亀山公園 (嵐山公園) (京都市右京区)
Kameyama-koen Park(Kyoto Prefectural Arashiyama-koen Park)
亀山公園 (嵐山公園) 亀山公園 (嵐山公園)
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春の頃、亀山公園の展望台からの眺望、流れているのは保津川



嵐山の山桜

秋の風景




保津川下りの船


亀山天皇火葬塚


小倉百人一首の歌碑


角倉了以像



津崎村岡局像



「雨中嵐山」 
 嵐山の景勝地に亀山公園(かめやま こうえん)はある。正式には、京都府立嵐山公園という。公園内に、鎌倉時代の第90代・亀山天皇など3天皇の火葬塚があり、亀山公園とも呼ばれている。なお、天龍寺境内に亀山陵がある。 
 公園内の展望台からは、保津峡を望むことができる。園内にも桜とツツジが植えられている。
◆歴史年表 近代、1910年、京都府立嵐山公園(亀山公園)は開かれた。
 現代、1979年、周恩来の詩碑「雨中嵐山」が建てられた。
◆角倉了以 室町時代-江戸時代の海外貿易家・豪商・土木事業家・角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614)。与七、諱は光好、法号は了以。京都嵯峨生まれ。土豪(高利貸)・医者・吉田宗桂(そうけい)の長男。母は中村氏の娘。父は勘合貿易により薬も扱った。了以は算数・地理を学び、角倉家5代として家業を引き継ぐ。1592年、豊臣秀吉から朱印状を与えられた。1604年以降、徳川氏から朱印状を与えられた。1603年-1613年、弟・宗恂、長男・与一(素庵)らの協力により、安南国(ベトナム)トンキン(東京)との御朱印船(角倉船、400人乗り、800t)貿易により富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削(丹波-山城)を行う。保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓いた。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。通舟料を得て莫大な利益を得る。1608年、幕府の命により、富士川(駿河岩淵-甲府)疏通を完成させる。同年、天竜川(遠江掛塚-信濃諏訪)開疏は失敗した。1609年以降、貿易は子・与一に譲る。1610年、方広寺大仏殿造営の材木運搬のために、鴨川開削(水路化)を行う。1611年-1614年、高瀬川(京都二条-伏見)開削を行う。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年は、大悲閣(西京区)に隠棲し、開削川の通船の便益を念じたという。
 土木工事の技術に長けた。琵琶湖疎水(勢多-宇治)計画では、舟行、新田開発の腹案もあった。角倉家は河川通船支配権、倉庫料徴収での特許を得て有力材木商になる。京の三長者(ほかに、後藤四郎兵衛家、茶屋四郎次郎)の一人といわれた。墓は二尊院(右京区)にある。
 公園に角倉了以像がある。現在の像は1988年に建立された。初代は、第二次世界大戦中の資材供出で撤去されている。
◆津崎村岡の局 江戸時代末-近代の女性・津崎村岡局(むらおか の つぼね、1786-1873)。規子(のりこ、距子)。北嵯峨の大覚寺宮の家来・津崎左京の家に生まれた。1798年、13歳で公卿・近衛忠熈(ただひろ)に侍女として仕えた。その長である老女になり、「村岡」姓に改める。「近衛家(陽明家)の清少納言」(梅田雲浜)といわれた。1856年、篤姫(天璋院、島津斉彬養女)は、忠熈の養女資格で家定の室になる。局は養母格で江戸に下る。尊攘派の志士、近衛家、公卿との間の連絡に当たる。僧・月照、西郷隆盛らとも親しくし、2人を西国に逃がしたともいう。1858年、密勅(戊午の密勅)が徳川斉昭に降下した際に尽力した。1858年-1859年、安政の大獄に連座し、1859年、京都西町奉行所、その後、江戸町奉行所に投獄される。尋問の末、30日の永押込(ながおしこみ)の刑になる。天璋院の親代わりだったことから、その援助により釈放された。その後、一度帰京し、1863年、再び逮捕された。1864年、蛤御門の変で庵を出て主家に出仕する。以後、直指庵に隠棲し、付近の子女の教育に努めた。1872年、太政官より終身米を下賜される。安政の大獄の殉死者らの冥福を祈った。没後、1891年、贈従四位。「勤皇女傑」と称えられた。
 直指庵で「雨あられ激しく降れど軒深きわが家はそれと聞えざりけり」「すなおなる竹のはやしを朝夕に み都(つ)るこころのなとゆかむらん」と詠んだ。
