」は、祖堂に隣接している。江戸時代、1789年に建てられた。邸内最古の建物になる。一畳台目板入、反古張(ほごばり)りの席がある。
 ◈茶室はほかに、「残月亭(ざんげつてい)」、「松風楼閣」、「七畳敷」、「九畳敷」などがある。
 ◈「表門」は、かつて紀州家の門だったという。江戸時代、1822年に竣工した。9代・了々斎が仕えた紀州・徳川治宝により移されている。出窓は、右に武者窓、左に連子窓が開く。白壁に虫籠窓(むしこまど)、太い虹梁がある。
 重層門、入母屋造、屋根は起り(むくり)になる。
◆今日庵・裏千家 裏千家家元の茶室「今日庵」(重文)がある。少庵と3代・宗旦は、当初、現在の不審庵の地に住む。少庵は宗旦に「不審庵」を譲る。江戸時代、1646年に宗旦は「今日庵」を建て隠居し、この地に住んだ。その後、今日庵は宗室が継いだ。
 今日庵の席名は、大徳寺170世・清巖宗渭(せいがん-そうい、1588-1662)の偈「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず)」に因む。さらに、宗旦の建てた利休茶室「又隠(ゆういん)」が、江戸時代、1653に復元され、宗旦は再び隠居した。今日庵は1788年に焼失し、1789年に再建されている。
 裏千家の呼称について、今日庵は不審庵(表千家)の北裏にあたり「裏千家」と呼ばれる。今日庵に当初、門はなく、不審庵の門より、北裏に通じた今日庵に入っていた。
 ◈今日庵は、露地内に茶室・今日庵のほかに、複数の茶室が点在する。これらの総称として裏千家・今日庵があると位置付けられている。今日庵も利休茶室の復元であり、わずか二畳、正しくは一畳台目という一回り小さな畳により、極限の狭さが具現されている。
 床なし釣棚なしの一畳台目、勝手付きに下を簀の子流しの水屋洞庫、露地側に二枚戸、手前座の先に向板、風呂先窓、連子窓が開く。向板の横に中柱を立て袖壁を付けている。
 ◈茶室としてはほかに、「又隠席(ゆういんせき)」(四畳半)、「寒雲亭(かんうんてい)」(八畳)、「利休堂」(三畳中板)、「咄々斎(とつとつさい)」(八畳)などがある。
 ◈庭園(国名勝)は、玄関までの前庭に鴨川の真黒石を敷き詰める。邸内の各茶室をつなぐ形で露地がある。内露地に利休遺愛の小袖手水鉢、角型利休石灯籠などが据えられる。菊の井の井筒があり、躙口付近には飛石がある。
 ◈「表門」は兜門(かぶともん)とも呼ばれる。江戸時代、天保年間(1830-1844)、玄々斎が大徳寺・竜光院の門を写して造らせたという。
◆官休庵・武者小路家 「三千家」の一つ武者小路千家の「官休庵(かんきゅうあん)」は、千宗守居士遺蹟(上京区武者小路通小川東入ル)にある。官休庵は、流儀の別名にもなる。
 武者小路千家の祖・一翁宗守(いちおう-そうしゅ、1605-1676)は、宗旦の二男になる。江戸時代、1667年に讃岐・高松藩松平家茶堂を辞し、この地に庵を結ぶ。「官休」とは、仕官を辞したことを意味した。地名に因み、武者小路家と称した。庵は、江戸時代、1772年の安永の大火、1788年の天明の大火、1854年の嘉永の大火と3度焼失している。近代、1881年に11代 ・一叟宗守(一指斎、1848-1898)により現在の建物が再建された。1926年、9世・愈好斎(1889-1953)が改築した。
 ◈官休庵は、一畳台目の極限の空間であり、それを感じさせない工夫が施されている。妻に宗旦筆「官休庵」を掲げている。内部は一畳台目半板、下座床を構え、水屋洞庫、向切炉を備える。点前座背後に踏込み板(半畳)を添えた。火打形の茶道口がある。今日庵との違いは、向板を除き床を設け、半板を加えた。天井は踏込みの上を除き蒲天井を張る。半板の部分の壁出隅は塗り回しによる。入母屋造、瓦葺、一部軒先は杮葺。
 ◈露地は一指斎の指示による。内露地に四方仏の蹲踞がある。屋根が曲線の中門(編笠門)は4世・直斎の好みになる。檜皮葺。
