戸無瀬(となせ)の滝 (京都市右京区)  
Tonase Falls
戸無瀬の滝 戸無瀬の滝
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戸無瀬(となせ)の滝


 渡月橋の上流右岸(南岸)に「戸無瀬の滝(となせ-の-たき)」はある。かつての天龍寺蔵王権現堂の背後に位置している。
◆歴史年表 平安時代、戸無瀬の滝は和歌に多く詠まれた。
 室町時代前期、夢窓疎石(1275-1351)は、「天龍寺十境」の一つに滝を選んでいる。三段になって流れ落ちており、「三級巌」と名付けた。
 江戸時代、滝は『都名所図会』巻4、『都林泉名勝図会』巻5、「広重六十余州名所図会」にも描かれている。「戸難瀬」「戸灘瀬」とも書かれた。
 1606年、角倉了以の保津川の開削(世木-嵯峨)により 、滝の多くが削られたという。
 1830年、文政の地震により、滝の山手が崩れ、景色が損なわれた。(『甲子夜話』)
 近代、明治期(1868-)以降、山の整備工事によりかつての姿は失われた。
◆戸無瀬滝 「戸無瀬(となせ)」については、嵐山付近の地名であり、大堰川の古名ともいう。「戸難瀬」「戸灘瀬」とも記された。紅葉の名所としても知られた。
 滝を夢窓疎石(1275-1351)は、「天龍寺十境」の一つに滝を選んでいる。三段になって流れ落ちており、「三級巌」と名付けた。
 「戸無瀬滝」の名称由来については不詳。滝は天龍寺の正面背後にあたる。現在は、嵐山渓谷の櫟谷(いちだに)神社上流右岸の、蛇谷の西にある滝をいう。
 滝は三段になっており、「三段岩の滝」とも呼ばれた。一段は高さ27m、幅90㎝あったともいう。日照りが続くと流れは細った。また、大堰川の激流を表現したともいう。(『嵯峨誌』) 
 鎌倉時代中期、1255年旧10月27日の亀山上皇(第90代、1249-1305)による仙洞亀山殿の造営に際して、「戸無瀬の滝もさながら御墻(みかさ、御垣に囲まれた宮中)の内にみえて」(『増鏡』)と記されている。この「戸無瀬」は、大堰川の急流部分ともされ、戸無瀬川の意味ともいう。
◆歌 戸無瀬は歌枕として知られ、古くより歌に多く詠まれてきた。
 ◈「大井河かはべの紅葉ちらぬまはとなせの岸にながゐしぬべし」(『恵慶集』)(985-987頃)。
 ◈「嵐吹く山のあなたのもみぢ葉を戸無瀬の滝に落してぞ見る」(『家集』)、公卿・源経信(1016-1097)。
 ◈「となせ川音には滝と聞きつれど見れば紅葉の淵にぞありける」(『続古今集巻六、冬歌』)、堀川左大臣/公卿・源俊房(1035-1121)。
 ◈「となせよりながす錦は大井河いかだにつめるこのはなりけり」(『散木奇歌集』)、歌人・源俊頼(1055-1129)。
 ◈「雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の瀧の音まさるなり」(文応元年[1260年]毎日一首)、歌人・藤原為家(1198-1275)。
 ◈「嵯峨の山世々のみゆきの跡ふりて戸無瀬の滝のいともかしこし」(『挙白集』四)、歌人・木下長嘯子(1569-1649)。
◆千鳥ヶ淵 千鳥ヶ淵は、戸無瀬の滝の上流(430m余)にあったという。
 平安時代後期の女官・横笛(?-?)が武士・僧・滝口入道(斎藤時頼、?-?)を往生院に訪ねた。逢うことがかなわず身を投げた深い淵という。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都大事典』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 戸無瀬の滝 〒616-0007 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町12
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