 直指庵の本堂北、竹林の中に局の墓がある。嵯峨大沢池畔(右京区)に顕彰碑が立つ。嵐山の亀山公園(右京区)に銅像がある。1928年に立てられた。
◆周恩来 中国の政治家・周恩来(しゅう おんらい、1898-1976)。江蘇省の生まれ、叔父の養子となる。天津・南開中学に学ぶ。1917年、来日、東京の東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、明治大学政治経済科に通う。1919年、南開大学学生として五・四運動に参加し投獄された。1920年、フランス留学、1921年、中国共産主義青年団の創立に加わり、1922年、中国共産党入党。1924年、帰国。黄埔軍官学校の政治部主任代理、1925年、穎超(とうえいちょう)と結婚。1926年、北伐開始により上海で労働者の蜂起を指導した。1927年、上海クーデターで武漢に逃れ、中国共産党政治局委員に選出された。1927、朱徳らと南昌蜂起、広東蜂起を指導し、失敗、香港に脱れた。1931年、江西ソビエト区党中央軍事部長、第一方面軍政治委員。1934年、紅軍の大長征最高指導者、1936年、西安事件に際して、抗日民族統一戦線の結成に努めた。抗日戦争中は重慶に移り国共両党の調整にあたり、第二次世界大戦後、マーシャル・アメリカ特使の国共調停工作にも応じた。1949年、新中国成立後、国務院(政務院)総理兼外交部長。1966年よりの文化大革命で毛沢東を支持、1971年、林彪異変以降、脱文革化した。1971年、米中接近、国連加盟、1972年、日中国交正常化に尽力した。
 再来日後、京都の友人・三高生の呉翰濤宅に寄宿し、京都大学の聴講生になる。呉により、京都大学経済学部教授・河上肇の影響を受け、後の中国革命の一つの契機になったという。
 「雨中嵐山」の詩は、1919年4月、帰国を前にした周恩来が、嵐山を訪れた際に作られた。1979年、「周恩来総理記念詩碑建立委員会」により立てられた。
◆嵐山 嵐山の地名由来について、第23代・顕宗天皇の紀(450-487)の「歌荒樔田(うたあらすだ、宇太の樔田の田)」(『日本書紀』)より、「荒樔(あらす)」が「嵐」になり、「荒樔山」が「嵐山」なったともいう。
 また、「荒樔」とは、大井川の急流部の「荒瀬」にあり、大井川が「荒樔川」と呼ばれたことに因むともいう。大井川に流入する有栖川(ありすがわ)の「有栖」も、この「荒樔」に因むともいう。
◆亀山 亀山(かめやま)は公園内にある。亀尾山(かめのをやま)ともいう。山の形が亀に似ていることから名づけられた。
 歌枕になっている。「亀山の劫(こふ)を映して行く水に漕ぎ来る舟は幾代経ぬらむ」(「貫之集」一六四)。
◆源氏物語 『源氏物語』第19帖「薄雲」巻に登場する明石の君は、光源氏との間に生まれた姫君2歳、母・尼君とともに須磨より、大堰川(おおいがわ、桂川)の山荘に移り住んだ。「大堰川のわたりにありける」山荘になる。山荘は、亀山公園付近が想定されているともいう。嵐山へは、大内裏より6.3kmあり、牛車(5km/h)で1時間ほどになる。
 明石の君は、光源氏と出会うものの、自らは二条院に住むにはふさわしくないと思った。明石の君は山荘で光源氏と再会を果たす。だが、今度は、最愛の娘が紫の上に育てられることになる。
◆桜・楓 嵐山公園には桜1500本が植えられ、春には公園の桜と共に山桜、秋には山々の紅葉が知られている。
「雨中嵐山」 「
雨中嵐山」の詩碑がある。
 「
日本京都 一九一九年四月五日」
 雨中二次遊嵐山、両岸蒼松、挟着幾株櫻。到尽処突見一山高、流出泉水緑如許、繞石照人。瀟瀟雨、霧濛濃。一線陽光穿雲出、愈見姣妍。人間的万象真理、愈求愈模糊一模糊中偶然見着一点光明、 真愈覚嬌妍。
 
訳 雨の中を二度嵐山に遊ぶ/両岸の青き松に、いく株かの桜まじる/道の尽きるやひときわ高き山見ゆ/流れ出る泉は緑に映え、石をめぐりて人を照らす/雨濛々として霧深く/陽の光雲間より射して、いよいよなまめかし/世のもろもろの真理は、求めるほどに模糊とするも/―模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば、真(まこと)にいよいよなまめかし/(蔡子民訳)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京を彩った女たち』『源氏物語を歩く旅』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』『京都時代MAP 平安京編』 、ウェブサイト「コトバンク」


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