 ◈ほかに半宝庵(はんぽうあん)、環翠園(かんすいえん)、行舟亭、祖堂、弘道庵などの茶室、茶座敷がある。
◆藪内家 藪内家(やぶのうちけ)は、下京区西洞院正面下ルにある。「下流(しもりゅう)」と呼ばれた。遠祖は藪内宗把(やぶのうち-そうは、 ?-?)、流祖は初代・剣仲紹智(けんちゅう-じょうち、1536-1627)になる。2世・真翁紹智(1577-1655)は、西本願寺の保護を得て、良如から寺領の一部を拝領した。当初は藪内町(下京区)にあり、その後、現在地(旧古田織部の別宅)に移る。以後、西本願寺の茶道師範になる。
 ◈邸内に、古田織部が剣仲に与えた茶室「燕庵(えんなん)」を移した。かつて、摂津葛葉の武田邸にあった写しの席という。
 織部好み、三畳台目、入母屋造、茅葺(銅板で覆う)。
 ◈邸内には絹熙堂(しゅうきどう)、須弥蔵、流祖像を祀る源霊閣などが建つ。
 ◈露地は、江戸時代初期に作庭された。待合から飛石、敷石が、燕庵、外、砂雪隠に続いている。
◆百々橋 小川通に百々橋の礎石遺構がある。かつて、付近に百々橋が架けられていた。
 百々橋が石橋になったのは近代、1907年の改築の際という。1963年に小川の下水道整備の際に埋め立てられた。その後、10年ほどは室町小学校に置かれている。1975年に、竹林公園(西京区)に移された。長さは7.3m、幅3.7m。
◆名水・茶の湯 小川通に名水・名井が湧き、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後に、この地に酒屋が軒を並べた。酒屋は土倉(金融)も兼業していた。
 茶の湯も生まれた。茶の湯に適した硬度、一時硬水が最適とされた。通りの北、寺之内通小川には、裏千家の「今日庵」、表千家の「不審菴」、千家十職などの屋敷が建ち並んでいる。
 京の三名水の一つ「梅の井」は、裏千家の邸内にある。名の由来は、井戸車の側面にある梅花文による。茶室「咄々斎」の五葉松の床柱、横に渡した丸竹により松・竹・梅の趣向もある。家元により、毎朝午前4時半に梅の井が汲まれ、湯が沸され点てられる。利休像に供えられる大福茶では、この井水が使われてきた。
◆茶道総合資料館 
「茶道(ちゃどう)資料館(裏千家茶道センター)」は、小川通の西の通・堀川通に面した本法寺に隣接する。1979年に開設された。財団法人今日庵が設置した。
 裏千家に関する茶道資料館、今日庵文庫(4万冊)があり、歴代家元が蒐集した茶道関係の史資料が展示されている。保管、調査研究、展示も行われている。1階に展示室と講堂、2階に今日庵文庫があり、図書閲覧室、書庫がある。
 鉄筋コンクリート造、二階建。
◆年間行事 表千家・利休忌(3月27日)、裏千家・利休忌(3月28日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都まちかど遺産めぐり』『京都大事典』『京の橋ものがたり』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』 、ウェブサイト「コトバンク」

 
大徳寺     総見院〔大徳寺〕     聚光院〔大徳寺〕     竜光院(龍光院)〔大徳寺〕     本法寺     宝鏡寺           一条戻橋       白峰神社     応仁・文明の乱戦跡・西陣              
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調査
map 小川通 京都市上京区 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   top 50音索引,Japanese alphabetical order  Home   top
© 2006- Kyotofukoh,京都風光